ベトナムの首都はハノイであるが、最大の都市はホーチミンである。市人口は約712万人(2009年)である。ベトナム経済の中心地であり、日本企業も多く進出している。平成21年(2009年)のホーチミンのGDPは前年比8%の経済成長を達成し、ベトナムの国民総生産の約2割を占めている。
ホーチミンはベトナム南東部で南シナ海から40kmほど内陸に位置し、市内にはサイゴン川が流れる。ホーチミンは高速道路や鉄道などの交通インフラはまだまだ未整備である。市民の主要な足はバイクであり、夕方になると大通りはバイクで埋め尽くされる。中には一家が4人乗りしているバイクもときおり見かける。
ホーチミンは南北ベトナム時代には南ベトナムの首都サイゴンであった。ベトナム戦争が北ベトナムの勝利で終わった後、北ベトナムの指導者ホーチミンにちなんで現在の名称に改名された。現在でもサイゴンという名称は企業名や商品名として広く残っている。ホーチミン市は旧サイゴン市の近隣の町も含めた広域の都市名であり、現地住民の間では旧サイゴン市街地を指してサイゴンと表現することがあるようである。
昭和16年(1941年)12月の大東亜戦争開戦と同時に蘭印資源地帯の獲得を目的とした南方作戦が開始された。蘭印進攻に先立って、その手前に位置する英軍の一大根拠地シンガポールの攻略は必須であった。
シンガポールは要塞化されて直接上陸ができなかったため、日本軍はマレー半島に上陸して陸路でシンガポールを目指すマレー作戦を計画した。しかし、ここで計画の大きな障害になったのが最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と38cm砲を持つ巡洋戦艦「レパルス」を擁する英国東洋艦隊(Z部隊)であった。
当時日本海軍がこの海域に割くことができた戦力としては重巡洋艦や水雷戦隊のほか「金剛」と「榛名」の2戦艦があったものの、共に艦齢は27年を超えており英国東洋艦隊相手には明らかに力不足であった。制海権がイギリス側に抑えられてしまえば、上陸部隊ごと輸送船が撃沈されたり、補給ができずに上陸部隊が孤立してしまう恐れがあった。
12月8日、英国東洋艦隊は日本軍マレー半島上陸の報を受け、日本軍輸送船団攻撃のためシンガポールを出航した。戦闘機の上空護衛が得られない状態であったが、装甲の厚い戦艦を航空機で撃沈するのは不可能というのが当時の軍事学の常識であった。また、仏印の日本軍基地からマレー半島東岸までは約1000kmも離れていた。
英軍司令官はこれらから空襲の危険性は小さいと判断したのである。しかし、日本海軍の「九十六式陸上攻撃機」と「一式陸上攻撃機」の航続半径は約1800km(装備や機動により異なる)であり、英軍の予想を遥かに上回っていたのである。
12月10日未明、哨戒中の日本軍潜水艦「イ65」がマレー半島東岸で英海軍東洋艦隊を発見した。打電を受けたサイゴンの海軍第二十二航空戦隊は、9機の索敵機に続いて計84機の陸上攻撃機を発進させた。11時47分(現地時刻)、索敵機が英海軍東洋艦隊を発見し、各攻撃隊は2戦艦に殺到した。「プリンス・オブ・ウェールズ」には魚雷6本、爆弾1発、「レパルス」には魚雷5本、爆弾1発が命中し(イギリス側資料)、戦闘開始からわずか1時間半ほどで2戦艦は撃沈された。日本側の損害は5機が未帰還、1機が不時着大破であった。日本軍はこのマレー沖海戦で周辺の制海権を握ってマレー作戦を有利に進め、上陸からわずか2ヶ月強で英軍を降伏させ、シンガポールを占領した。
航空機が停泊していた戦艦を撃沈した例はこれまでにもあったが、作戦行動中の戦艦を撃沈したのはこのマレー沖海戦が初めてであった。水上艦艇の戦力が勝敗を決めるという大艦巨砲主義は完全に否定され、水上艦艇はもはや航空機の援護なしに敵制空権下を行動できなくなったのである。まさに航空機が主役となる時代の幕開けであった。
マレー沖海戦で陸上攻撃機部隊が発進した日本軍海軍基地は現在も空港として遺っている。山田部隊の一部、元山航空隊が配備されたサイゴン基地は、現在のベトナムの玄関口タンソンニャット国際空港である。美幌航空隊、鹿屋航空隊が配備されたツドウム基地はホーチミン中心地から30kmほど北の小さな町にあり、現在はベトナム軍が管理する飛行場となっている。山田部隊の主力が配備されたソクトラン基地はホーチミンから200kmほど南西にあったが、現在は飛行機の発着のほとんどないローカル空港として遺っているようである。