航空母艦「鳳翔(ほうしょう)」

「鳳翔」について

航空母艦「鳳翔(ほうしょう)」は、世界で最初に竣工した日本海軍の航空母艦(空母)である。

第一次世界大戦後、航空機の急速な進歩によって、アメリカやイギリスでは航空機の離着陸が可能な艦船、即ち航空母艦(空母)の研究が行われるようになり、日本海軍に於いても航空母艦の建造が決定し、英海軍が建造中であった航空母艦「ハーミス」が参考にされた。
「鳳翔」は、大正8年(1919年)11月16日:日本海軍初の航空母艦として、神奈川県の浅野造船鶴見造船所で起工され、大正11年(1922年)12月27日、神奈川県の横須賀海軍工廠で竣工した。

「鳳翔」は、当初から航空母艦として計画された艦としては、世界で最初に竣工した。
艦体上部に全通式の飛行甲板を装備し、飛行甲板上部には島型艦橋を、飛行甲板下部には格納庫を備える等、後の空母では一般的となる艦形であった。
併しながら、この時点ではまだ空母の運用方法は確立されておらず、各国とも試行錯誤の時代であった。「鳳翔」も多分に実験艦的な性格であり、実際に竣工してみると様々な運用上の不具合が見つかり、その後は何度も改修を受けて艦形が大きく変っていった。
また、ひとまず空母は完成したものの、日本ではまだ誰も空母への着艦に成功していなかった。そこで、着艦方法とその訓練方法の研究が大きな課題であった。これに対しては、大正12年(1923年)3月5日、吉良俊一大尉が日本人として初めて着艦に成功し、空母に於ける航空機運用に一応のめどをつけた。

昭和3年(1928年)、巡洋戦艦から改装された大型航空母艦「赤城」と第一航空戦隊を編成し、日本海軍最初の空母部隊となった。その後も、昭和7年(1932年)1月に勃発した第一次上海事変に「加賀」と共に出動し、上海の海軍陸戦隊を支援した。これは史上初の航空母艦の実戦投入であった。
しかし、排水量8000トンの軽空母であった「鳳翔」は、飛行甲板が短く、格納庫が狭かった。その為、次第に大型化し高速化する艦載機の運用が難しくなり、搭載機数も少なかった。

昭和16年(1941年)12月の大東亜戦争開戦時、「鳳翔」は既に旧式艦となっていた。その為、実戦に参加する機会は殆ど無かったが、内地に於いて艦載機の発着艦訓練用として活躍した。また、練習潜水艦隊の標的艦となった事もあった。
「鳳翔」以後に建造された航空母艦は次々と出撃し、そしてその多くが沈没して失われていったが、内地に残った「鳳翔」は無傷で終戦を迎えた数少ない日本海軍艦艇の1隻だった。終戦直後の外地からの引き上げや復員事業に於いて、「鳳翔」は、格納庫や平らな飛行甲板を生かして復員船として活躍、多くの将兵や邦人を祖国まで運んだ。
全ての復員事業が終わった後、昭和21年(1946年)8月31日に「鳳翔」の解体が開始された。そして、昭和22年(1947年)5月1日に解体が完了、25年間の生涯に幕を下ろした。

空母の黎明期に於いて、「鳳翔」が空母の運用方法の研究や発展に果たした役割は大きかった。それは後に、航空母艦を集中運用する機動部隊の編成へと発展し、世界の海戦の様相を一変させた。また、「鳳翔」の登場によって国産艦載機の開発が促進され、その後に登場する事になる世界水準の高性能機へと繋がっていった。
「鳳翔」は日本海軍最初の航空母艦として、最後まで日本の空母史を見つめ続けた。

「鳳翔」の要目

<新造時:大正11年(1922年)>

基準排水量:7470トン
公試排水量:9330トン
満載排水量:10500トン
全長:168.25m 水線長:165.05m 全幅:18m 喫水:6.17m(平均)
飛行甲板全長:168.25m 飛行甲板全幅:22.7m
主機:パーソンズ式ギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基・ロ号艦本式石炭重油混焼缶4基
出力:30000馬力(計画)・31117馬力(公試)
燃料:2700トン(重油)・940トン(石炭)
最大速力:25ノット(計画)・26.655ノット(公試)
航続距離:14ノット・10000海里
搭載機数:常用機15機・補用6機
兵装:14センチ単装砲4基4門 (五十口径三年式十四糎砲)
    8センチ単装高角砲2基2門 (四十口径三年式八糎高角砲)
    7.62mm単装機銃2挺
乗員:約550名

<最終時:昭和20年(1945年)>

基準排水量:7470トン
公試排水量:9330トン
満載排水量:10500トン
全長179.5m 全幅:18m 喫水:5.3m
飛行甲板全長:180.8m 飛行甲板全幅:22.7m
主機:パーソンズ式ギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶4基・ロ号艦本式石炭重油混焼缶4基
出力:30000馬力
燃料:2700トン(重油)・940トン(石炭)
最大速力:25ノット
航続距離:14ノット・10000海里
搭載機数:常用機15機・補用6機
兵装:25ミリ三連装機銃2基6挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ連装機銃2基4挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:約550名

参考文献

「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」

「鳳翔」の艦歴

大正8年(1919年)11月16日:浅野造船鶴見造船所(神奈川県)で起工。
大正10年(1921年)11月13日:浅野造船鶴見造船所(神奈川県)で進水。
大正11年(1922年)9月10日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に曳航。艤装開始。
                   初代艤装員長として豊島次郎大佐が着任。
大正11年(1922年)9月20日:初代艦長として豊島次郎大佐が着任。
大正11年(1922年)12月27日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で竣工。
                   横須賀鎮守府籍に編入。
大正12年(1923年)2月5日:横須賀沖(神奈川県)で日本初の着艦実験を行う。
                  英国人操縦士ジョルダン元大尉が着艦に成功。
大正12年(1923年)3月5日:横須賀沖(神奈川県)で日本人操縦士初の着艦実験を行う。
                  吉良俊一大尉が着艦に成功。
大正12年(1923年)4月1日:2代目艦長として福与平三郎大佐が着任。
大正12年(1923年)9月1日:第一艦隊に編入。
大正12年(1923年)11月15日:第一艦隊から外される。
大正12年(1923年)12月1日:3代目艦長として梅津良太郎大佐が着任。
大正14年(1925年)4月15日:4代目艦長として小林省三郎大佐が着任。
                  改修工事を行う。
                  (飛行甲板の傾斜を廃止・艦橋とクレーンの撤去等)
大正14年(1925年)9月1日:連合艦隊付属となる。
大正15年(1926年)3月30日:沖縄本島中城湾を出航。南支にて作戦行動。
大正15年(1926年)4月5日:馬公(台湾)に入港。
大正15年(1926年)11月1日:5代目艦長として河村儀一大佐が着任。
大正15年(1926年)12月1日:連合艦隊付属から外される。
昭和2年(1927年)3月25日:連合艦隊付属となる。
昭和2年(1927年)3月27日: 横須賀軍港(神奈川県)を出港。青島方面(中国)に向かう。
昭和2年(1927年)4月5日:旅順(中国)に入港。
昭和2年(1927年)12月1日:6代目艦長として北川清大佐が着任。
昭和3年(1928年)3月27日:九州有明湾を出航。
昭和3年(1928年)4月1日:7代目艦長として原五郎大佐が着任。
昭和3年(1928年)4月2日:基隆(台湾)に入港。
昭和3年(1928年)4月13日:大連(中国)を出港。
昭和3年(1928年)4月22日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和3年(1928年)11月30日:予備艦となる。
                  8代目艦長として和田秀穂大佐が着任。
昭和5年(1930年)6月19日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和5年(1930年)12月1日:9代目艦長として近藤英次郎大佐が着任。
昭和6年(1931年)3月29日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和6年(1931年)4月14日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
                  改修工事を行う。(着艦制動装置を装備)
昭和6年(1931年)9月9日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和6年(1931年)10月10日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
                   改修工事を行う。(機関の修理)
昭和6年(1931年)11月14日:10代目艦長として堀江六郎大佐が着任。
昭和6年(1931年)12月23日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和7年(1932年)1月29日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                  空母「加賀」と上海沖(中国)に向かう。
昭和7年(1932年)2月5日:飛行隊を上海(中国)公大飛行場に派遣。
昭和7年(1932年)2月8日:飛行隊が上海郊外(中国)呉淞砲台を空襲。
昭和7年(1932年)3月20日:予備艦となる。
昭和7年(1932年)12月1日:11代目艦長として三竝貞三大佐が着任。
昭和8年(1933年)3月20日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
                  改修工事を行う。(夜間着艦指令灯の装備)
昭和8年(1933年)6月9日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和8年(1933年)6月29日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和8年(1933年)10月20日:予備艦となる。
                  12代目艦長として竹田六吉大佐が着任。
昭和9年(1934年)2月21日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
                  改修工事を行う。(機関の修理)
昭和9年(1934年)11月15日:13代目艦長として山縣正郷大佐が着任。
                   第一艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和10年(1935年)3月29日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和10年(1935年)4月4日:長崎県寺島水道に回航。
昭和10年(1935年)6月12日:14代目艦長として寺田幸吉大佐が着任。
昭和10年(1935年)9月26日:三陸沖での演習中に台風に遭遇して艦体を損傷する。
                  (第四艦隊事件)
昭和10年(1935年)10月30日:横須賀海軍工廠(神奈川県)に入渠。
                    改修工事を行う。
                    (損傷箇所の修理・強度向上・煙突の改修)
昭和10年(1935年)11月15日:15代目艦長として酒巻宗孝大佐が着任。
昭和11年(1936年)3月20日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和11年(1936年)8月4日:基隆(台湾)を出港。
昭和11年(1936年)8月7日:馬公(台湾)に入港。
昭和11年(1936年)11月16日:16代目艦長として草鹿龍之介大佐が着任。
昭和12年(1937年)3月27日:長崎県寺島水道を出航。
昭和12年(1937年)8月12日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
                   空母「龍驤」と上海沖(中国)に向かう。
昭和12年(1937年)8月19日:上海沖(中国)にて作戦行動。
昭和12年(1937年)9月2日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和12年(1937年)9月5日:佐世保軍港(長崎県)を出港。上海沖(中国)に向かう。
昭和12年(1937年)9月13日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和12年(1937年)9月26日:馬公(台湾)を出港。広東(中国)を爆撃。
昭和12年(1937年)10月5日:飛行隊を上海(中国)公大飛行場へ派遣。
昭和12年(1937年)10月16日:17代目艦長として城島高次大佐が着任。
昭和12年(1937年)12月1日:呉鎮守府籍に転籍。予備艦となる。
昭和13年(1938年)12月15日:横須賀航空隊の練習艦となる。
昭和14年(1939年)11月15日:18代目艦長として原田覚大佐が着任。
昭和15年(1940年)8月20日:19代目艦長として杉本丑衛大佐が着任。
昭和15年(1940年)11月1日:20代目艦長として菊池朝三大佐が着任。
昭和15年(1940年)11月15日:第一艦隊第三航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)2月24日:佐世保軍港(長崎県)を出港。南支方面に向かう。
昭和16年(1941年)3月3日:馬公(台湾)に入港。
昭和16年(1941年)3月12日:九州有明湾に入港。
昭和16年(1941年)3月26日:九州有明湾を出港。
昭和16年(1941年)3月27日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)5月7日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和16年(1941年)5月17日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和16年(1941年)5月27日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和16年(1941年)5月28日:大分県佐伯湾に入港。
昭和16年(1941年)6月3日:大分県佐伯湾を出港。
昭和16年(1941年)6月5日:美々津神社沖(宮崎県)に回航。
昭和16年(1941年)6月27日:九州有明湾を出港。
昭和16年(1941年)6月30日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和16年(1941年)7月6日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和16年(1941年)7月11日:九州有明湾に入港。
昭和16年(1941年)7月16日:九州有明湾を出港。
昭和16年(1941年)9月1日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)9月10日:因島造船所(広島県)に入渠。
昭和16年(1941年)9月16日:因島造船所(広島県)を出渠。
昭和16年(1941年)9月17日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)9月5日:21代目艦長として梅谷薫大佐が着任。
昭和16年(1941年)12月8日:瀬戸内海西部柱島泊地を出港。ハワイ空襲部隊を支援。
昭和17年(1942年)3月12日:瀬戸内海西部柱島泊地を出港。
                  日本近海に接近した米軍艦隊を追跡。
昭和17年(1942年)3月16日:白子沖(千葉県)に回航。
昭和17年(1942年)3月17日:白子沖(千葉県)を出航。
                  美々津神社沖(宮崎県)に回航。
昭和17年(1942年)3月21日:美々津神社沖(宮崎県)を出航。
                  瀬戸内海西部柱島泊地に向かう。
昭和17年(1942年)4月1日:第一艦隊付属に編入。
昭和17年(1942年)5月29日:瀬戸内海西部柱島泊地を出港。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)6月14日:岩国沖(広島県)に回航。
昭和17年(1942年)6月15日:岩国沖(広島県)を出航。呉軍港(広島県)に入港。
                  以後、艦載機の着艦訓練に従事。
昭和17年(1942年)7月14日:第三艦隊付属に編入。
昭和17年(1942年)8月1日:22代目艦長として山口文次郎大佐が着任。
昭和17年(1942年)10月20日:訓練部隊に編入。以後、艦載機の着艦訓練に従事。
昭和17年(1942年)11月15日:23代目艦長として服部勝二大佐が着任。
昭和18年(1943年)1月15日:第三艦隊第五〇航空戦隊に編入。
                  以後、艦載機の着艦訓練に従事。
昭和18年(1943年)7月5日:24代目艦長として貝塚武男大佐が着任。
昭和18年(1943年)7月10日:因島造船所(広島県)に入渠。
昭和18年(1943年)7月16日:因島造船所(広島県)を出渠。
昭和18年(1943年)12月18日:25代目艦長として松浦義大佐が着任。
昭和19年(1944年)1月1日:第一二航空艦隊第五一航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)2月10日:連合艦隊付属に編入。
                  以後、艦載機の着艦訓練に従事。
昭和19年(1944年)3月1日:26代目艦長として国府田清大佐が着任。
昭和19年(1944年)7月6日:27代目艦長として室田勇次郎大佐が着任。
昭和20年(1945年)3月5日:28代目艦長として大須賀秀一大佐が着任。
昭和20年(1945年)5月18日:29代目艦長として古谷啓次大佐が着任。
昭和20年(1945年)8月15日:瀬戸内海で終戦を迎える。
昭和20年(1945年)9月20日:30代目艦長として金岡国三大佐が着任。
昭和20年(1945年)10月15日:艦籍を除籍される。以後、復員輸送任務に従事。
昭和21年(1946年)8月31日:日立造船桜島工場(大阪府)で解体開始。
昭和22年(1947年)5月1日:日立造船桜島工場(大阪府)で解体完了。