大江時計台航空資料室

時計台外観

大江時計台航空資料室の外観である。RC4階建ての建物であり、戦前の昭和11年 (1936年) に建築された。大東亜戦争期に軍需工場として軍用機を生産していた大江工場は、当然のことながら米軍の標的となり、戦争末期に多くの建物が空襲で破壊された。しかしながら、大江工場の事務本館であったこの建物は破壊を免れ、現在に遺されている。

当時の大江工場事務本館の姿である。現在の姿とほぼ変わらない形であることが分かる。

通称は「時計台」と呼ばれており、建物の北東角の時計台が特徴的である。

2017年5月末までは、同じく三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所、小牧南工場に資料室があった。小牧南工場の資料室が閉鎖されたのち、その収蔵品が移設、再整理され大江時計台航空資料室に展示されている。

資料室入口のロビーである。若干の展示物が置かれている。このロビー左手側に受付がある。当資料室はこのロビーより先は写真撮影が禁止とされているため、ここのロッカーで所持品を預けなくてはならない。なお、当サイトの展示物の写真は公式HPより転載しているものである。

建物に入ってすぐ左手のところに「第一号航空機発進の地」のモニュメントがある。大正10年 (1921年) 2月、日本海軍は三菱重工に国産艦上機の製造を発注した。同年9月に試作第一号機が完成し、翌10月に初飛行した。一〇式艦上戦闘機である。当時はこの時計台の建物の西側が空き地となっており、試験飛行に使われていた。初飛行の場所はこの空き地だったのではないかと思われる。

当時は第一次大戦で軍用機が使われ始めた時期であり、三菱重工では航空機の開発製造の技術がなかったので、一〇式艦上戦闘機の開発にあたってイギリスの技術者が招聘された。日本海軍は三菱重工に艦上機の製造を発注すると同時に、最初から航空母艦として設計された世界初の空母である「鳳翔」の建造を進めていた。鳳翔は大正11年 (1922年) に竣工し、一〇式艦上戦闘機は大正12年 (1923年) に鳳翔からの離着陸に成功した。

秋水

零式艦上戦闘機 五二型 (零戦52型)

その他館内展示

大江時計台航空資料室は民間企業である三菱重工によって運営されている。他の一般的な戦争博物館における兵器の展示では、その兵器自体の性能や各部品詳細、大東亜戦争における運用が中心となっているところが多い。一方、大江時計台航空資料室での展示は、軍部から軍用機という製品の発注を受けた民間企業の視点から各資料が展示されている。

国際情勢によって、必要な兵器の性能や数量は変わっていく。一方、兵器の開発から量産に至るまでは数年を要する。特に昭和12年 (1937年) に勃発した日華事変から昭和20年 (1945年) の終戦に至るまでの期間は、他国の航空機の性能も短期間で著しく向上した。また中国大陸での中華民国との戦いから、真珠湾攻撃以降の序盤の攻勢、中盤のアメリカとの消耗戦、終盤の本土空襲と、情勢が目まぐるしく変化し、それに伴って軍部からの要請も変わっていった。

第一次世界大戦で戦争に航空機が本格的に使われ始め、欧州では航空機が発達した。航空機の黎明期、三菱航空機は外国の技術を取り入れることにより、航空機の生産開発をスタートさせた。しかし、当初はその後の航空機の需要が不透明であり、三菱航空機では開発にかかる費用を回収できるか分からない中での事業となった。

数量の観点では、黎明期の少量生産から、対米戦開戦前の零式艦上戦闘機が開発されていた頃の中量生産、戦争後期の大量生産へと変遷していった。すなわち、黎明期は外国の技術を導入して試作したものを一機ずつ部品の製作をして組み立てていたが、中量生産の時期になると生産性を向上させるため設計は飛行機の構造エリアで分割されて開発期間短縮が図られ、生産も部品ごとに担当が分けられるようになった。大量生産の時期では、設計の段階から部品点数の削減や分割製造方式など量産性が考慮され、生産も工場のレイアウトを工夫して流れ作業で次の工程へと順次送る方式と改められた。

また、当時の日本は資源に制約を抱えており、アメリカのように一概に生産性向上のために部品を単純化することはできず、加工の手間がかかっても使用する材料ができるだけ少なくなるように苦心した。また、戦争末期は本土空襲のために効率の良さだけを考えた工場のレイアウトを取ることはできず、生産性への影響があるものの配置を分散するなどの工夫がなされた。

三菱航空機が開発した36機の飛行機の模型が並べられている。スケールは1/32で統一されており、各飛行機のサイズ感が分かりやすい。左側から右側へ向けて時系列で展示されており、左端は大正10年 (1921年) に初飛行した一〇式艦上戦闘機、右端は昭和20年 (1945年) の終戦時点で試作に終わった秋水である。全般的には飛行機の発達に伴って機体が大型化していった様子が伺える。

軍用機を資料写真で見てもサイズ感が分かりにくいが、この展示では全ての飛行機のスケールが統一されているので大きさのイメージが掴みやすい。戦闘機である零戦や雷電 (全幅 約11m)と比べて、九七重爆撃機や一式陸上攻撃機 (全幅 約23m) は大きく感じる。これらの大型の飛行機は、現代で言うと客席数50席程度のリージョナルジェットに近いサイズである。

大江時計台の建物がある場所は、その東側に航空機工場が建てられた時点では空き地であり、試験飛行場として使われていた。しかし、航空機の大型化に従って離着陸の距離も増大し、九六艦上戦闘機の開発の時点では約60km離れた岐阜県各務ヶ原の陸軍飛行場まで牛車で飛行機を運んでいた。

現存する工場建屋

大江工場は大東亜戦争末期の昭和19年 (1944年) 12月7日の東南海地震で大きな被害を受けた。さらにそのわずか11日後の12月18日に63機のB29による空襲を受け、多くの建物が破壊された。

大江時計台の東側の地区に、破壊を免れた工場建屋が3棟現存している。これらの建屋は、現在も現役で工場として使用されている。上記写真は第五工場だった建物を北西角から撮影したものである。

同じく第五工場を西側から撮影したものである。屋根はノコギリの歯のようなギザギザの形状となっており、昔の工場によく見られた形式である。これは北側の垂直面を採光用の窓とし、直射日光を抑えて一日中安定した明るさを保つための形式であった。蛍光灯が普及した時期からはあまり用いられなくなった形式である。

第五工場の南側の第四工場だった建屋である。

写真左側の建物が第五工場、第四工場の東側に位置する第六工場だった建物である。第五工場と同様にノコギリの歯の形状の屋根となっている。

大江工場は航空機需要の増大に対応して工場を増設していき、周辺一帯に広大な敷地を所有していた。終戦後GHQにより航空機生産が禁止され、大江工場も民生品の生産に転換した。工場の整理の一環で敷地の一部は他社に売却された。第六工場の東側の敷地は昭和31年 (1956年) に東洋レーヨン (現 東レ) に売却された。上記写真は現在その場に建つ東レの工場である。

三菱重工大江工場ではボーイング787型機の主翼を製造している。ボーイング787型機の主翼は炭素繊維と樹脂の複合材料でできているが、東レはこの複合材料を三菱重工に納入している。大江は現在も航空機生産の現場である。