水上機母艦「日進(にっしん)」

「日進」について

水上機母艦「日進(にっしん)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の水上機母艦である。

昭和8年(1933年)に策定された第二次補充計画(②計画)に於いて、3隻の水上機母艦(「千歳」「千代田」「瑞穂」)が建造された。これらは何れも甲標的母艦としての運用が想定されており、戦時には短期間で甲標的母艦への改装が可能であった。
そして、昭和12年(1937年)に策定された第三次海軍軍備補充計画(③計画)に於いて、更に1隻の水上機母艦が計画された。これが後の水上機母艦「日進」である。「日進」は、当初は高速敷設艦として計画・設計され、その後に水上機母艦に艦種が変更されたが、甲標的母艦としての役割も担っていた。

艦形は、②計画の水上機母艦3隻と大差は無いが、当初の計画が高速敷設艦であった為、兵装が強化されていた。また、機関は、「瑞穂」同様にディーゼルエンジンのみであったが、「瑞穂」の教訓を踏まえて改良されたディーゼルエンジンを搭載し、出力・信頼性共に大幅に向上していた。
ちなみに、「日進」は③計画の第五号艦であったが、この時、第一号艦と第二号艦が戦艦「大和」「武蔵」、第三号艦と第四号艦が空母「翔鶴」「瑞鶴」であった。

「日進」は、昭和13年(1938年)11月2日に広島県の呉海軍工廠で高速敷設艦起工され、途中で水上機母艦に艦種変更された後、昭和14年(1939年)11月30日に進水、昭和17年(1942年)2月27日に水上機母艦として竣工した。

「日進」の竣工した時、既に大東亜戦争が開戦しており、真珠湾攻撃や南方作戦の成功によって、当面の脅威となる連合軍艦隊は日本軍戦線から一掃されていた。その為、「日進」が甲標的母艦として艦隊決戦に参加する機会は無かった。しかし、甲標的母艦としての高い積載能力と高速を生かし、特殊な物件の輸送や最前線への強行輸送に活躍する事になる。

その手始めは、昭和17年(1942年)4月16日~5月1日、マレー半島のペナンに「甲標的」3隻を輸送する事だった。この「甲標的」3隻は、潜水艦3隻に搭載され、昭和17年(1942年)5月31日、マダガスカル島ディエゴスワレス港を襲撃、英戦艦「ラミリーズ」を損傷させた。
その後、昭和17年9月以降は、トラック泊地やビスマルク諸島ラバウルへの輸送任務に従事、内地とこれら南方の海軍根拠地を何往復もした。更に、ラバウルから南のソロモン諸島ショートランド泊地への輸送任務にも従事した。この頃、ガダルカナル島の日本軍は既に撤退し、更に北上する米軍とそれを阻止しようとする日本軍が、ブーゲンビル島周辺で連日激しい戦闘を行っていた。その為、ショートランド泊地は殆ど敵前であり、そこへの輸送は非常に危険を伴うものであった。
そして、昭和18年(1943年)7月22日、ソロモン諸島の日本軍最前線基地ブーゲンビル島ブインへの強行輸送任務中、ショートランド北水道に於いて、「日進」は米軍機約100機の空襲を受けた。忽ち爆弾6発が命中し、艦長以下多数の乗員と、輸送中の陸軍部隊、多くの輸送物件と共に沈んでいった。

時に昭和18年(1943年)7月22日 時 分、場所はソロモン諸島ブーゲンビル島ブイン沖の北緯 度 分・東経 度 分、「日進」と運命を共にしたのは艦長伊藤尉太郎大佐以下乗員479名と陸軍南海第四守備隊570名であった。
「日進」は、甲標的母艦としての活躍を期待されていたが、竣工した時、最早艦隊決戦が生起する可能性は無くなっていた。併しながら、高い積載能力と高速力に注目され、危険な海域での輸送任務に活躍する事になった。それは地味ではあるが最前線を支える為に非常に重要な任務であり、「日進」にしか出来ない任務であった。そして竣工から約1年半、殆ど働きづめのままの「日進」は、その任務中に最期を遂げた。

「日進」の要目

<竣工時:昭和14年(1939年)>

基準排水量:11317トン
公試排水量:12300トン
全長:192.5m 水線長:188m 全幅:19.7m 喫水:7m(公試)
主機:艦本式一三号一〇型ディーゼルエンジン4基
    艦本式一三号二型ディーゼルエンジン2基
出力:47000馬力
燃料:1200トン(重油)・1650トン(補給用重油)・216トン(軽質油)
最大速力:28ノット
航続距離:16ノット・8000海里
搭載機数:常用機12機 (零式水上偵察機・零式水上観測機)
       特殊潜航艇12基 (甲標的)
射出機:一式二号一一型射出機2基
兵装:14センチ連装砲3基6門  (五十口径三年式十四糎砲)
    25ミリ三連装高角機銃8基24挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:約750名

「日進」の艦歴

昭和13年(1938年)11月2日:呉海軍工廠(広島県)で高速敷設艦として起工。
昭和14年(1939年)10月31日:水上機母艦に艦種変更。
昭和14年(1939年)11月30日:呉海軍工廠(広島県)でで進水。
昭和16年(1941年)10月15日:艤装員長として駒沢克己大佐が着任。
昭和17年(1942年)2月27日:呉海軍工廠(広島県)で水上機母艦で竣工。
                  初代艦長として駒沢克己大佐が着任。
                  連合艦隊付属となる。
昭和17年(1942年)4月16日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
                  ペナン(マレー半島)への甲標的輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)4月26日:ペナン(マレー半島)入港。
昭和17年(1942年)5月1日:ペナン(マレー半島)出港。
昭和17年(1942年)5月8日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)5月23日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)5月30日:マーシャル諸島ウォッゼ環礁に入港。
昭和17年(1942年)6月1日:マーシャル諸島ウォッゼ環礁を出航。
昭和17年(1942年)6月5日~7日:ミッドウェー海戦に参加。
昭和17年(1942年)6月12日:マーシャル諸島ウォッゼ環礁に入港。
昭和17年(1942年)6月13日:マーシャル諸島ウォッゼ環礁を出航。
昭和17年(1942年)6月19日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)6月20日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)9月7日:呉軍港(広島県)を出港。輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)9月11日:フィリピン諸島南部ダバオに入港。
昭和17年(1942年)9月12日:フィリピン諸島南部ダバオを出港。
昭和17年(1942年)9月15日:ビスマルク諸島ラバウルに入港。
昭和17年(1942年)9月17日:ビスマルク諸島ラバウルを出航。
昭和17年(1942年)9月18日:ソロモン諸島ショートランド泊地に入港。
昭和17年(1942年)9月25日:ソロモン諸島ショートランド泊地を出航。
昭和17年(1942年)9月26日:ビスマルク諸島カビエンに入港。
昭和17年(1942年)9月30日:ビスマルク諸島カビエンを出航。
昭和17年(1942年)10月1日:ソロモン諸島ショートランド泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月3日:ソロモン諸島ショートランド泊地を出航。
                  ガダルカナル島への輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)10月4日:ソロモン諸島ショートランド泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月8日:ソロモン諸島ショートランド泊地を出航。
                  ガダルカナル島への輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)10月12日:ソロモン諸島ショートランド泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月1日:ソロモン諸島ショートランド泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月3日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月9日:トラック泊地を出航。
                  ショートランド島への設営隊輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)11月13日:ソロモン諸島ショートランド泊地に入港。同日出航。
昭和17年(1942年)11月16日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月23日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月27日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)12月5日:2代目艦長として伊藤尉太郎大佐が着任。
昭和17年(1942年)12月10日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
                   ラバウルへの陸戦隊輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)12月15日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)12月17日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)12月19日:ビスマルク諸島ラバウルに入港。
昭和17年(1942年)12月21日:ビスマルク諸島ラバウルを出航。
昭和17年(1942年)12月27日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)1月4日:呉軍港(広島県)を出港。
                 ラバウルへの輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)1月11日:ビスマルク諸島ラバウルに入港。
昭和18年(1943年)2月15日:ビスマルク諸島ラバウルを出航。
昭和18年(1943年)2月20日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)2月24日:舞鶴軍港(京都府)に入港。
昭和18年(1943年)2月28日:舞鶴海軍工廠(京都府)に入渠。
昭和18年(1943年)3月6日:舞鶴海軍工廠(京都府)を出渠。
昭和18年(1943年)3月15日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和18年(1943年)4月9日:呉軍港(広島県)を出港。
                 ラバウルへの魚雷艇輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)4月15日:フィリピン諸島南部ダバオに入港。同日出港。
昭和18年(1943年)4月18日:ジャワ島(インドネシア)スラバヤに入港。
昭和18年(1943年)5月7日:ジャワ島(インドネシア)スラバヤを出港。
昭和18年(1943年)5月13日:ビスマルク諸島ラバウルに入港。
昭和18年(1943年)5月15日:ビスマルク諸島ラバウルを出航。
昭和18年(1943年)5月22日:呉軍港(広島県)に入港。同日出港。
                  舟艇輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)5月29日:千島列島幌筵島に入港。
昭和18年(1943年)6月18日:千島列島幌筵島を出港。
昭和18年(1943年)6月21日:大湊港(青森県)に入港。
昭和18年(1943年)6月25日:大湊港(青森県)を出港。
昭和18年(1943年)6月26日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)6月30日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)7月5日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)7月10日:宇治を経て臼杵湾出港。
昭和18年(1943年)7月14日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)7月19日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)7月21日:ビスマルク諸島ラバウルに入港。
昭和18年(1943年)7月22日:ソロモン諸島ブーゲンビル島ブインへの輸送任務に従事。
                  米軍機の攻撃により爆弾6発命中。
                  ブーゲンビル島ブイン沖ショートランド北水道で沈没。
昭和18年(1943年)9月10日:艦籍を除籍される。