(昭和18年2月~昭和19年2月)
ソロモン諸島ガダルカナル島の攻防戦は半年間に渡り、昭和18年2月初旬、日本軍はガダルカナル島から撤退した。これを契機として、連合軍は南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)に於ける反攻作戦(「カートホイール作戦」)を発動させる。これは、ソロモン諸島は主として米海軍・米海兵隊が、東部ニューギニアは主として米陸軍・豪州軍が担当して南太平洋方面の日本軍拠点ラバウル目指す反攻作戦であった。日本軍はラバウルを拠点として動員し得る航空兵力(海軍航空隊が主力)をもって連合軍と対峙するが、質・量共に優勢となりつつある連合軍航空兵力の前に苦戦を強いられ、次々と失地を重ねていく。
4月18日、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で連合艦隊司令長官山本五十六大将が戦死、6月末、連合軍がソロモン諸島中部への侵攻を開始、ソロモン諸島では連日に渡って日本軍と連合軍の航空兵力による激しい攻防戦が行われた。8月中旬、日本軍はソロモン諸島中部からの撤退を決定、10月初旬、連合軍はソロモン諸島中部を制圧した。東部ニューギニアでも連合軍は北岸沿いに侵攻、9月11日、サラモアが、16日、ラエが、10月2日、フィンシュハーフェンが連合軍に占領される。結果、ラバウルと東部ニューギニアの連絡線が途絶した。東部ニューギニア北岸に孤立した日本軍は武器弾薬・食料が不足する中、制空権・制海権を抑えた連合軍の攻撃に翻弄され、おびただしい犠牲を出すことになる。日本軍は海軍航空隊を中心に連合軍と連日激戦を繰り広げたが、数と勢いを増す連合軍の進撃を食い止めることは出来なかった。これら南太平洋方面での連合軍の反攻に呼応するように、北太平洋方面では米軍が日本軍占領下のアリューシャン列島アッツ島・キスカ島への侵攻を開始、5月29日、アッツ島の日本軍が玉砕、7月29日、キスカ島の日本軍は撤退した。
南太平洋方面の日本軍拠点ラバウルはニューブリテン島北東に位置していた。11月に入るとニューブリテン島南東のソロモン諸島ブーゲンビル島に連合軍が上陸、ニューブリテン島対岸の東部ニューギニア北岸フィンシュハーフェンも連合軍に占領され、12月、連合軍はニューブリテン島南西に上陸する。ラバウルには東西から連合軍が迫り、昭和19年1月に入ると連日に渡って連合軍の空襲を受けるようになる。ソロモン諸島の防衛や東部ニューギニアの支援どころかラバウルの確保すら危うい状況になりつつあった。
中部太平洋方面にも連合軍の反攻が開始された。昭和18年11月19日、米海軍がギルバート諸島(マキン環礁・タラワ環礁)を空襲、21日、米海兵隊がマキン環礁・タラワ環礁に上陸を開始する。大東亜戦争開戦から1年11ヵ月、米海軍は新鋭航空母艦を次々と完成、正規空母6隻・軽空母5隻・護衛空母5隻という圧倒的な兵力で攻め寄せて来たのである。日本軍は南太平洋方面での航空消耗戦によって航空機と搭乗員を多数失い、また当時、米軍潜水艦の通商破壊によって燃料不足が深刻になりつつあった。中部太平洋方面に於ける米海軍の侵攻に対して日本軍は有効な反撃を行うことが出来なかった。23日、マキン環礁・タラワ環礁の日本軍は玉砕、更に、昭和19年1月30日、米軍はマーシャル諸島(クェゼリン環礁)に侵攻、2月6日、クェゼリン環礁の日本軍は玉砕した。米軍はギルバート諸島・マーシャル諸島を占領し、中部太平洋方面からも日本軍占領地への反攻が開始された。
米軍は南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)ではラバウルを目指し(「カートホイール作戦」)、中部太平洋方面ではギルバート諸島・マーシャル諸島攻略(「ガルヴァニック作戦」)を経てマリアナ諸島を目指す二方面で反攻しつつあった。昭和19年2月17日~18日、西太平洋方面に於ける最大の日本軍拠点トラック環礁が米軍の空襲を受けて大損害を被り、基地としての機能を喪失してしまった。トラック環礁の無力化によって南太平洋方面の日本軍拠点ラバウルは後方支援を受けることが不可能になってしまった。20日、ラバウルの日本軍は残存航空兵力をトラック環礁に撤退させ、ラバウルは航空基地としての機能を失い、敵中に孤立してしまう。ここに、昭和17年1月(日本軍のラバウル占領)以来2年1ヵ月に渡る南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)に於ける日本軍と連合軍の航空戦はその幕を閉じたのである。以後、連合軍は孤立したラバウルを素通り、東部ニューギニア伝いを西進してフィリピン諸島へ、更に中部太平洋を北進してマリアナ諸島を目指していく。
南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)での戦闘は航空兵力の優勢が勝敗を左右した。つまり戦闘は主として航空機による制空権・制海権争奪戦であったのである。制空権を抑えた側は地上戦を有利に進め、海上でも艦隊が自由に行動できた。更に補給が円滑に進み益々作戦を有利に進める事が出来る。逆に制空権を失った側はこれら全てが不利になる。日本軍の航空兵力は大東亜戦争開戦当初は優秀な搭乗員と航空機によって各地で大きな戦果を挙げた。しかし、開戦1年以上が経過すると多くの優秀な搭乗員を失い、連合軍の新鋭戦闘機が登場するに従って次第に優位を失っていく。更に日本軍の航空戦力に致命的だったのは、その背景となる総合的な国力が連合国の其れと比して格段に劣っていたことである。大東亜戦争開戦から約2年後の昭和19年に入ると米軍は次々と新鋭の航空母艦・戦艦を完成させ、新型の航空機を開発・配備する。太平洋に於ける日米の戦力には最早埋めがたい差が生じていたのである。