「九六式軽機関銃(96式軽機関銃)」とは
「九六年式軽機関銃」は支那事変から大東亜戦争にかけて使用さた日本陸軍の軽機関銃である。
「十一年式軽機関銃」に換わる軽機関銃
日本陸軍では日露戦争・第一次世界大戦に於ける各国の戦訓から、大正11年(1922年)に初めて制式採用された軽機関銃である口径6.5mmの「十一年式軽機関銃」の部隊配備を開始した。この時期の軽機関銃の配備は各国の動向を先取りしており、先見性のあるものであった。
併しながら、この時、日本陸軍が制式採用した 「十一年式軽機関銃」は給弾機構が複雑で作動不良が多く、これに換わる、より信頼性の高い軽機関銃の必要性が高まった。
「九六式軽機関銃」の開発
昭和6年(1931年)9月18日、満州事変が勃発し、前線では、この時装備していた 「十一年式軽機関銃」が使用されたが、の給弾方式や機構の複雑さから作動不良が相次いだ。
この時に中国軍が装備していた「ZB26軽機関銃」(チェコ軽機)は特に優秀で、双方の軽機関銃が撃ち合う様な場面では、日本軍の「十一年式軽機関銃」が圧倒される事がしばしばであった。現地の日本軍部隊は、この「ZB26軽機関銃」(チェコ軽機)を「無故障軽機関銃」と呼ぶほどであった。
日本陸軍では、「十一年式軽機関銃」の作動不良多発に対して前線に故障対策班を派遣するなどして対応したが、根本的な解決には至らなかった。
そこで、昭和6年(1931年)、より信頼性の高い軽機関銃を開発する事になった。
開発は昭和7年(1932年)から開始された。
当初、小倉造兵廠(陸軍造兵廠)・南部銃製造所(南部麒次郎中将が起こした会社・現在の新中央工業)・東京瓦斯電気工業(現在の日立)・日本特殊鋼(現在の日特金)の各社による競争試作であった。
昭和8年(1933年)、各社の試作銃の比較審査の結果、陸軍造兵廠と南部銃製造所に試作銃の改良が指示された。
この時、開発促進の為、南部銃製造所に陸軍技術本部が加わり、陸軍造兵廠と南部銃製造所による各試作銃の長所を取り入れて改良設計したA号銃を南部銃製造所が製作、B号銃を陸軍造兵廠が製作した。両銃は昭和10年(1935年)夏までに完成し、各種試験が繰り返され改良がなされた。
A号銃(南部銃製造所)が、軽量かつ耐久性・機能性など技術的に優れていたため、その後は中央工業(南部銃製造所が昭和11年に社名変更)が主となって、A号銃(中央工業)に更なる改良を加えた試作機関銃の開発が進められた。
そして、昭和10年(1935年・皇紀2596年)、この年の皇紀の下2桁を採って「九六式軽機関銃」として制式採用された。実際の制式化は昭和13年(1938年)6月となった。
この時採用されなかったB号銃(陸軍造兵廠)は後に「九七式車載重機関銃」の開発へ繋がった。
「九六式軽機関銃」の特徴
本銃の給弾方式は、「十一年式軽機関銃」に於いて作動不良多発の原因となったホッパー型弾倉による給弾方式は採用せず、30発入りの箱型弾倉(バナナ型)による給弾機構方式を採用した。箱型弾倉は機関部上部に装着され、弾薬が装填された。排莢は機関部右側から行った。
箱型弾倉の採用により、弾薬に粉塵・砂塵が付着し難くなり、弾丸への注油装置(油缶)は廃止された。
また、機関部はガス圧動作式であった。
弾薬は、口径6.5mmの「三八式実包」を使用するが、当初は故障(排莢不良による突込み)多発の為、 「十一年式軽機関銃」同様に減装弾(「三八式実包減装弾」)を使用せざるを得なかった。
銃身部には放熱用のひだ(フィン)が装備されており、射撃直後は加熱して直接手で持つ事は出来なかった。 「十一年式軽機関銃」では握皮(石綿と牛革で作られた握り用の用具)が用意されていたが、本銃では捉把(握り)が銃身基部に装備されていた。
本銃の特徴の一つは、銃身内部にクロームメッキ処理が施されていた事であった。これによって、銃身内の磨耗に対する耐性が高まり、銃身寿命が向上した。
更に、銃身基部のラッチを解放し、捉把(握り)持って引き抜く事により簡単に銃身交換が出来た。
本銃のもう一つの特徴としては、着剣装置が装備され、銃口下部に銃剣( 「三十年式銃剣」)を装着する事が出来た事であった。
本銃の後に開発された「九九式軽機関銃」にも同様の着剣装置が装備されていた。当時の各国の陸軍に於いて、軽機関銃にこの様な着剣装置を装備したのは日本陸軍のみであった。併しながら、重量が10kg近い軽機関銃に銃剣を装着しても、これを白兵戦に用いる事は非現実的であり、着剣装置装備は運用上は意味の無い装備と言わざるを得なかった。
軽機関銃への着剣装置装備に関しては、現在、資料が散逸している為、真の目的は定かではないが、以下の事が考えられる。
満州事変以前(~昭和3年)に於ける歩兵1個分隊は4個班で編成され、1個班は3名で編制されていた。1個分隊(12名)が4個で1個小隊を編成し、内2個分隊にそれぞれ軽機関銃1挺を配備していた。即ち、2個軽機関銃分隊が小隊(4個分隊・48名)全体に対して火力支援を行っていた。
これに対して、満州事変(昭和6年)以降は戦闘の形式が小隊規模から分隊規模へと細分化した。この戦訓を取り入れ、、昭和12年(1937年)、改定歩兵操典草案が編纂され、日本陸軍の軽機関銃の運用は各分隊に1挺の軽機関銃を配備して、分隊ごと火力支援を行うようになった。即ち、軽機関銃は分隊の歩兵に常に随伴する事になり、歩兵と同様の戦闘行動をとるようになった。
つまり、歩兵の突撃行動時には、本銃の銃手も本銃を保持して他の歩兵と共に突撃行動に参加する事が求められるようになったであった。
既に配備されていた「十一年式軽機関銃」には加熱した銃身を保持する為の握皮(内側の石綿に金属網を被せて、外側に牛革を張ったもの)が用意された。本銃には銃身を保持する為に銃身基部の捉把(握り)が装備された。突撃時には捉把(握り)を左手に持ち、負皮(肩掛け用ベルト)を一杯に張り、本銃を前に突き出す形で腰だめに抱え、右手で銃杷(グリップ)を握る様に定められた。
また、突撃行動では、歩兵は着剣した小銃を携帯して突撃したが、通常、敵から発見される事を防ぐ為、突撃時には射撃は行わない事とされており、着剣した小銃からは弾薬を抜いていた。この様な突撃行動に参加する軽機関銃の銃手にも同様の事が求められたが、軽機関銃から弾薬(弾倉)を抜いた場合、無防備になってしまい、軽機関銃にも銃剣の装着が必要だと考えられたのではないだろうか。その結果、着剣装置が装備されたと思われる。
当時のポスター(陸軍省発行・第36回陸軍記念日ポスター)に、本銃(?)を構えた兵士が突撃する絵が描かれている。
これを見ると、本銃に銃剣が装着されているのが分かる。また、この兵士は銃身を保持するのに捉把(握り)では無く、握皮の様な物を使用して銃身自体を握っている。更に、弾倉は装着されていない事が見て取れる。負皮(肩掛け用ベルト)は使用しておらず、本銃の保持姿勢は必ずしも教本どおりの動作ではないが、この絵から、当時の突撃行動に於ける本銃の運用の雰囲気を知る事が出来る。
これを見ると、突撃行動に於いて、本銃の銃手は着剣した本銃を銃剣として運用していたと考えられる。
これに対して、本銃の着剣装置に関しては白兵戦に於ける銃剣としての運用が目的ではなく、射撃時の安定性を確保する為のバラストであった、と言う説がある。
これは、本銃は重量的に機関部が重く、銃身部が軽い為、射撃時に銃口がぶれやすかった。
これは本銃に限らず、軽機関銃の場合はその構造上から根本的にそのような傾向があった。そこで、着剣装置を使用して銃剣を装着すると、これがバラストとなって銃身部が安定し、射撃時のぶれが少なくなると言うものである。更に、銃剣( 「三十年式銃剣」)はほぼ全ての兵士が装備しているので、特別にバラストを用意する必要もない。
しかし、当時の、資料や訓練にはそのような運用に関する記述はなく、銃剣を射撃時のバラストとして使用する事が設計当初から考えられていたかを示す資料はない。
結論として、満州事変(昭和6年)以降、歩兵戦闘が小隊単位から分隊単位へと細分化し、軽機関銃が分隊支援火器として位置づけられていく過程(昭和10年~11年頃)に於いて、本銃も分隊の歩兵と戦闘行動を共にする事になった。
特に歩兵の突撃行動を重要視する日本陸軍では、本銃が分隊の歩兵と共に突撃行動に参加する必要性を感じ、実用性は乏しいものの、本銃を銃剣として運用する場合の事を想定し、結果として本銃に着剣装が装備されたと考えられる。
軽機関銃が小隊や中隊の支援火器であった頃(大正11年・1922年)に開発された 「十一年式軽機関銃」には着剣装置は装備されておらず、本銃の開発初期(昭和6年~8年頃)にも着剣装置に関する記録は特に残っていない。
これらの事からも、本銃への着剣装置の装備は、軽機関銃が分隊の支援火器として位置づけられていった時期(昭和10年~11年頃)との関連が伺える。
ただし、実際に銃剣を装着して射撃た場合は安定性が良く、命中精度が向上したという事が、当時の兵士の個人的記録や戦後の実験に於いて指摘されている。射撃時のバラストとして銃剣を使用することは、前線の兵士の知恵から生まれ、実際に前線で行われていた様であった。
また、本銃には、倍率2.5倍の照準眼鏡(「九六式照準眼鏡具」)が用意された。
これは、日本陸軍では軽機関銃の運用は点射による狙撃を主としていた為であった。箱型弾倉が機関部上部にある為、この照準眼鏡は射手から見て機関部左側に装着され、目視用の固定照準器(アイアンサイト)は機関部右側に装備されていた。照準眼鏡の生産は、大宮第一工廠(陸軍工廠)・日本光学・東京光学・、高千穂光学・榎本光学・富岡光学などが行った。軽機用眼鏡は狙撃銃眼鏡と同じく、各銃に合わせてあり、照準眼鏡には調整装置がなかった。
本銃は、その開発背景から、チェコスロバキア(当時)製「ZB26軽機関銃」を模倣した軽機関銃であった、と言われる事がある。併しながら、本銃は、形状的には「ZB26軽機関銃」に類似する点もあるが、機構の多くには本銃独特の特徴が見られ、本銃が「ZB26軽機関銃」の単なるコピー品であるという評価は誤りである。
弾倉は「ZB26軽機関銃」と同じ箱型弾倉であるが、装弾数は「ZB26軽機関銃」が20発に対して本銃は30発であり、排莢は「ZB26軽機関銃」が機関部下部から行ったのに対して本銃は機関部右側から行った。
また、本銃は銃身内部(銃腔)に入念なクロームメッキ処理が施されていた事が大きな特徴であった。これにより、銃身内の磨耗に対する耐性が高まり、銃身寿命が向上した。
更に、「十一年式軽機関銃」同様、本銃にも瓦斯筒(ガスチェンバー)前部に規整子が装備されていた。
規整子とは、瓦斯筒(ガスチェンバー)を通る発射ガスの量を調整する部品であった。瓦斯筒(ガスチェンバー)内に設けられた穴の大きさを段階的に変える事で発射ガスの量を調整出来、作動の速度・強さを調整できた。規整子は発射速度の調整が目的ではなく、発射時の汚れで作動が悪くなる場合、発射ガスの量を調整して強くし、作動を安定させるものでった。
「九六式軽機関銃」の改良
本銃は口径6.5mmであり、弾薬は「三八式普通実包」が使用可能であったが、当初は、 「十一年式軽機関銃」と同様「三八式実包減装弾」を使用した。
「三八式普通実包」は、各国の後継6.5mm級実包と比較して薬莢が僅かに薄い為、撃発時に膨張した薬莢が薬室内に張り付いて千切れる事(薬莢裂断)があった。連続射撃中の軽機関銃で薬莢裂断が発生すると、そこに次弾が装填され、詰まってしまう故障(突込み)の原因になった。
本銃が「三八式普通実包」を使用した場合、この故障(突込み)が頻発した。これは、同様に「三八式普通実包」を使用した「十一年式軽機関銃」からの問題点であり、対応策として、装薬を減らした「三八式実包減装弾」を使用せざるを得なかった。
この様に「十一年式軽機関銃」同様、またもや専用の減装弾を使用したことで、本銃は「三八式歩兵銃」と同じ口径6.5mmでありながら、弾薬の互換性が無くなってしまった。
その後、支那事変において中国軍が使用していた「ZB26軽機関銃」を鹵獲して調査したところ、微妙に薬室のテーパー値を変化させている事が判明し、早速、本銃にも同様の改良が実施された。この後に生産された本銃では薬莢の張り付き問題が幾分解消された。以後、減装弾使用は不要となり、「三八式実包減装弾」の生産は中止された。
その結果、本銃にも「三八式普通実包」の使用が可能となり、「三八式歩兵銃」との弾薬の互換性が持てるようになった。この事は、特に分隊支援火器位置づけられていた本銃にとっては非常に重要な事であった。即ち、分隊内の火器(「三八式歩兵銃」と本銃)が同じ弾薬を使用するなら、本銃の弾薬に関して独自の補給系統は必要無く、弾薬の補給が容易になった。
また、分隊内で弾薬の融通を図る事も可能になった。そこで、「三八式歩兵銃」用の挿弾子(クリップ)に装着された弾薬(「三八式普通実包」)を、本銃の弾倉に装填する為の挿弾器が用意された。本銃の弾倉は使い捨てず、空になった弾倉に、弾薬を装弾器で装填して再使用した。
実戦に於ける「九六式軽機関銃」
本銃は本銃は、「十一年式軽機関銃」に替わる分隊支援火器として、各分隊に配備された。
「九六式軽機関銃」1個小隊(4個分隊)の内、3個分隊に本銃を1挺ずつ配備し、1個分隊には擲弾筒を2~3門配備した。併しながら、それでも全ての必要数を満たす事は出来ず、不足分は「十一年式軽機関銃」で補われた。しかし、それでも軽機関銃が不足していた為、2個軽機分隊と2個擲弾筒分隊で編成された小隊もあった。更に、擲弾筒も不足していた為、、ノモンハン事件前後では、2個軽機分隊、1個擲弾筒分隊、1個小銃分隊(軽機関銃・擲弾筒無し)で編成された小隊もあった。
銃手は本銃の他に、清掃整備用具を収めた小型帆布製収容嚢を腰に装着し、弾倉収容嚢(弾倉2個)と照準眼鏡(「九六式照準眼鏡具」)を収めた帆布製固形収容嚢を肩から提げた。
護身用に「十四年式拳銃後期型」を装備し、「三十年式銃剣」も帯びた。銃剣は本銃に装着することも出来た。
本銃は、その製造工程に於いて、日本国内の工作機械の精度の低さを職人の手作業で補った為、各国に類を見ない程の高精度に仕上げられた。その結、本銃の命中精度は非常に高かった。また、後に、本銃の排莢不良等の問題が解決されると、本銃はその信頼性・命中精度の高さから前線の兵士から絶大な信頼を得た。故障も少なく、命中精度の高い本銃は、前線では日本軍の分隊支援火器として活躍し、敵からは恐れられた。
やがて、日本陸軍が歩兵用小火器の弾薬を、口径6.5mmからより威力の高い口径7.7mmへと変更することを決定し、小銃は口径6.5mmの「三八式歩兵銃」に替わって口径7.7mmの「九九式小銃」が開発され、軽機関銃は口径6.5mmの本銃に替わって口径7.7mmの「九九式軽機関銃」が開発された。
併しながら、これら口径7.7mmの歩兵用小火器は十分な数が揃うまで全ての部隊に行き渡たらず、多くの部隊では、口径6.5mmの歩兵用小火器を装備し続けた。昭和14年(1939年)に後継の「九九式軽機関銃」が開発された後も、本銃の製造は続けられ、昭和17年(1942年)には約8500挺が製造され、昭和18年(1943年)までに約41000挺が製造された。
本銃は、支那事変から大東亜戦争全期間を通じて、日本陸軍の分隊支援火器として、あらゆる戦線で活躍し、将兵から信頼され、そし運命を共にした。
大東亜戦争終結後、中国大陸では大量の本銃が中国軍(国民党軍・共産党軍)に引き渡され、その後の国共内戦に於いても使用された。
「九六式軽機関銃」の性能
重量:10.2 kg 口径:6.5mm 銃身長:55.0cm 全長:107.5cm
装弾数:30発(箱型弾倉)
発射速度:550発/分 初速:735 m/秒 最大射程距離:3500m 有効射程距離:800m (三八式実包・弾頭重量約9g)
作動方式:ガス圧動作ピストンオペレーテッド
製造数:約41000挺(~昭和18年)