(昭和19年5月3日~8月13日)
絶対国防圏
日本は「絶対国防圏」を設定したものの、昭和19年2月末の時点で、南東太平洋方面に於いてはマーシャル諸島・ギルバート諸島を失い、南太平洋の拠点ラバウルは孤立、内南洋の根拠地トラック諸島は既に機能を喪失していた。日本海軍は米海軍に制空権・制海権を奪われ、トラック諸島からパラオ諸島に撤退。日本陸軍はニューギニア北岸のジャングルで米陸軍・豪州軍の猛攻にさらされ、夥しい犠牲を出しながら退却していた。
3月7日、米軍は「今後の太平洋作戦計画」を決定していた。その中では主反攻線をマーシャル諸島・ギルバート諸島からマリアナ諸島(中部太平洋方面)に至る線とし、これを主として米海軍が担当する。ニューギニア方面からパラオ諸島を経てフィリピンへ至る線はそれに次ぐものとし、これを主として米陸軍・豪州軍が担当するとした。
ここで、中部太平洋方面に於ける米軍の主目標であるマリアナ諸島は戦略上大きな意味を持っていた。マリアナ諸島は、小笠原諸島・マリアナ諸島・西カロリン諸島を経てニューギニア北岸に至る「絶対国防圏」の東の要衝を成しており、東京から南に1250海里(2200キロ)位置していた。また、マリアナ諸島の主要な島であるサイパン島・テニアン島・グアム島は大規模な飛行場の建設に適しており、もし米軍にこれらの島々を占領された場合、日本本土が米国で開発中の戦略爆撃機「B29」の爆撃圏内に入り、その空襲に晒される事になる。米軍による日本本土空襲が開始されれば、日本の工業生産は大きな打撃を受け、その戦争遂行に重大な影響を与えることは必至であった。
この状況を鑑み、大本営はマリアナ諸島を含む中部太平洋方面の防備強化を決意した。中部太平洋方面の島々に、陸軍は10万名の兵力(第三一軍)を、海軍は基地航空隊(第一航空艦隊)の1600機以上の航空機と陸上兵力(中部太平洋方面艦隊)を展開、更に、再編成した機動部隊(第一機動艦隊)をフィリピン諸島に待機させ、来るべく米軍の反攻に備える事が決定された。
併しながら、この時期、米軍潜水艦の跳梁が益々激しくなり、中部太平洋方面への輸送・補給は難航、各島嶼に於いては資材不足によって陣地構築・航空築城は遅々として進まなかった。更にその頃、日本軍航空兵力は、既に多くの航空機・搭乗員を失っており、著しく錬度が低下していた。これに対して、米軍は圧倒的な国力を背景にして、航空機の増産・搭乗員の養成を実施しており、質・量共に日本軍航空兵力を圧倒しつつあった。更に、相次ぐ油槽船の喪失によって燃料不足が深刻になり、連合艦隊も次第に行動が制限されつつあった。
5月3日、大本営(軍令部)は連合艦隊に対して、中部太平洋方面の基地航空隊と機動部隊が共同して米軍艦隊を迎え撃つ「『あ』号作戦」を発令、中部太平洋方面に侵攻してくるであろう米軍艦隊を一挙に撃滅し、太平洋に於ける制空権・制海権を奪還しようとした。島嶼防衛は制空権・制海権を取らない限り成り立たない。周囲を敵に囲まれた島嶼での戦闘は守備側が敗北するのは時間の問題であった。日本海軍連合艦隊がこの戦いに敗れれば、中部太平洋方面の制空権・制海権を奪われる。結果、マリアナ諸島を始めとする重要な島々が米軍の手に堕ち、日本本土が空襲にさらされる事は明白であった。正に、「『あ』号作戦」の成否が日本の命運を決める一戦となったのである。日本海軍は、この戦いを「帝国海軍最後の艦隊決戦」と位置づけた。
併しながら、大本営は米軍の次なる主反攻線がマリアナ諸島(中部太平洋方面)であるのか、ニューギニア北岸・パラオ諸島なのか判断がつかなかった。実際、米海軍による中部太平洋方面への侵攻も、米陸軍・豪州軍によるニューギニア北岸への侵攻もどち、らの米軍も主反抗線と思わせるほど兵力だったのである。
5月19日、海軍は機動部隊(第一機動艦隊)をフィリピン諸島に進出させたが、燃料不足からマリアナ諸島近海での決戦には不安があり、そこで「『あ』号作戦」の決戦海面をパラオ諸島近海と想定していた。しかし、戦争の主導権はすでに米軍にあり、機動部隊(第一機動艦隊)も基地航空隊(第一航空艦隊)もいつどこに侵攻してくるか分からない米軍艦隊を待つことになった。更に、この戦いの主力を担う母艦航空隊・基地航空隊の搭乗員は十分な訓練時間も与えられないまま決戦に参加しようとしていたのである。
太平洋の防波堤(日本軍のマリアナ諸島防衛体制)
日本軍は中部太平洋方面の防衛を強化する為、新たな編成を行った。陸軍は第三一軍を編成、司令部をトラック諸島に置くと、中部太平洋方面の主要な島々にその兵力(約10万名)を展開した。海軍も新たに中部太平洋方面艦隊を新設、これは殆どが陸上兵力であり、司令長官は南雲忠一中将であった。中部太平洋方面艦隊は司令部をマリアナ諸島サイパン島に置く、と隷下の部隊を各島嶼に配置した。中部太平洋方面に配備された日本軍守備兵力は以下の通りであった。
「マリアナ諸島の日本軍守備兵力」
・サイパン島
陸軍
第三一軍:参謀長(井桁敬治少将)
第四三師団:師団長(斎藤義次中将)
歩兵第百十八連隊・歩兵第百三五連隊・歩兵第百三六連隊・第四三師団付随部隊
独立混成第四七旅団:旅団長(岡芳郎大佐)
独立歩兵第三一五大隊・独立歩兵第三一六大隊・独立歩兵第三一七大隊・独立歩兵第三一八大隊・旅団砲兵隊・旅団工兵隊
歩兵第十八連隊第一大隊・歩兵第五十連隊第一大隊・歩兵第百五十連隊集成隊
戦車第九連隊・独立山砲兵第三連隊・独立工兵第七連隊・高射砲第二五連隊
その他
海軍
中部太平洋方面艦隊:司令長官(南雲忠一中将)
・テニアン島
・グアム島
・ロタ島
「パラオ諸島の日本軍守備兵力」
・パラオ本島(コロール島)
・ペリリュー島
「トラック諸島の日本軍守備兵力」
「小笠原諸島の日本軍守備兵力」
・硫黄島
・父島
以上の様に、中部太平洋方面の防衛体制は一応は計画され進められていったが、これらの多くはまだまだ机上の計画であった。この時期、米海軍潜水艦の跳梁が激しくなり、マリアナ諸島やパラオ諸島へ向かう途中にこれら潜水艦に撃沈される輸送船が多数あり、目的地に到着するまでに兵員・装備の大半を失った部隊も少なくなかった。これら海没部隊は現地で再編成されたが、雑多な部隊の寄せ集めであり、組織的な戦闘力は期待すべくもなかった。また、セメントなどの築城資材も多くが海没した為、現地では陣地構築・飛行場建設が進まず、やむを得ず有り合わせの資材で急造した陣地も少なくなかった。
更に、この時期においても、陸軍と海軍は協調が十分でなかった。海軍は比較的豊富な資材を保有していたが、これを陸軍に融通することはあまりせず、海軍の陣地・施設はコンクリート製の立派な物が多くあったが、陸軍の陣地は急造の野戦陣地が多かった。後に、大量の資材が保管されたまま米軍に占領された海軍の倉庫が多数あったという。また、陸軍は陸上兵力に関しては、満州の関東軍から抽出した部隊も転用していたが、航空兵力に関しては海軍航空隊のみが展開しており、陸軍航空隊はニューギニア北岸に一部が配備されている程度で、その殆どは依然として中国大陸やビルマ方面に配備されていた。
そして、その海軍航空隊に関しても、既に南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)で多くの航空機・搭乗員を失っており、基地航空隊・母艦航空隊共にその再建途上であった。特に、熟練搭乗員多数を失って著しく錬度が低下し、質・量共に優勢となりつつある米軍航空兵力の前に最早かつての優勢は期待すべくもなかった。技量未熟な搭乗員の多くは、移動と米軍の空襲とによって既にその兵力を消耗し始めていた。更に、各島嶼の行場の多くは建設途中であり、既に完成していた飛行場も掩体壕・防空壕・対空陣地などが不十分な、最前線の飛行場としてはおよそかけ離れたものだった。
マリアナ諸島を太平洋の防波堤と位置づけ、中部太平洋方面の防衛体制強化を呼号したものの、その実態は、雑多な部隊の寄せ集めと、未完成の防衛陣地・形だけの飛行場や、訓練不足の航空兵力といった、正に絵に描いた餅といっても過言ではなかった。
米軍のマリアナ諸島攻略作戦
海兵隊
第5水陸両用軍団
海兵第2師団
海兵第2連隊・海兵第6連隊・海兵第8連隊
海兵第4師団
海兵第23連隊・海兵第24連隊・海兵第25連隊
歩兵第27師団(陸軍)
歩兵第105連隊・歩兵第106連隊・歩兵第165連隊
海軍
第58任務部隊
『あ』号作戦(マリアナ沖海戦)
昭和19年6月11日、米海軍機動部隊がマリアナ諸島近海に出現。11日~12日、サイパン島・テニアン島・グアム島・ロタ島に米海軍艦載機が来襲し、飛行場や陸上施設に対する空襲を開始した。これに対して、マリアナ諸島に展開していた日本軍の基地航空隊(第一航空艦隊)は米海軍機動部隊を攻撃すべく出動するも、展開後まもないこれら基地航空隊は十分な攻撃が行えず、未帰還機が続出。また、米海軍艦載機に対する迎撃も、圧倒的な数の敵機に対しては抗すべくもなく、空中や地上で多数の日本軍機が破壊された。日本軍の基地航空隊は米海軍機動部隊の攻撃の前に、わずか2日で殆どの保有機を喪失し、事実上壊滅してしまった。
6月13日、引き続き米海軍機動部隊はサイパン島・テニアン島・グアム島・ロタ島に対する空襲を実施。特に、サイパン島に対しては米海軍の戦艦・巡洋艦・駆逐艦が艦砲射撃を開始した。これはまさに米軍上陸の前ぶれであり、ここに至って、米軍の目的がマリアナ諸島攻略であることは明白となった。
6月15日早朝、遂にサイパン島に米軍が上陸を開始した、午前7時17分、豊田連合艦隊司令長官は「『あ』号作戦決戦発動」を下令、フィリピン諸島中部のギマラスで補給を行っていた小沢艦隊は順次出撃、東に向かった。16日、『渾』作戦部隊が合流、再び補給を行い、17日、小沢艦隊は米海軍機動部隊との決戦を求めて一路マリアナ諸島近海を目指して進撃を開始した。18日午前5時、小沢艦隊はサイパン島西方700海里(1300km)の地点から策敵機を発進させた、午後には策敵機が次々と米海軍機動部隊発見を報じ、マリアナ諸島西方に3郡からなる米海軍機動部隊の所在が確認された。距離の関係からこの日の攻撃は見合わされ、19日に決戦を期する事となった。
これに対して、スプールアンス提督率いる米海軍機動部隊(米海軍第58任務部隊)は、15日、日本軍艦隊のマリアナ諸島接近の報を受け、迎撃を決意した。16日、サイパン島沖の海上に待機していた米海兵隊・米陸軍の予備兵力をサイパン島に上陸させるとともに、輸送船・上陸支援船を退避させた。スプールアンス提督は米海軍機動部隊をマリアナ諸島西方の海上に移動させ、日本軍艦隊を待ち受けた。
6月19日、いよいよ米海軍機動部隊との決戦の日であった。小沢艦隊では早朝から索敵機が飛び立ち、各空母の格納庫内では、攻撃隊の発艦準備が進められていた。やがて策敵機からは次々と米海軍機動部隊発見の報が入電、午前8時、遂に小沢艦隊の各空母から攻撃隊が発進を開始した。合計246機の日本軍攻撃隊は米海軍機動部隊撃滅という大きな期待をになって東に向かっていった。
この頃、米海軍機動部隊では小沢艦隊の所在を掴めずにいた。スプールアンス提督は防御に徹する事を決心し、全戦闘機に待機を命じた。やがて米軍艦艇のレーダーが接近する日本軍機の大編隊を捉えると、直ちに全戦闘機を発進させ、日本軍機迎撃に向かわせた。更に、これらの米軍戦闘機は無線電話で適切な誘導を受け、絶対優勢な体制で日本軍機を待ち受けた。
日本軍攻撃隊は米海軍機動部隊まで後20~40海里(37~73km)に迫っていた。いよいよ攻撃隊形に展開をしようとした矢先、突如上空から米軍戦闘機が幾重にも渡って襲いかかってきた。日本軍攻撃隊はたちまち大混乱に陥り、爆弾や魚雷を抱いた日本軍爆撃機・攻撃機は米軍戦闘機に補足され次々と火を噴いた。また護衛の日本軍戦闘機も果敢に立ち向かったが、圧倒に有利な体制から攻撃する米軍戦闘機に対して苦戦を強いられ、また、技量未熟な搭乗員の多くは成す術も無く米軍戦闘機に撃墜されていった。米海軍機動部隊手前の空では凄惨な空中戦が繰り広げられ、火を噴いて落ちていく機体の殆どには日の丸が描かれていた。それは日本海軍の運命を象徴する光景であった。
小沢艦隊を発進した攻撃隊は殆ど成す術もなく壊滅した。さらに、小沢艦隊を米海軍の潜水艦が奇襲し、正規空母2隻(「大鳳」「翔鶴」)が沈没、翌20日、殆どの航空機を失った小沢艦隊は再起を期する為に反転して退却を開始した。これに対して米海軍機動部隊の追撃が開始され、米軍機の攻撃によって、小沢艦隊は更に正規空母1隻(「飛鷹」)が沈没、多数の艦船が損傷した。
サイパン島の玉砕(昭和19年6月15日~7月9日)
昭和19年6月15日、米軍がサイパン島への上陸を開始した。サイパン島の日本軍守備隊は米軍を撃退すべく水際での反撃を行ったが、海上からの艦砲射撃と空襲の支援を受けた米軍はサイパン島に橋頭堡を築き、内陸への侵攻を開始した。日本軍守備隊は16日深夜(17日)にも戦車を伴う大規模な夜襲を行ったが、圧倒的な火力をで迎撃する米軍の前に逆襲は失敗、遂に米軍を海に追い落とすことは出来なかった。日2度にわたる水際逆襲の結果、大きな損害を受けてその防衛線は後退、18日、米軍はサイパン島のアスリート行場を占領した。
6月19日~20日、日米海軍機動部隊同士のマリアナ沖海戦の結果は、日本海軍の一方的な敗北に終わった。結果、日本軍はマリアナ諸島周辺の制空権・制海権を失い、サイパン島は孤立無援となった。米軍はサイパン島で大攻勢を開始、じりじりと日本軍守備隊を追い詰めていった。日本軍守備隊は満足な陣地も無く、多くの兵器も失っていたが、死に物狂いの抵抗を行い、米軍に多大な損害を与えた。併しながら、圧倒的な兵力で押し寄せる米軍の前に、サイパン島の日本軍守備隊は多くの将兵が戦死、組織的な戦闘も次第に困難になっていった。6月末、米軍はサイパン島の半分以上を占領し、追い詰められた日本軍守備隊はサイパン島北部に最後の防衛線を敷いて、一歩も引かぬ構えであった。しかし、ここにも米軍は容赦なく押し寄せ、サイパン島の陥落は時間の問題となりつつあった。
7月6日、遂にサイパン島の日本軍守備隊は最後の総攻撃を決意した。7日深夜、日本軍守備隊の残存部隊と一般邦人の一部は米軍の陣地に対して最後の総攻撃を実施、一部では米軍の陣地を突破して損害を与えたものの、朝までに日本軍は殆どが戦死、サイパン島の北部に追い詰められた一般邦人も、米軍に追われて多くは自ら命を絶った。9日、米軍はサイパン島の占領を宣言、日本はサイパン島を喪失した。
テニアン島の玉砕(昭和19年7月24日~8月3日)
昭和19年7月24日、テニアン島北部の海岸に米軍が上陸を開始、海岸付近の日本軍守備隊を撃破した米軍は橋頭堡を築いた。24日夜半に行われた日本軍守備隊の反撃も失敗し、米軍はテニアン島内陸への侵攻を開始した。26日以降、日本軍守備隊は新たに内陸に防衛線を敷き、一般邦人も義勇隊を編成して戦闘に参加したが、米軍はじりじりと南下を続け、30日、テニアン島南西部のテニアン町が米軍に占領された。31日、日本軍守備隊は攻勢に転じ、随所で激戦を展開したが、圧倒的な兵力・火力をもってする米軍の前に、日本軍将兵の多くは戦死し、残存部隊もテニアン島南部に追い詰められた。テニアン島の日本軍守備隊と一般邦人にも最後の時が迫っていた。
8月1日~2日、テニアン島南部に追い詰められた日本軍守備隊の残存部隊は米軍に対して最後の総攻撃を行った。殆どの日本軍将兵は玉砕、一般邦人の多くも自ら命を絶った。サイパン島に続いてテニアン島も陥落した。散発的な戦闘は3日まで続けられたが、米軍は、1日、テニアン島の占領を宣言した。
グアム島の玉砕(昭和19年7月21日~8月13日)