砲台概略
シンガポール島南側は「東洋のジブラルタル」と称されるほどの重砲群とトーチカ群が構築されていた。それらはジョホール水道の東西の入り口と南部のシンガポール市街地周辺に配置されていた。 シンガポール島南側のラブラドール砲台もその一つであり、建設は1886年の英国植民地時代にさかのぼる。要塞へと続く通路の壁面は昔のまま残されており、当時はここに門が設置されていた。
1935年のイギリス軍の防衛体制見直しにおいてラブラドール砲台は防衛強化が決定された。 対岸のシロソ砦と対をなす形でケッペル港の西側の入り口を睨んでいる。
砲台は現在公園として整備されている。遊歩道の脇に「ラブラドル砲台」記念碑が立てられている。同様の戦争記念碑はシンガポール各地に11ヶ所立てられている。
ラブラドール砲台とシロソ砦に設置された計4門の6インチ砲の最大射程は14400mであった。射界のイメージ図である。
砲座
公園内には要塞砲を設置する砲床が複数残されており、分厚いコンクリートで周りが固められている。
同クラスの艦砲と要塞砲が撃ち合ったとき、要塞砲側が絶対的に有利であるのは当時の軍事学の常識であった。艦砲が艦体に被弾すればダメージを受けるのに対し、このような堅固なコンクリートで護られた要塞砲はよほどの直撃弾でなければ破壊できなかったであろう。
実際、シンガポール島への直接上陸は不可能と判断した日本軍はマレー半島から進攻した。
6インチ砲である。この砲はシンガポール市街北西側の軍用地の地下1mのところに埋まっていたところを2001年に発見されたものである。ラブラドール砲台に当時配備されていたものとは少し型式が違うらしいが、この場所に移送されて展示されている。
砲身にはガラスがはめ込まれており、内側の線条を見ることができる。公園内の説明板によると、艦艇の装甲を突き破るための徹甲弾は1門あたり500発備蓄していたが、地上に展開した歩兵を攻撃するための榴弾は50発程度しかなかった。
徹甲弾は硬い装甲を突き破った後に信管が作動するように設計されているため、柔らかい地表に着弾すると不発になることが多い。また、徹甲弾は装甲を突き破るための弾殻が厚く、炸薬量が少ない。例えば、大和の主砲弾である九一式徹甲弾の炸薬量は33.85kgに対し、零式通常弾(榴弾)は61.70kgである。
要塞砲は地形の影響で射界に制限はあるものの、360度旋回可能で日本軍陸上部隊に砲撃を行った。しかし、多くは徹甲弾であったため、効果を十分に発揮することができなかった。
トンネル
ラブラドル砲台には、丘をくりぬいて作られた英軍のトンネルが残されている。1886年に建設され、弾薬庫として使われた。丘の上の砲座に直接給弾するシステムが設けられていた。
入口からすぐのところには比較的大きな部屋がある。ここは現在展示室として使われている。シンガポール島内に築かれた要塞の位置を示す地図からは、要塞が海上進攻を想定して南側ばかりに築かれていたのがよく分かる。
当時の新聞である。日付は日本軍がマレー半島に上陸してシンガポールに向けて快進撃を続けていた1月であり、見出しは「ジョホールの最期の1インチになっても戦い抜く-チャーチル首相」である。
入口で貸し出される懐中電灯を持って奥のほうに進むと、内部はかなり薄暗い。通路は大人がすれ違える程度である。
発掘された砲弾や小銃弾が展示されている。
奥の方は壁が崩れたままになっていて生々しい。最低限の復元整備だけで公開されてる。
トーチカ
砲座が設置されている崖の下には、海岸から砲座への侵入を防ぐトーチカが設置されている。
トーチカの後ろの扉は鍵がかけられていて入れないが、銃眼から中をのぞくとコンクリート製の支柱が見える。機銃を設置する銃架として使われたものであろうか。
トーチカ内部から海岸方向を見たところである。現在は前方に埠頭ができ、コンテナ船が見える。
このトーチカの後ろの崖を右側に回りこむと、もう一つトーチカらしきものがあるが、こちらには説明板はない。内部は土砂で埋まってしまっている。