「信濃」について
航空母艦「信濃(しなの)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。
大和型戦艦の三番艦として起工・建造されたが、途中から航空母艦に改造された。
戦後の昭和36年(1961年)に米海軍原子力空母「エンタープライズ」が登場するまで史上最大の排水量を持つ空母であった。
昭和15年(1940年)5月4日、神奈川県の横須賀海軍工廠に於いて、大和型戦艦の三番艦(第110号艦)として起工された。しかし、大東亜戦争開戦後、海戦の主兵が航空機・航空母艦へと移ると、戦艦としての「信濃」の建造は事実上中断された。その後、戦局の推移によって航空兵力の増強が急務となり、「信濃」を戦艦から航空母艦へ改造することが決定された。しかし、資材・労働力不足によって改造工事は難航、昭和19年(1944年)10月8日に進水し、約1ヶ月後の11月19日、航空母艦「信濃」として竣工した。
航空母艦「信濃」の最大の特徴は、空母としては異例な程の重装甲を施していた事であった。即ち、艦体は大和型戦艦に準じる防御力を持ち、更に、飛行甲板には装甲が施されていた。
防御力を強化した空母としては、「信濃」より半年早い昭和19年(1944年)3月7に竣工した重装甲空母「大鳳」があった。しかし、同年6月19日のマリアナ沖海戦に於いて、米潜水艦の雷撃によってあっけなく沈没してしまった事を受け、「信濃」には様々な対策が実施された。結果、排水量は大和型戦艦を上回る68000トンとなり、第二次世界大戦で登場した空母の中では群を抜く巨大空母となった。反面、防御重量の増加などによって格納庫を充分確保できず、艦体の大きさの割には少なかった。
この様に、空母「信濃」には、あらゆる不沈対策・不燃対策が採られ、更に大和型戦艦として設計されたの艦体は非常に高い防御力を備え、それは絶対に沈む事のない空母となるはずであった。
併しながら、戦局悪化による資材不足や労働力不足などにより、「信濃」の工事は遅れた。しかも、可能な限り艤装を簡略化し、各種試験が省略されていた。こうして、昭和19年(1944年)11月19日、空母「信濃」として竣工したが、その実態は未完成であった。しかし、この時期、米軍爆撃機による日本本土への空襲が開始されつつあり、「信濃」を広島県の呉海軍工廠へ回航する事になった。
こうして、昭和19年(1944年)11月28日午後、「信濃」は護衛の駆逐艦3隻(「浜風」「磯風」「雪風」)と横須賀軍港を出航、これは「信濃」の処女航海であった。しかしこの時、東京湾沖合いには米潜水艦「アーチャーフィッシュ」が活動中であり、「信濃」を発見した「アーチャーフィッシュ」は直ちに追跡を開始、その後、実に6時間半に渡って「信濃」を追尾し続けた。
そして、翌29日深夜、「アーチャーフィッシュ」は魚雷6本を発射、この内4本が「信濃」の右舷に命中した。「信濃」は右舷にやや傾いたものの、速力を維持して航行を続けた。「信濃」は、多数の魚雷が命中しても容易には沈まないはずであった。しかし、艦体のや諸装置の一部は未完成であり、乗員の多くも艦の操作に慣れておらず、充分な被害局限(ダメージコントロール)を行う事が出来なかった。やがて艦内への浸水が増加して傾斜が増していった。
そして10時57分、「信濃」は広大な飛行甲板を見せつつ転覆、その後、艦尾より沈没していった。
それは、起工から竣工まで約4年、そして処女航海に出てから僅か17時間後の出来事であった。
「信濃」は当時の世界最大の航空母艦であると当時に、世界最短の艦歴の軍艦でもあった。まさに悲運の艦と言う他はない。
大和型戦艦三番艦から航空母艦への改造
昭和14年(1939年)、第四次海軍軍備充実計画(④計画)が策定され、既に起工していた戦艦「大和」「武蔵」(③計画により起工)に引き続き、更に同型艦2隻(第110号艦・第111号艦)の建造が計画された。
しかし、昭和16年(1941年)12月に大東亜戦争が開戦すると海戦の様相が一変、航空機が艦隊戦力の中核となっていった。そして航空機を搭載する航空母艦の重要性が増した反面、これまで海戦の主役であった戦艦の優位性が崩れた。また、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う空母の増産が急がれていた。
その結果、「蒼龍」「飛龍」の量産型である雲龍型の大量建造(改⑤計画)が進められる一方で、既存の艦船を空母に改装したり、航空機の搭載を可能にする改修が試みられた。
そして、工事の進んでいた大和型戦艦三番艦(第110号艦・後の「信濃」)も空母に改装することが決定された。尚、大和型戦艦四番艦(第111号艦)の建造は中止された。
航空母艦「信濃」の構造
従来、航空母艦という艦種は本質的に脆弱であった。即ち、飛行甲板に砲爆撃を受けるだけで空母としての機能を喪失し、また、艦内には大量の航空兵装(爆弾・魚雷)や航空燃料(ガソリン)を搭載しつつも、格納庫いう空間を有する為、被弾時や火災発生時の被害極限が難しかった。
そこで、「信濃」は、同時期に計画・建造された重装甲空母「大鳳」と同様、砲爆撃に対する防御力と不燃対策に重点を置き、重装甲空母として設計されることになった。
具体的には、飛行甲板に装甲を施して爆撃に耐えうる様にすると共に、艦内の弾火薬庫にも砲爆撃に耐えうる装甲が施された。特に航空機用燃料タンクに関しては、「大鳳」沈没の戦訓によって入念に防御された。また、格納庫内の各種消火装置も強化され、徹底した不燃対策が施された。
艦体に関しては、元々戦艦として設計されていた為、空母としては充分過ぎる防御力を有していた。
大和型戦艦から改装された「信濃」は、結果的に、それまでの空母を遥かにしのぐ超大型空母となった。基準排水量62000トン・全長266.1mは、第二次世界大戦で登場した空母の中では世界最大で、戦後の昭和36年(1961年)に米海軍原子力空母「エンタープライズ」が登場するまで史上最大の排水量を持つ空母であった。しかし、世界一の空母は、同時に、世界一短い艦歴を持つ艦としても記録される事になる。
航空母艦「信濃」の建造と艤装
横須賀海軍工廠(神奈川県)で建造されていた「信濃」は、昭和17年(1942年)9月以降、航空母艦に改装する工事が始まったが、大東亜戦争中であり、損傷艦の修理や他艦種(駆逐艦や潜水艦)の建造が優先されたり、建造資材の不足によって、その工事はなかなか進捗しなかった。ところが、主力正規空母が次々と失われていく中、空母「信濃」の竣工が急がれた。その結果、工事の簡略化や突貫作業によって、昭和19年(1944年)11月19日、なんとか竣工にこぎつけた。しかし、未完成の部分が多くあり、また、関東地方に対する空襲の危険性が増していた為、残りの艤装作業を呉海軍工廠(広島県)で行う事になった。そこで、「信濃」を呉軍港まで回航させる事が決定された。
航空母艦「信濃」の最期
竣工後の「信濃」は東京湾で各種試験を実施した後、昭和19年(1944年)11月28日13時30分、護衛の第十七駆逐隊(駆逐艦「浜風」「磯風」「雪風」)と共に横須賀軍港を出航、瀬戸内海を目指した。これが「信濃」にとっての処女航海であった。「信濃」と護衛駆逐艦3隻は、一旦外洋に出た後、大きく西に変針する航路を取った。
この時、東京湾沖合いには米海軍の潜水艦「アーチャーフィッシュ」が活動中だったのである。20時48分、「アーチャーフィッシュ」は航行中の「信濃」を発見、直ちに追跡を開始した。そして、翌29日03時13分、静岡県浜名湖南方176kmの地点に於いて、「アーチャーフィッシュ」は魚雷6本を発射、3時16分~17分、この内4本が「信濃」の右舷に命中した。
魚雷命中直後、「信濃」は右舷にやや傾いたものの、速力を維持して航行を続けた。大和型戦艦の艦体を持つ「信濃」は、多数の魚雷が命中しても容易には沈ないよう設計され、浸水による傾斜も注排装置によって復旧する事が可能であった。ところが、竣工はしたもの実際の「信濃」はまだ未完成であり、艦内の水密や各種装置は不十分な状態であった。更に乗員の多くも艦に慣れておらず、充分な被害局限(ダメージコントロール)を行う事が出来なかった。
やがて艦内への浸水が増加すると共に傾斜が増し、08時頃、「信濃」は機関が停止して航行不能に陥った。艦内の電気や動力も失われ、傾斜の復旧は絶望的になった。遂に、10時37分、艦長の阿部俊雄大佐は総員退艦を下令、この時、阿部艦長は部下に別れを告げると艦に残った。そして10時57分、「信濃」は広大な飛行甲板を見せつつ転覆、その後、艦尾より沈没していった。
時に昭和19年(1944年)11月29日10時57分、場所は和歌山県潮岬南方48kmの北緯33度07分・東経137度04分、「信濃」と運命を共にしたのは艦長阿部俊雄大佐以下791名(工員28名、軍属11名を含む)であった。竣工してから僅か10日、処女航海に出航してから17時間後の出来事であり、「信濃」は世界一短命な海軍艦艇となってしまった。
「信濃」の要目
<竣工時:昭和19年(1944年)>
基準排水量:62000トン
公試排水量:68060トン
満載排水量:71890トン
全長266.1m 水線長:256m 全幅:38m 喫水:10.31m
飛行甲板全長:256m 飛行甲板全幅:40m
主機:艦本式高低圧ギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶12基
出力:15万3000馬力
燃料:9000トン(重油)
最大速力:27ノット(計画)
航続距離:18ノット・10000海里
搭載機数:常用機42機・補用5機(計画)
艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
偵察 常用6機・補用1機 (艦上偵察機「彩雲」)
艦攻 常用18機・補用2機 (艦上攻撃機機「流星」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾120発・500キロ爆弾120発・250キロ爆弾240発
60キロ爆弾456発・30キロ爆弾144発・魚雷60本
兵装:12.7センチ連装高角砲8基16門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ三連装機銃35基105挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ単装機銃40基40挺 (九六式二十五粍高角機銃)
12センチ28連装噴進砲8基224門
二号一型電探2基・一号三型電探1基
乗員:2400名
参考文献
「猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史」
「信濃! 日本秘密空母の沈没」
「航跡 造船士官福田烈の戦い」
「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」
「信濃」の艦歴
昭和15年(1940年)5月4日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で起工。
昭和17年(1942年)6月:戦艦から航空母艦への改装に着手。。
昭和19年(1944年)10月1日:初代艦長として阿部俊雄大佐が着任。
昭和19年(1944年)10月5日:船渠内への注水中に船首を破損。
昭和19年(1944年)10月8日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で進水。
昭和19年(1944年)10月23日:横須賀海軍工廠(神奈川県)を出渠。
昭和19年(1944年)11月11日~12日:東京湾で艦載機の着艦試験を実施。
昭和19年(1944年)11月19日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で竣工。
横須賀鎮守府籍に編入。
連合艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)11月28日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)11月29日:呉軍港(広島県)への回航中に魚雷4本被雷。
和歌山県潮岬南方で沈没。
昭和20年(1945年)8月31日:艦籍を除籍される。