シンガポール中部の戦跡一覧
フォード自動車工場(OLD FORD FACTORY)
フォード自動車工場は昭和16年(1941年)10月にフォード社が東南アジアで初めて建設した自動車組立工場であった。しかし時代は戦争に傾きつつあり、工場は船積みされてシンガポールに輸送された英軍機の組立に使われることとなった。上陸した日本軍が島南東部のシンガポール市内に迫りつつある昭和17年(1942年)2月15日、ここフォード自動車工場で日英の司令官の間で降伏交渉が行われた。
館内には日英の司令官二人の銅像がある。英軍のパーシバル司令官が細身の体型であるのに対し、山下軍司令官は堂々とした体格であった。 山下の身長は174cm、体重は100kgを越えていたそうである。
シンガポール最後の日と題された漫画絵である。追い詰められた英軍兵士が「エングンハ ドウシタ チャーチル!バカヤロウ!」「モウ アカン」などのセリフを叫んでおり、混乱した英軍の様子が描かれている。
館内には当時の降伏交渉の様子を収めた写真が展示されている。
戦争が終わり、1947年に工場は操業を再開したが、1980年に工場は閉鎖された。降伏交渉が行われた部屋も荒れ果てた状態であったが、建物は修復されて2006年に博物館としてオープンした。修復前の部屋の様子を収めた写真である。
昭和17年(1942年)2月15日14時過ぎ、ブキテマ街道の第五師団正面に英軍軍使が到着し、シンガポール市庁舎での停戦交渉を提案した。しかし、山下司令官はパーシバル司令官にフォード自動車工場への出頭を求めた。交渉が行われた部屋である。現在では当時と同型の椅子が設置されている。
英軍は15日の時点でも約8万人の兵士が健在であったが、弾薬、食料、水が尽きかけていた。しかし、実は日本軍側も弾薬が尽きかけており攻撃続行が危ぶまれる状態であった。降伏交渉での山下司令官の「イエスかノーか!」のフレーズは当時の新聞を賑わせたが、山下司令官は英軍を降伏させるために敢えて威圧的な態度で臨んだのである。部屋の前に降伏文書のコピーが展示されている。
降伏文書には英軍の武器引渡しや、治安維持のための少数の武装兵を残すことを認めることなどの条件が記されている。文書の最後にはパーシバル直筆のサインが読み取れる。
銀輪部隊が使用した自転車である。進撃速度が重視された南方作戦では、現地の自転車を徴発し自転車部隊が編成され、銀輪部隊と呼ばれた。当時品質の良かった日本の自転車は東南アジア各地に輸出されており、故障しても部品調達が容易であった。使用されたのが一般的な家庭用の自転車であった様子がうかがえる。
日本軍兵士個人のものと思われる日の丸である。「必勝」や「武運長久」などの寄せ書きが隙間なく書き込まれている。
「フォード自動車工場(OLD FORD FACTORY)」の歩き方
MRT南北線ブキバトック駅(Bukit Batok)下車。駅の南側の線路と直角に交わるBukit Batok Centralを左折する。Bukit Batok Centralは左よりにカーブしていく。500mほどでBukit Batok East Ave.3との交差点があるので、ここを右折(東へ)する。
1kmほど進んだところのBukit Batok East Ave.6を左折してBukit Batok Nature Park方面へ。Bukit Batok East Ave.6を1.5kmほど進むとUpper Bukit Timah Rdに突き当たるので、そこを左折。500mほど進んだところに「OLD FORD FACTORY」の看板が見えてくる。
入場料:3ドル
休館日:なし
開館時間:09:00-17:30(月~金曜)
12:00-17:30(日曜)
HP: http://www.s1942.org.sg/s1942/moff/index.htm
(2010年現在)