航空母艦「瑞鶴(ずいかく)」

「瑞鶴」について

航空母艦「瑞鶴(ずいかく)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。

「瑞鶴」は、「翔鶴」型航空母艦の二番艦として第三次海軍軍備補充計画(③計画)で計画された。第二次補充計画(②計画)で建造された「蒼龍」「飛龍」が軍縮条約の影響を受けた中型空母だったのに対し、「翔鶴」型航空母艦は条約の制限を受けない大型空母として設計された。昭和13年(1938年)5月25日、兵庫県の川崎造船神戸造船所で起工され、昭和16年(1941年)9月25日に竣工した。

「翔鶴」型航空母艦の設計では、それ以前の航空母艦の建造・運用の経験が余す所無く反映された。
外見的には、中型空母である「蒼龍」「飛龍」の拡大版と言えたが、球状艦首(バルバス・バウ)の採用や大出力機関の搭載によって最高速度34ノットを実現し、防御面においても十分な考慮がなされていた。また、大型空母であった「赤城」「加賀」と同等の搭載機数を確保しつつ、航空兵装(爆弾・魚雷)の搭載量は倍近くになったにも関わらず、排水量では10000トン近い軽量化を達成した。
しかし、大型空母の建造には多大な労力と時間を要する為に量産性に難があり、戦時の需要に対応することは難しかった。そこで、後に戦時急造型として計画・設計された雲龍型は、中型空母「蒼龍」「飛龍」を基にしており、大型空母であった「翔鶴」型の建造は、「翔鶴」「瑞鶴」の2隻に留まった。
「翔鶴」型航空母艦の設計はほぼ熟成されていたので、建造開始後の設計変更は殆ど無く、一番艦「翔鶴」と二番艦「瑞鶴」は外見的にも構造的にもほぼ同一の艦であった。

大東亜戦争に於いては、ハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍基地に対する空襲(真珠湾攻撃)に参加した。昭和16年(1941年)12月8日未明、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から成る機動部隊から航空機350機が発艦、米海軍太平洋艦に壊滅的打撃を与えるという戦果を挙げた。これは世界の海戦史上初めて、航空母艦を集中投入した航空攻撃であった。
昭和17年(1942年)1月以降は、機動部隊の一員としてビルマルク諸島ラバウルへの侵攻を支援、同年4月にはインド洋に進撃して英海軍東洋艦隊を駆逐した。

「瑞鶴」は、昭和17年(1942年)5月7日~9日、僚艦「翔鶴」と共にソロモン諸島南方に於ける珊瑚海海戦に参加、米海軍機動部隊と、史上初となる航空母艦同士の海戦を演じた。結果、米海軍の航空母艦「レキシントン」を撃沈し、同「ホーネット」を撃破したが、僚艦「翔鶴」が中破した。
「瑞鶴」は、珊瑚海海戦では無傷であったが、所属飛行隊の損失が大きかった為、同年6月5日~7日のミッドウェー海戦には参加できなかったが、この時、日本海軍は「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力正規空母4隻を一挙に失うという大損害を蒙った。その結果、「翔鶴」「瑞鶴」は、この時点で残存するただ2隻の主力正規空母となってしまい、以後、日本海軍機動部隊の中核として、日々増強されていく米海軍と死闘を演じる事になった。

昭和17年(1942年)8月7日、ソロモン諸島ガダルカナル島に米軍が来襲。
これを受けて、「翔鶴」「瑞鶴」「龍驤」を主力とする日本海軍機動部隊は同方面に進出、8月24日には米海軍機動部隊との間に第二次ソロモン海戦が発生した。この海戦では、双方共に決定的な勝利を得る事は出来なかったが、ソロモン諸島を巡る戦闘はいよいよ激しさを増していった。更に10月26日には南太平洋海戦が発生、米海軍の航空母艦「ホーネット」を撃沈した。この時も僚艦「翔鶴」は中破したが「瑞鶴」は無傷であり、何時しか「瑞鶴」は幸運艦と呼ばれるようになった。

昭和19年(1944年)6月、米海軍機動部隊は、日本が絶対国防圏と定めた中部太平洋の要衝マリアナ諸島に来襲、日本海軍は、米海軍機動部隊の撃滅を目指し、乾坤一擲の「あ」号作戦を発動した。これは、マリアナ諸島近海に於いて基地航空隊と機動部隊が協同し、米海軍機動部隊を撃破して一挙に戦局の打開を図ろうとしたものであった。この時、「瑞鶴」は僚艦「翔鶴」と新鋭の重装甲空母「大鳳」と共に第一機動艦隊第一航空戦隊を編成し、一路戦場の海へと向かった。
6月19日、日米機動部隊最後の決戦となるマリアナ沖海戦が始まった。併しながら、圧倒的な兵力を誇る米海軍機動部隊に対し、数的にも技量的にも劣勢な日本海軍機動部隊は苦戦、新鋭空母「大鳳」や航空機多数を失い、日本海軍機動部隊は実質的に壊滅した。そして、「瑞鶴」と常に行動を共にしていた姉妹艦「翔鶴」もまた、この海戦で失われた。

昭和19年(1944年)10月17日、米軍はフィリピン諸島に来襲、日本海軍はこれを迎撃する為に捷一号作戦を発動した。しかし、マリアナ沖海戦で機動部隊の壊滅した日本海軍連合艦隊は、既に有機的な戦闘能力を喪失、最早残された手段は残存艦艇の突入と航空機による体当たり攻撃(特別攻撃)しかなかった。
10月20日、航空母艦「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の4隻を主力とする第一機動艦隊は、日本海軍最後の機動部隊として内地を出撃した。しかし、搭載する艦載機は合計108機しかなく、実質的には米海軍機動部隊をひきつける為の囮艦隊であった。25日、「瑞鶴」以下の第一機動艦隊は、フィリピン諸島北東に於いて米海軍機動部隊の猛攻を受けた。6時間に渡る死闘の後、「瑞鶴」は魚雷7本・爆弾4発を受けて左舷に大きく傾斜、行き足も止まり、最期の時は刻一刻と迫っていた。遂に艦長の貝塚武男大佐は軍艦旗降下と総員退艦を下令、14時14分、日本海軍最後の大型正規航空母艦「瑞鶴」はその姿を海面に没した。

時に昭和19年(1944年)10月25日14時14分、場所はフィリピン諸島北東の北緯19度20分・東経125度51分、「瑞鶴」と運命を共にしたのは艦長貝塚武男大佐以下843名(士官49名・下士官兵794名)であった。

「瑞鶴」の要目

<竣工時:昭和16年(1941年)>

基準排水量:25675トン
公試排水量:29800トン
満載排水量:32105トン
全長257.5m 水線長:250m 全幅:26m 喫水:8.87m
飛行甲板全長:242.2m 飛行甲板全幅:29m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:16万馬力
最大速力:34.2ノット
航続距離:18ノット・9700海里
搭載機数:常用機72機・補用12機
       艦戦 常用18機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
       艦爆 常用27機・補用5機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用27機・補用5機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾90発・250キロ爆弾300発
          60キロ爆弾540発・魚雷45本・航空燃料496トン
兵装:12.7センチ連装高角砲8基16門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃12基36挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:1660名

<最終時:昭和19年(1944年)>

基準排水量:25675トン
公試排水量:29800トン
満載排水量:32105トン
全長257.5m 水線長:250m 全幅:26m 喫水:8.87m
飛行甲板全長:242.2m 飛行甲板全幅:29m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:16万馬力
最大速力:34.2ノット
航続距離:18ノット・9700海里
搭載機数:常用機72機・補用12機
       艦戦 常用18機・補用2機 (零式艦上戦闘機)
       艦爆 常用27機・補用5機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用27機・補用5機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾90発・250キロ爆弾300発
          60キロ爆弾540発・魚雷45本・航空燃料496トン
兵装:12.7センチ連装高角砲8基16門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃20基60挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ単装機銃36基36挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    12センチ28連装噴進砲8基224門
    二号一型電探1基・一号三型電探1基
乗員:1712名

参考文献

「真珠湾攻撃」
「真珠湾攻撃・全記録 日本海軍・勝利の限界点」
「ミッドウェー」
「機動部隊」
「激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦」

「猛き艨艟 太平洋戦争日本軍艦戦史」
「空母瑞鶴 日米機動部隊最後の戦い」

「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」

関連映画
「「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実」

「瑞鶴」の艦歴

昭和13年(1938年)5月25日:川崎造船神戸造船所(兵庫県)で起工。
昭和14年(1939年)9月30日:軍艦「瑞鶴」と命名。
昭和14年(1939年)11月27日:川崎造船神戸造船所(兵庫県)で進水。
昭和15年(1940年)11月15日:初代艤装員長として横川市平大佐が着任。
昭和16年(1941年)9月25日:川崎造船神戸造船所(兵庫県)で竣工。
                  呉鎮守府籍に編入。
                  初代艦長として横川市平大佐が着任。
                  第一航空艦隊第五航空戦隊に編入。
                  神戸港(兵庫県)を出港。
昭和16年(1941年)9月26日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)10月7日:呉軍港(広島県)を出港。別府沖(大分県)に回航。
昭和16年(1941年)10月16日:別府沖(大分県)を出航。
昭和16年(1941年)10月17日:大分県佐伯湾に回航。
昭和16年(1941年)10月20日:大分県佐伯湾を出航。高知県宿毛湾に回航。
昭和16年(1941年)10月24日:高知県宿毛湾を出航。大分県佐伯湾に回航。
昭和16年(1941年)10月30日:別府沖(大分県)に回航。
昭和16年(1941年)11月2日:別府沖(大分県)を出航。
昭和16年(1941年)11月3日:九州有明湾に回航。
昭和16年(1941年)11月5日:九州有明湾を出航。
昭和16年(1941年)11月7日:別府沖(大分県)に回航。
昭和16年(1941年)11月9日:別府沖(大分県)を出航。
                  呉軍港(広島県)に入港。同日出航。
昭和16年(1941年)11月16日:大分県佐伯湾に回航。
昭和16年(1941年)11月17日:大分県佐伯湾を出航。別府沖(大分県)に回航。
昭和16年(1941年)11月18日:別府沖(大分県)を出航。
昭和16年(1941年)11月22日:択捉島単冠湾に入港。
昭和16年(1941年)11月26日:択捉島単冠湾を出航。
昭和16年(1941年)12月8日:真珠湾攻撃に参加。ハワイ諸島オアフ島真珠湾を空襲。
昭和16年(1941年)12月24日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和16年(1941年)12月30日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和15年(1942年)1月3日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和17年(1942年)1月5日:呉軍港(広島県)を出港。瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)1月8日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月14日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)1月16日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)1月20日:ビスマルク諸島ラバウルを爆撃。
昭和17年(1942年)1月21日:東部ニューギニア北岸ラエを爆撃。
昭和17年(1942年)1月29日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)2月1日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月8日:パラオ泊地に入港。
昭和17年(1942年)2月9日:パラオ泊地を出航。
昭和17年(1942年)2月13日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)2月16日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)2月17日:愛知県三河湾で待機。
                  飛行隊を鈴鹿航空隊(三重県)に揚陸。
昭和17年(1942年)2月28日:飛行隊を収容。
昭和17年(1942年)3月2日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)3月6日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)3月16日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)3月17日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和17年(1942年)3月24日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾に入港。
昭和17年(1942年)3月26日:セレベス島(インドネシア)スターリング湾を出航。
                  インド洋に向かう。
昭和17年(1942年)4月5日:セイロン島コロンボを空襲。セイロン島沖海戦に参加。
昭和17年(1942年)4月9日:セイロン島トリンコマリーを空襲。
                  英空母「ハーミス」を撃沈。
昭和17年(1942年)4月12日:第四艦隊に編入。
昭和17年(1942年)4月18日:馬公(台湾)に入港。
昭和17年(1942年)4月19日:馬公(台湾)を出航。
昭和17年(1942年)4月25日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)5月1日:トラック泊地を出航。ソロモン諸島南方珊瑚海に向かう。
                 ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)に参加。
昭和17年(1942年)5月7日~9日:珊瑚海海戦に参加。
                     米空母「レキシントン」を撃沈。
昭和17年(1942年)5月15日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)5月16日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)5月21日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)6月5日:2代目艦長として野元為輝大佐が着任。
昭和17年(1942年)6月11日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)6月14日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)6月15日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和17年(1942年)6月23日:大湊港(青森県)に入港。
昭和17年(1942年)6月27日:大湊港(青森県)を出港。
昭和17年(1942年)7月12日:別府沖(大分県)に回航。
昭和17年(1942年)7月13日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)7月14日:第三艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)7月20日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)7月30日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和17年(1942年)8月12日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
                  瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)8月16日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
                  ソロモン諸島ガダルカナル島北方に向かう。
昭和17年(1942年)8月24日:第二次ソロモン海戦に参加。
昭和17年(1942年)8月27日~9月4日:戦闘機隊をビスマルク諸島カビエンに派遣。
昭和17年(1942年)9月5日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)9月10日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)9月23日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月11日:トラック泊地を出航。
                   ソロモン諸島ガダルカナル島北方に向かう。
昭和17年(1942年)10月26日:南太平洋海戦に参加。
                   米空母「ホーネット」を撃沈。
昭和17年(1942年)10月30日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月4日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月9日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)11月28日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)11月31日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)1月4日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)1月7日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)1月12日:別府沖(大分県)に入港。
昭和18年(1943年)1月14日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)1月17日:岩国沖(山口県)に回航。
昭和18年(1943年)1月18日:岩国沖(山口県)を出航。
昭和18年(1943年)1月23日:トラック泊地に入港。
                  ソロモン諸島ガダルカナル島の陸軍部隊撤退を支援。
昭和18年(1943年)4月2日:「い」号作戦に参加。
                  飛行隊をビスマルク諸島ラバウルに派遣。
昭和18年(1943年)4月17日:飛行隊がトラック泊地に帰投。
昭和18年(1943年)5月3日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)5月8日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)5月21日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)5月25日:木更津沖(千葉県)に回航。
昭和18年(1943年)5月29日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)5月31日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)6月2日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)6月11日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和18年(1943年)6月19日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和18年(1943年)6月21日:3代目艦長として菊池朝三大佐が着任。
昭和18年(1943年)6月24日:呉軍港(広島県)を出港。瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和18年(1943年)7月10日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和18年(1943年)7月15日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)9月18日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)9月20日:ブラウン泊地に入港。
昭和18年(1943年)9月23日:ブラウン泊地を出航。
昭和18年(1943年)9月26日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)11月1日~12日:飛行隊をビスマルク諸島ラバウルに派遣。
                       飛行隊がブーゲンビル島沖航空戦に参加。
昭和18年(1943年)12月7日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)12月12日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)12月18日:4代目艦長として貝塚武男大佐が着任。
昭和19年(1944年)1月8日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和19年(1944年)1月17日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和19年(1944年)2月1日:呉軍港(広島県)を出港。瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)2月6日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和19年(1944年)2月13日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和19年(1944年)2月20日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
昭和19年(1944年)2月27日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)3月5日:呉軍港(広島県)を出港。瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)3月8日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和19年(1944年)3月15日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和19年(1944年)3月20日:スマトラ島(インドネシア)西方リンガ泊地に回航。
昭和19年(1944年)3月25日:セレター軍港(シンガポール)に回航。
昭和19年(1944年)3月26日:セレター軍港(シンガポール)にて入渠。
昭和19年(1944年)5月6日:セレター軍港(シンガポール)から出渠。
                  セレター軍港(シンガポール)を出港。
昭和19年(1944年)5月7日:スマトラ島(インドネシア)西方リンガ泊地に回航。
昭和19年(1944年)5月12日:スマトラ島(インドネシア)西方リンガ泊地を出航。
昭和19年(1944年)5月15日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月13日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地を出航。
                  「あ」号作戦発動により、マリアナ諸島西方に向かう。
昭和19年(1944年)6月14日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月15日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地を出航。
昭和19年(1944年)6月19日~20日:マリアナ沖海戦に参加
昭和19年(1944年)6月22日:沖縄本島中城湾に入港。
昭和19年(1944年)6月23日:沖縄本島中城湾を出航。
昭和19年(1944年)6月24日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)7月14日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和19年(1944年)8月2日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和19年(1944年)8月10日:第三艦隊第三航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)10月20日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
                   捷一号作戦発動により、フィリピン諸島東方に向かう。
昭和19年(1944年)10月24日:エンガノ岬沖海戦に参加。
昭和19年(1944年)10月25日:米軍艦載機の攻撃により魚雷7本・爆弾4発が命中。
                   フィリピン諸島東方で沈没。
昭和20年(1945年)8月26日:艦籍を除籍される。