「赤城」について
航空母艦「赤城(あかぎ)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。
「赤城」は、大正9年(1920年)12月6日、「天城」型巡洋戦艦の二番艦として、広島県の呉海軍工廠で起工された。その後、ワシントン海軍軍縮条約の結果に基づいて航空母艦への改装が決定し、昭和2年(1927年)3月25日、航空母艦として竣工した。
「赤城」は、「鳳翔」に次ぐ、日本海軍で2番目の空母であり、初の本格的大型正規空母であった。
当初は、3段の飛行甲板を持つ特異な形状をしていたが、後に1段の飛行甲板に改装され、名実共に近代的な航空母艦となった。その後、僚艦「加賀」と第一航空艦隊第一航空戦隊を編成、選りすぐりの精鋭搭乗員や優秀な乗員と共に、日本海軍機動部隊の中核を担った。
大東亜戦争に於いては、昭和16年(1941年)12月8日未明、ハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍基地に対する空襲(真珠湾攻撃)に、空襲部隊の旗艦として参加、米海軍太平洋艦の主力戦艦8隻を始め多数を撃沈破し、航空機多数を破壊する大きな戦果を挙げた。
真珠湾攻撃(ハワイ空襲)には、「赤城」以外にも航空母艦「加賀」 「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」が参加、これら計6隻の空母によって機動部隊が編成された。そして、これは世界の海戦史上初めて、航空母艦を集中投入した航空攻撃であった。
昭和17年(1942年)1月以降、「赤城」以下の機動部隊は、ビルマルク諸島ラバウルや蘭印(オランダ領インドネシア)への侵攻を支援、同年4月にはインド洋に進撃して英海軍東洋艦隊を駆逐した。
司令官南雲忠一中将の座乗する「赤城」は、同中将の将旗をはためかせてながら西に東に大活躍した。この時、「赤城」を含めた日本海軍機動部隊は、紛れも無く地球上で最強の機動打撃部隊であった。
南太平洋からインド洋まで暴れまわった「赤城」の、次なる目標は西太平洋のミッドウェー環礁の攻略、所謂「ミッドウェー作戦」であった。
そして、昭和17年(1942年)5月27日(海軍記念日)、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を主力とする機動部隊が瀬戸内海西部の柱島泊地を出撃、6月5日朝にはミッドウェー環礁に対する空襲を開始した。
これに対し米海軍は、ミッドウェー環礁に配備した航空機と航空母艦「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3隻を主力とする艦隊によって迎撃体制を整えていた。
そして、昭和17年(1942年)6月5日10時24分(現地時間)、「赤城」上空に、米海軍爆撃機「SBD(ドーントレス)」が飛来、急降下爆撃を開始した。不意を突かれた「赤城」に爆弾3発が命中、飛行甲板を突き破って格納庫内で爆発した。この時、「赤城」では燃料と爆弾を搭載した艦載機が発艦準備中であり、発生した火災はたちまちこれら艦載機に引火、搭載していた爆弾・魚雷が誘爆し始めた。
「赤城」の艦内は、乗員の必死の消火活動にもかかわらず、手のつけられない大火災となった。
夕方、最早これまでと悟った艦長青木泰二大佐は総員退艦を下令、消火活動に従事していた生存乗員は救助の駆逐艦に移乗した。 そして、燃えながら漂流する「赤城」に対して処分命令が下され、翌6日04時50分(現地時間)、駆逐艦から魚雷が発射された。しかし、「赤城」は直ぐには沈まなかった。魚雷発射から約20分後、「赤城」は艦尾から沈み始め、艦首の菊の御門を海面上に見せつつ沈んでいった。
時に昭和17年(1942年)6月6日05時10分(現地時間)、場所は北緯30度30分・西経178度40分、「赤城」と運命を共にしたのは士官8名・下士官兵225名であった。
「赤城」の要目
<竣工時:昭和2年(1927年)>
基準排水量:26900トン
全長261.2m
飛行甲板全長:190.2m 飛行甲板全幅: m (上段)
出力:13万2000馬力
燃料:6000トン(重油)
最大速力:32.5ノット
搭載機数:常用機66機
兵装:20センチ連装砲2基4門 (五十口径三年式二十糎砲)
20センチ単装砲6基6門 (五十口径三年式二十糎砲)
12センチ連装高角砲6基12門 (四十五口径十年式十二糎高角砲)
25ミリ連装機銃14基28挺 (九六式二十五粍高角機銃)
<改装時:昭和13年(1938年)>
基準排水量:36500トン
公試排水量:41300トン
全長260.7m 水線長:250.3m 全幅:31.3m 喫水:8.71m
飛行甲板全長:249.2m 飛行甲板全幅:30.5m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶19基
出力:13万1200馬力
燃料:6000トン(重油)
最大速力:31.2ノット
航続距離:16ノット・8200海里
搭載機数:常用機66機・補用25機
艦戦 常用12機・補用4機 (九六式艦上戦闘機)
艦爆 常用35機・補用16機 (九六式艦上爆撃機)
艦攻 常用19機・補用5機 (九六式艦上攻撃機)
兵装:20センチ単装砲6基6門 (五十口径三年式二十糎砲)
12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ連装機銃14基28挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:約2000名
<最終時:昭和17年(1942年)>
基準排水量:36500トン
公試排水量:41300トン
全長260.7m 水線長:250.3m 全幅:31.3m 喫水:8.71m
飛行甲板全長:249.2m 飛行甲板全幅:30.5m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶19基
出力:13万2000馬力
燃料:6000トン(重油)
最大速力:31.2ノット
航続距離:16ノット・8200海里
搭載機数:常用機63機・補用9機
艦戦 常用18機・補用3機 (零式艦上戦闘機)
艦爆 常用27機・補用3機 (九九式艦上爆撃機)
艦攻 常用18機・補用3機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾 発・250キロ爆弾 発
60キロ爆弾 発・30キロ爆弾 発・魚雷 本
兵装:20センチ単装砲6基6門 (五十口径三年式二十糎砲)
12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ連装機銃14基28挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:約2000名
参考文献
「真珠湾攻撃」
「真珠湾攻撃・全記録 日本海軍・勝利の限界点」
「ミッドウェー」
「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」
関連映画
「「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実」
「赤城」の艦歴
大正9年(1920年)12月6日:呉海軍工廠(広島県)で巡洋戦艦として起工。
大正12年(1923年)11月9日:呉海軍工廠(広島県)で航空母艦への改装工事開始。
大正14年(1925年)4月22日:呉海軍工廠(広島県)で進水。
大正14年(1925年)12月1日:初代艤装員長として海津良太郎大佐が着任。
昭和2年(1927年)3月25日:呉海軍工廠(広島県)で竣工。横須賀鎮守府籍に編入。
初代艦長として梅津良太郎大佐が着任。
昭和2年(1927年)12月1日:2代目艦長として小林省三郎大佐が着任。
昭和3年(1928年)4月22日:済州島沖の訓練で悪天候の為に艦載機多数が洋上不時着。
佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和3年(1928年)12月10日:3代目艦長として山本五十六大佐が着任。
昭和4年(1929年)10月8日:4代目艦長として小林省三郎大佐が着任。
昭和4年(1929年)11月1日:5代目艦長として北川清大佐が着任。
昭和4年(1929年)11月30日:第一予備艦となる。
昭和5年(1930年)10月26日:6代目艦長として原五郎大佐が着任。
昭和5年(1930年)12月1日:第一航空戦隊に編入。
7代目艦長として和田秀穂大佐が着任。
昭和6年(1931年)8月28日:8代目艦長として大西次郎大佐が着任。
昭和6年(1931年)12月1日:第二予備艦となる。
9代目艦長として柴山昌生大佐が着任。
横須賀海軍工廠(神奈川県)で一部改装工事に着手。
昭和7年(1932年)12月1日:10代目艦長として近藤英次郎大佐が着任。
昭和8年(1933年)4月25日:第一艦隊第二航空戦隊に編入。特別大演習に参加。
昭和8年(1933年)10月20日:11代目艦長として塚原二四三大佐が着任。
第一艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和9年(1934年)11月1日:12代目艦長として堀江六郎大佐が着任。
昭和10年(1935年)11月15日:第三予備艦となる。
13代目艦長として松永寿雄大佐が着任。
佐世保海軍工廠(長崎県)で第二次改装工事に着手。
(3段飛行甲板の廃止・島型艦橋の新設・煙突の改修)
昭和11年(1936年)12月1日:14代目艦長として寺田幸吉大佐が着任。
昭和12年(1937年)8月27日:15代目艦長として茂泉慎一大佐が着任。
昭和12年(1937年)12月1日:16代目艦長として水野準一大佐が着任。
昭和13年(1938年)8月31日:改装工事完了。
昭和13年(1938年)11月15日:17代目艦長として寺岡謹平大佐が着任。
昭和13年(1938年)12月15日:第一艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和14年(1939年)1月30日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
南支と中支にて作戦行動。
昭和14年(1939年)11月15日:18代目艦長として草鹿龍之介大佐が着任。
昭和15年(1940年)10月15日:19代目艦長として伊藤皎大佐が着任。
昭和16年(1941年)3月25日:20代目艦長として長谷川喜一大佐が着任。
昭和16年(1941年)4月10日:第一航空艦隊旗艦となる。
昭和16年(1941年)11月18日:大分県佐伯湾を出航
昭和16年(1941年)11月22日:択捉島単冠湾に入港。
昭和16年(1941年)11月26日:択捉島単冠湾を出航。
昭和16年(1941年)12月08日:真珠湾攻撃に参加。ハワイ諸島オアフ島真珠湾を空襲。
昭和16年(1941年)12月24日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)1月8日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月15日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月17日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月20日:ビスマルク諸島ラバウルを爆撃。
昭和17年(1942年)1月21日:ビスマルク諸島カビエンを爆撃。
昭和17年(1942年)1月22日:ビスマルク諸島ラバウルを爆撃。
昭和17年(1942年)1月25日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月31日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月8日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)2月15日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月19日:ポートダーウィン(オーストラリア)を空襲。
昭和17年(1942年)2月21日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)2月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
ジャワ島(インドネシア)南方に向かう。
昭和17年(1942年)3月1日:ジャワ島(インドネシア)南方で米軍特務艦「ペスコ」を撃沈。
昭和17年(1942年)3月5日:ジャワ島南部(インドネシア)チラチャップを空襲。
昭和17年(1942年)3月11日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)3月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
インド洋に向かう。
昭和17年(1942年)4月5日:セイロン島コロンボを空襲。セイロン島沖海戦に参加。
昭和17年(1942年)4月9日:セイロン島トリンコマリーを空襲。
英空母「ハーミス」を撃沈。
昭和17年(1942年)4月22日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)4月25日:21代目艦長として青木泰二大佐が着任。
昭和17年(1942年)5月18日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)5月27日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)6月5日:ミッドウェー海戦に参加。爆弾3発被弾、火災発生。
昭和17年(1942年)6月6日:ミッドウェー環礁北方で沈没。
昭和17年(1942年)9月25日:艦籍から除籍される。