「十一年式軽機関銃 (11年式軽機関銃)」とは
「十一年式軽機関銃」は支那事変から大東亜戦争にかけて使用され、日本陸軍が初めて制式採用した軽機関銃である。
「軽機関銃」の登場
所謂「機関銃」とは弾丸を連続発射する事が可能な銃器である。
日露戦争(明治37年2月6日~明治38年9月5日)から実戦に本格使用され、第一次世界大戦(大正3年7月28日~大正7年11月11日)では大量に使用され、特に防御戦闘に於いては絶大な効果を発揮した。
これらの戦場に出現した当時の「機関銃」は、寸法・重量共に大きく、運用にも多数の兵士を必要とする為、迅速な移動が困難であり、専ら陣地に於いての防衛戦闘に使用されることが多かった。併しながら、第一次世界大戦に於いては、歩兵の前進に随伴して支援射撃を行う小型・軽量の「機関銃」が開発され、実戦に多数投入された。
結果、「機関銃」には、寸法・重量が大きく、命中精度・冷却性能にすぐれるものの、運用に多人数を必要とする「重機関銃」と、小型・軽量で運用が容易であるが、命中精度・冷却性能のやや劣る「軽機関銃」という区分が生まれた。
日露戦争後、日本陸軍では大正3年(1914年)に制式採用した「三年式機関銃」を装備していた。これは、銃身重量が25.6kg、三脚架と合わせると50kg近い重量があり、陣地での運用を前提とした、所謂「重機関銃」であった。
大正4年(1915年)に勃発した第一次世界大戦は塹壕を構築して対峙した両軍が寸土を奪い合う膠着戦になった。敵陣地に向かって突撃を繰り返す歩両軍の歩兵は鉄条網に阻まれ、「重機関銃」によってなぎ倒された。各国とも、突撃する歩兵を支援する火器の必要性を感じ、歩兵の前進に随伴可能な「軽機関銃」を開発、実戦に投入した。
大正8年(1919年)、日本陸軍に於いても、これら各国の動向から「軽機関銃」の必要性を認識し、開発を開始する事になった。
また、第一次世界大戦以降、陸上戦闘は中隊規模から小隊規模に変化しつつあった。結果、「軽機関銃」には中隊への火力支援から小隊への火力支援が求められるようになり、「軽機関銃」は小隊規模で運用する事が必要とされた。その為、「軽機関銃」はより小型・軽量であると共に、保守管理や弾薬の入手も容易で、価格が安く大量に装備可能であることが求められた。
「十一年式軽機関銃」の開発
既に、大正7年(1918年)、「三年式機関銃」を基にした「無筒式軽機関銃」が設計製造され、大正8年(1919年)にはこの「無筒式軽機関銃」に放熱用の筒を被せた「有筒式軽機関銃」が設計製造された。大正9年(1920年)、「有筒式軽機関銃」を用いて連続射撃時の銃身の放熱状況をを調べる実験が行われた。
その結果を基に、大正10年(1921年)、「有筒式軽機関銃」に給弾装置等の改良を行った「試製乙号軽機関銃」が設計製造された。
「試製乙号軽機関銃」を更に改良し、大正11年(1922年)、「十一年式軽機関銃」として制式採用された。設計は、東京砲兵工廠設計課長の南部麒次郎(当時少将・工学博士)により進められた。
本銃は国産で初めて日本陸軍に制式採用された「軽機関銃」であった。
本銃の制式採用によって、日本陸軍に「軽機関銃」という区分が生まれた。すでに装備されていた「三年式機関銃」は区分として「重機関銃」となる為、その名称が「三年式重機関銃」と改められた。
「十一年式軽機関銃」の特徴
本銃の最大の特徴はその給弾機構(ホッパー型弾倉)にあった。
本銃の弾薬は口径6.5mmの「三八式実包」を使用するが、これは当時の主力小銃であった「三八式歩兵銃」の弾薬と完全に互換があった。
「三八式実包」は5発を挿弾子(クリップ)に装着して使用された。
本銃の給弾は、機関部左側に装備されている装填架(弾倉)に「三八式実包」を挿弾子(クリップ)ごとに積み重ねて入れ、装填架(弾倉)に付属する圧桿(ハンドルの付いた強いバネの蓋)で上から押さえる事で行われた。
挿弾子(クリップ)は6個まで入り、これにより30発(5発×6個)の装填が可能であった。
この給弾方式の場合、別途に箱型弾倉(マガジン)・挿弾帯(ベルト)・保弾板等を必要とせず、弾薬も歩兵の小銃と同じ「三八式実包」をそのまま使用することが出来た為、本銃の弾薬に関して独自の補給系統は必要無かった。
この様な給弾方式は当時としては各国にも例を見ない画期的なものであった。
しかし、本銃がこの様な独特の給弾方式を採用した最大の理由は、当時の日本国内の兵器生産能力では大量のの弾薬や使い捨ての箱型弾倉(マガジン)を供給するのが困難だったという背景があった。
装填架(弾倉)の直ぐ横、機関部中央には弾薬への注油装置(油缶)が装備されていた。
これは「三年式機関銃」にも見られる機構であった。当時は機関銃自体が技術的に発展途上であり、射撃中に空薬夾が噛み込んで排夾されない現象(ジャミング)等の作動不良が頻繁に起こっていた。そこで射撃中に弾薬に潤滑用の油を塗布することで対策していた。
本銃はガス圧動作であり、弾丸発射の仕組みは以下の様であった。
左側の槓棹(ボルトハンドル)を引くと活塞(ロッド)が後退する。装槙架(弾倉)底部にある送弾子(弾薬送り装置)と遊底は活塞(ロッド)に刻まれた溝によって連動しており、遊底の前後運動に従って送弾子(弾薬送り装置)が一番下の挿弾子(クリップ)の右側の弾丸を左から右に機関部に送り込む。その際に円筒(ボルト)も後退し、撃発状態となる。
引鉄を引くと復座バネの力で円筒(ボルト)が前進し、弾丸を薬室(チェンバー)に送り込み撃発させる。
発射ガスの一部が銃身の銃口から13cm後方下部にある穴から下の瓦斯筒(ガスチェンバー)に抜け、内部の活塞(ロッド)を後部に押し下げる。この力で空薬夾が排夾され、さらに装填架(弾倉)底部の送弾子(弾薬送り装置)が次の弾丸を左から右に機関部に送り込む。この時、円筒(ボルト)も活塞(ロッド)と共に後退している。
引き金を引いた状態だと、復座バネの力が円筒(ボルト)を再び前進させ、機関部内の弾丸を薬室(チェンバー)に送り込み撃発する。
この作動を繰り返し連続発射する仕組である。
引鉄を離すと活塞(ロッド)が後退した状態で止まり、発射が止まる。
1個の挿弾子(クリップ)の5発を撃ち終わると圧桿(ハンドルの付いた強いバネの蓋)によって次の挿弾子(クリップ)が降りてくる。
以上の様に、銃身下部の瓦斯筒(ガスチェンバー)を通る発射ガスの力は、機関部の活塞(ロッド)と円筒(ボルト)を押し下げる。押し下げられた活塞(ロッド)と円筒(ボルト)は復座バネの力で再び前進し排夾、装填、撃発を繰り返す。
その為、本銃の様なガス圧動作の機関銃は瓦斯筒(ガスチェンバー)を通る発射ガスの量を調整する事でこれら一連の作動の速度・強さを調整する事が出来る。
そこで、本銃の瓦斯筒(ガスチェンバー)前部には規整子が装備されていた。
規整子とは、瓦斯筒(ガスチェンバー)を通る発射ガスの量を調整する部品であった。瓦斯筒(ガスチェンバー)内に設けられた穴の大きさを段階的に変える事で発射ガスの量を調整出来、穴の大きさはの5段階(1.0mm・1.5mm・1.8mm・2.0mm・2.8mm)で、穴が大きくなるほど通る発射ガスの量が増え、作動が強くなった。表示は1番(最弱)~5番(最強)であった。
規整子は発射速度の調整が目的ではなく、発射時の汚れで作動が悪くなる場合、発射ガスの量を調整して強くし、作動を安定させるものでった。通常は1番(最弱)にしておき、連続発射による汚れで作動が鈍ってきた場合に一段階強くした。再び作動が鈍ってきた場合は更に一段強くした。以下、これを繰り返して作動を安定させた。
本銃には銃身を被う放熱筒の先端に二脚架が装備されていた。
この二脚架は2段に高さを調整出来、通常はこれを用いて運用したが、機関部左側に装備されていた装填架(弾倉)の重みによって左に傾く事があった。特に射撃時は反動の為にこの傾向が強かった。この為、専用の三脚架が用意された。この三脚架は重量6.5kg・最低高さ338mm・最高高さ1228mmであり、伏射・対空射撃が可能であったが、生産数は少数で、あまり普及しなかった。
銃杷(グリップ)と銃床の形状も独特であった。
一般的な機関銃は機関部の後ろに銃床が装着されているが、本銃の場合は銃杷(グリップ)の途中に銃床が装着されていた。この形状は銃床前部を左手で楽に固定でき、射撃姿勢も低くできた為、射手の評判は良く、一部の古参兵士には後に登場する「九六式軽機関銃」 「九九式軽機関銃」よりも撃易いという評価を得ていた。
また、銃床が右にクランク状に曲がっており、銃手が右肩に銃床尾部を当てると本銃は体の真ん中にきた。銃身の右側に目視用の固定照準器(アイアンサイト)が装備されていたので、顔を傾ける必要がなかった。固定照準器(アイアンサイト)が銃身の右側にあったのは弾薬への注油装置(油缶)が機関部中央に装備されていた為であった。
更に、銃床と銃杷(グリップ)の結合部の鋲を抜き、銃床を上下反転させて再結合する事で、潜射銃(塹壕の中から射手が体を出さずに射撃できる)として運用する事も出来た。
本銃には以下の付属品が用意された。
・銃口蓋:銃口に装着する鋼鉄製の覆いで、筒状のものに開閉可能な蓋が付いていた。緊急時は蓋を開ければ装着したままでも射撃可能であった。
・銃覆:銃全体を覆う麻布製の袋。
・負革:運搬する際に使用する皮製の肩かけ紐(スリング)。
・握皮:加熱した銃身を握る際に使用した。内側の石綿(アスベスト)に金属網を被せて、外側に牛革を張ったもの。
・装填架嚢:装填架(弾倉)を分離して収納する牛革製の袋。行軍時の砂塵の進防止と、駄載(馬の背に乗せる事)時に馬の背に干渉する為、装填架(弾倉)を外した。
・手入具:整備用の鉄製工具、麻布製の袋に入れて携帯した。さく杖(3分割)・小型ハンマー・油缶・ブラシ・ピン抜などがあった。
・予備銃身:1本。交換には時間を要した。
・弾薬箱(歩兵用):弾薬盒・弾薬匣の2種類があった。
弾薬盒は銃手や弾薬手の皮帯(ベルト)に装着し、60発収納できた。麻布製で、「三八式歩兵銃」用後弾盒と同程度の大きさであった。
弾薬匣は鉄製の箱で120発収納出来た。
・弾薬箱(騎兵用):360発収納出来、馬一頭に4箱駄載出来た。
銃手は本銃の他に、上記のような付属品を携帯した。
背嚢に予備銃身を装着し、平たい属品嚢を腰に付けた。更に、弾薬150発を収容嚢に入れて肩から提げ、弾薬盒(60発)を1個装着した。
護身用に「二十六年式拳銃」を装備し、「三十年式銃剣」も帯びた。
「十一年式軽機関銃」の生産と部隊配備
本銃の部隊配備は大正12年(1923年)から行われ、同年中に全国の全ての大隊に1丁ずつ、翌大正13年(1924年)中には各中隊に1丁ずつが配備された。当初の本銃の生産は東京砲兵工廠に於いて月産100挺程であったが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災によって小石川にあった東京砲兵工廠が全焼し、本銃の配備は振るわなかった。10月までに生産再開したものの、震災前までの生産能力に達したのは大正15年(1925年)だった。
本銃の価格は、大正15年(1926年)度は950円(同時期の「三八式歩兵銃」は約80円)であった。その後量産が進むと価格も下がり、昭和3年(1928年)度は710円、昭和7年(1932年)度は650円であった。量産は順調に進み、満州事変(昭和6年)までに約5000挺生産された。満州事変以降の昭和15年(1940年)には月産1000挺が生産可能であった。
「十一年式軽機関銃」の問題点
本銃の初陣は、昭和6年(1931年)9月18日に勃発した満州事変であった。
ここで、本銃は問題点を露呈する事になった。
本銃の給弾方式はホッパー型の装弾架(弾倉)を用いていたが、装弾架(弾倉)内部は外部に対して露出していた為、外部から侵入した砂塵・粉塵が弾薬に付着した。更に弾薬には潤滑用の油が塗布される為、この様な弾薬が薬室(チェンバー)に送り込まれると、本銃の作動部に油まみれの砂塵・粉塵が溜まり、作動不良の原因になったのである。
特に満州の戦場では砂塵・粉塵の多く、本銃の作動不良が相次いだ。
本銃は小隊支援火器と位置づけられていただけに、戦闘中に作動不良が多発するのは重大な問題であった。日本陸軍は専門の対策委員会を発足し、前線にも故障対策班を派遣したが、本銃の機構構造が複雑であった為、根本的な解決には至らなかった。
本銃の採用した給弾方式はこれ以後採用される事は無く、後継となる 「九六式軽機関銃」の開発に於いては、箱型弾倉による給弾方式が採用された。
また、本銃は、機関部に侵入した砂塵・粉塵による作動不良以外にも、排莢不良による突込みという故障が頻発した。
これは、撃発時に膨張した薬莢が薬室(チェンバー)に張り付いて千切れる(薬莢裂断)と、そこに次弾が送り込まれて詰まってしまうという故障であった。これは、本銃が使用していた口径6.5mmの「三八式実包」の薬莢が(各国と比較して)僅かに薄い為であった。
この薬莢裂断の対策として、本銃の弾薬は装薬を減らした減装弾(「三八式実包減装弾」)を使用せざるを得ず、「三八式歩兵銃」との弾薬の互換性も失われてしまった。この問題は、後に「九六式軽機関銃」に於いても起こり、薬室(チェンバー)に改良を施すまで解決しなかった。
更に、本銃は部品点数も多く、戦場での分解・整備にも手間がかかった。特に装填架(弾倉)は約50の部品から構成されている複雑な機構であった。
特に、本銃は銃身交換の作業にも時間がかかり、それは容易ではなかった。
「重機関銃」よりも冷却性能に劣る「軽機関銃」は連続発射による銃身の加熱が著しく、加熱した銃身は膨張によって銃身内の腔綫(ライフリング)の磨耗が進み、命中精度も落ちた。そこで、戦場に於いてはすばやく予備銃身と交換する事が必要であった。
特に、当時は鋳造技術の低さから銃身命数が低く、本銃は約300発の連続射撃で銃身の温度が約300℃になった。銃身交換が困難であるという事は、連続発射を要求される「軽機関銃」には重大な問題であった。
ただし、本銃の場合、作動不良の多発からその様な連続射撃が困難であり、銃身交換が困難であるという事はさほど目立つ欠点とはならなかった。
しかし、これは逆に本銃の作動不良が如何に多かったかを示すものであった。
大東亜戦争当時、国内で戦意高揚映画「シンガポール総攻撃」が上映された。
劇中で戦闘中の本銃が故障(突込み)を起こし、銃手がお守り代わりに内地から持ちこんでいた恋人のかんざしを使って修理し、大勝利を得るというシーンがあった。戦意高揚映画に於いてさえも本銃の故障が取り上げられているのは、本銃の作動不良の多さが周知の事実であったという皮肉であろうか。
「十一年式軽機関銃」のその後
当初(昭和3年)、1個分隊は4班で編成され、1班は3人で編制されていた。この分隊(12人)が4個で1個小隊を編成し、内2個分隊にそれぞれ軽機関銃1挺を配備していた。即ち、2個軽機関銃分隊が小隊(4個分隊・48人)全体に対して火力支援を行っていた。
満州事変以降は戦闘の形式が小隊規模から分隊規模へと細分化した。分隊が戦闘の最小単位になった場合、各分隊に1挺の軽機関銃が配備されるのが望ましく、更に、軽機関銃は突撃行動も含めた歩兵の戦闘行動に随伴出来る事が求められた。
本銃を保持して突撃行動をとる場合、射手は左手で銃身(又は瓦斯筒)を持たねばならなかったが、射撃後に過熱した銃身を手で持つことは不可能であった。
そこで、この様な場合に銃身を握るための握皮(内側の石綿に金属網を被せて、外側に牛革を張ったもの)が用意され、銃身後部に装着した。
併しながら、本銃は装填架(弾倉)が機関部左側にあり、銃床が右にクランク状に曲がっていた。その為、重量バランスが悪く、他国の軽機関銃と比べたら持ち運びが難しかった。
本銃は作動不良を始め、幾つかの問題を抱えていたものの、当時の製造工程は殆ど手作業あり、熟練工による仕上げは非常に良く、本銃の射撃時の命中精度は非常に高かった。
後継の「九六式軽機関銃」や 「九九式軽機関銃」が開発されて配備されていくと、本銃は次第に第一線からは退いていったが、訓練用や後方部隊では使用され続け、大東亜戦戦争末期には軽機関銃の不足から、再び第一線の部隊に配備されていった。
本銃の派生型として「九一式車載軽機関銃」があった。
これは、地上用の本銃を車載用として転用したものであった。機関部は本銃をほぼそのまま採用し、銃床と二脚架を取り外し、1.5倍の光学照準器と防楯を装備していた。また、挿弾数は本銃の30発から45発に増やされた。
「八九式中戦車」「九二式重装甲車」「九四式軽装甲車」などに装備された。
「十一年式軽機関銃」の性能
重量:10.3 kg 口径:6.5mm 銃身長:44.3cm 全長:110.0cm
装弾数:30発(6個の挿弾子)
発射速度:500発/分 初速:736 m/s 最大射高距離:3700m 有効射高距離:800 m (三八式実包・弾頭重量約9g)
作動方式:ガス圧動作ピストンオペレーテッド
製造数:約29000挺(~昭和16年)