ガラパン市街周辺の戦跡一覧
南洋寺門柱跡
南洋寺門柱跡南洋寺門柱跡「フィエスタリゾート&スパ サイパン」の脇に「南洋寺門柱跡」が遺されている。
寺自体は戦禍に巻き込まれ残っておらず、現在遺されているのは「門柱」のみである。
特に「門柱」の裏側(海岸側)には弾痕のような損傷が多数遺されている。
当時の「南洋寺の梵鐘」は「源覚寺」(東京都文京区)から送られたものであったが、戦後米兵によって米本土に持ち帰られたようである。昭和40年(1965年)にアメリカテキサス州で発見され、その後、昭和49年(1974年)に「源覚寺」に返還された。
「南洋寺門柱跡」の歩き方
ガラパン市街の北部である。
オレアイ海岸からビーチロード(Beach Rd.33号線)を北上してガラパン市街に入る。
ガラパン市街の北部にある「DFS GALLERIA」の先を左折して西(海側)に進む。
「アメリカンメモリアルパーク」の直ぐ南西側、ビーチロード(Beach Rd.33号線)の西側(海側)に「フィエスタリゾート&スパ サイパン」「ハイアット・リージェンシー・サイパン」が並んでいる。
「フィエスタリゾート&スパ サイパン」に向かって左側(南側)の道路沿いに「南洋寺門柱跡」がある。
アメリカンメモリアルパーク
「アメリカンメモリアルパーク」は米国によって建設された。
サイパン島の戦闘で戦死した米兵と米軍による攻撃の巻き添えによって亡くなった現地人(チャモロ人とカロリニアン人)の為の追悼施設である。
アメリカンメモリアルパークアメリカンメモリアルパーク「アメリカンメモリアルパーク」の敷地の大部分は芝生の公園になっており、各種の慰霊施設や記念碑がある。ほかにテニスコートやヨットハーバーもある。
駐車場の前には「ビジターセンター」がある。
「ビジターセンター」内の展示室には、サイパン島での日米の戦闘を中心に各種の展示がなされている。
日本人観光客を意識してか、日本語と英語で説明文が書かれている。
主に米国の歴史観に基づく展示である。日本本土への「無差別絨毯爆撃」「原爆投下」が戦争終結を早めたという主張や、大東亜戦争が一方的な日本の侵略であったと解釈するなど、違和感のある説明もある。
サイパン島内で発見された当時の品物や当時の写真などがパネルと共に展示されている。
「アメリカンメモリアルパーク」敷地内にある「マリアナズメモリアル(Marianas Memorial)」である。
これはサイパン島での戦闘に於いて、米軍による攻撃の巻き添えによって亡くなった現地人の為の「慰霊碑」である。
「慰霊碑」には、米軍の攻撃によって亡くなった現地人(チャモロ人とカロリニアン人)933人の氏名が刻まれている。
「アメリカンメモリアルパーク」敷地内に遺される「日本軍トーチカ」である。
コンクリートなどの築城資材不足の為、石を積んで造られている。銃眼が3つあり、海岸方向を指向している。
裏側に入口があり、半地下式である。
説明看板には「20mm機関砲用のトーチカ」とあり、「九八式二十粍高射機関砲」の図が描かれている。
展示内容詳細
・日本軍装備品
・米軍の進攻
・日本本土空襲
・戦後のサイパン
「アメリカンメモリアルパーク」の歩き方
ガラパン市街の北部である。
オレアイ海岸からビーチロード(Beach Rd.33号線)を北上してガラパン市街に入る。
ガラパン市街の北部にある「DFS GALLERIA」を過ぎて更に進むとビーチロード(Beach Rd.33号線)がMicro Beach Rd.に突当る。
Micro Beach Rd.の向こう側(北側)の広場が「アメリカンメモリアルパーク」である。
ビーチロード(Beach Rd.33号線)を左折すると右手に「アメリカンメモリアルパーク」の入口がある。入口から入ると駐車場があり、その奥に「ビジターセンター」がある。
「アメリカンメモリアルパーク」の西側(海側)の芝生の中に「日本軍トーチカ」がある。
入場料:無料
開場時間(ビジターセンター):10:00-17:00(水曜~日曜)
休館日(ビジターセンター):月曜、火曜
HP:http://www.nps.gov/amme/index.htm
電話:(670) 234-7207
(2009年現在)
砂糖王公園(シュガーキングパーク)・サイパン実業学校跡・慰霊碑
「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」は、日本統治時代、南洋興発株式会社の初代社長であった松江春次を記念する公園として戦後に造られた。
松江春次は現在もサイパン島発展の功労者として現地人からも尊敬されている。
敷地内は歩道が整備され、植樹が行われている。現在は、市民の憩いの場となっている。
敷地内には「松江春次の銅像」がある。
松江春次は、明治9年(1876年)1月15日、会津藩士松江久平の次男として旧会津藩(福島県会津若松市)に生まれ、旧制会津中学校(現・福井県立会津学鳳高校)に入学した。世界的な細菌学者の野口英世とは同県人・同年であり、交流があった。
明治32年(1899年)に東京工業学校 (現・東京工業大学)を卒業、大日本製糖 (現・大日本明治製糖)に入社、明治36年1(903年)、農商務省海外実業練習生としてルイジアナ州立大学に留学した。
因みに、陸軍軍人であった兄の松江豊寿は、第一次世界大戦に於けるドイツ人捕虜を人道的に扱い、地元民とドイツ人捕虜との交流によって、日本での第九(ベートーベン:交響曲第九番)演奏のきっかけをつくった事で知られている。映画「バルトの楽園」(2006年:日本)でもその様子が描かれている。
写真左は松江春次、写真右は松江豊寿である。
大正9年(1920年)、サイパン島を含む南洋群島が日本の委任統治領になり、東洋拓殖(株)や南洋拓殖(株)によって製糖事業が開始されたが、当初は不振であった。
松江春次は、サイパン島・テニアン島の実地調査を行い、製糖事業改善と困窮した移民救済の為、大正10年(1921年)11月29日、南洋興発株式会社を設立し、土壌改善等に取組んだ結果、創業3年目には事業も軌道に乗った。
南洋興発は、製糖事業の利益を拓殖事業に注ぎ込み、酒造業・鉱業・水産業・農業・運輸へと事業を広げていった。
やがて、松江春次は「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれるようになり、、南洋興発が納める出港税が南洋庁の収入の6割を超えるに至った。この功績によって、昭和9年(1934年)8月4日、現職社長としては異例の「銅像」が建てられた。
サイパン島の戦闘では、「松江春次の銅像」は奇跡的にも米軍の攻撃を免れていた。米軍はこの「銅像」を目障りだとし、サイパン島占領後、「銅像」を破壊しようとした。しかし、松江春次は大勢の現地人から尊敬されており、彼らの猛反対によって米軍は「銅像」の破壊を諦めた。
昭和42年(1967年)の「銅像」である。
現在、「松江春次の銅像」は「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」のシンボルとしてその雄姿を留めている。
「銅像」には米兵によって撃ち込まれた銃弾の弾痕(左頸部に2発、左ポケットに1発)がある。遊び半分の仕業であろう。
敷地内には、日本統治時代、南洋興発がサトウキビ運搬用に使用していた「機関車」が遺されている。
サイパン島で大規模な製糖事業を開始した南洋興発は、収穫したサトウキビを輸送する為の軽便鉄道を敷設した。
軽便鉄道はサイパン島の外周をほぼ1周する様に敷設され、島中から集められたサトウキビは、チャランカノアに建設された製糖工場に集められた。
軽便鉄道で使用する為に、多数の小型の機関車が日本から搬入され、サトウキビの輸送以外にも、旅客輸送や物資輸送に活躍した。
併しながら、サイパン島の軽便鉄道は、昭和19年(1944年)6月、上陸してきた米軍によって破壊され、機関車も殆どが失われてしまった。 現在、サイパン島内には軽便鉄道の線路は遺されていない。
敷地内に遺される「機関車」は、戦後直ぐにこの場所に展示されていたが、老朽化が激しく、後に下田四郎氏(戦車第九連隊の生存者)によって修復されて現在に至る。
上の写真は米軍の攻撃で破壊された機関車である。
日本統治時代、収穫したサトウキビの輸送に活躍する機関車である。
敷地内には「南洋庁サイパン実業学校記念碑」「サイパン実業学校建物跡」が遺されている。
「南洋庁サイパン実業学校」は昭和8年(1933年)に南洋庁令によって開設された。
「サイパン実業学校建物跡」は現在、「砂糖王公園」の管理施設として利用されているようである。
敷地内には戦没者の為の「慰霊碑」が幾つかある。
「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」「サイパン実業学校跡」「慰霊碑」の歩き方
ガラパン市街の南部である。
オレアイ海岸からミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)を北上し、「ガラパン市街」に入ったあたりの右手に「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」がある。
砂糖王公園(シュガーキングパーク)砂糖王公園(シュガーキングパーク)または、ビーチロード(Beach Rd.33号線)を北上し、「ガラパン教会」の手前の道(Kopa Di Oru St.)を右折する。Kopa Di Oru St.とミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)との交差点の右奥(南東)に「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」がある。
Kopa Di Oru St.を挟んだ「砂糖王公園」の北側に駐車場がある。
ミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)を挟んだ「砂糖王公園」の西側(海側)には「北マリアナ博物館」がある。
「砂糖王公園」の敷地の中央付近に「松江春次の銅像」「慰霊碑」が、西端に「機関車」「南洋庁サイパン実業学校記念碑」「「サイパン実業学校建物跡」がある。
また、敷地の東端には「彩帆香取神社(サイパン香取神社)」がある。
彩帆香取神社(サイパン香取神社)・彩帆神社跡(サイパン神社跡)
彩帆香取神社・彩帆神社跡大正3年(1914年)10月14日、日本は当時ドイツ領であった南洋群島を占領した。
この時、作戦に参加した日本海軍の戦艦「香取」の艦内神社に祀られていた香取神宮の分霊を分祀して「香取神社」としたのが、現在の「砂糖王公園」裏の「小山」の「洞窟」であった。この「小山」にはドイツ統治時代は監視所が設けられていたが、この時に「香取山」と命名された。
大正5年(1915年)、台風による被害の為、「香取山」中腹に社殿を造営して遷座した。祭神は香取神宮の経津主神であった。
大正9年(1920年)、サイパン島を含む南洋群島は国連の信託統治領として日本による委任統治が決定した。サイパン島もサトウキビ栽培による製糖業で大いに栄えるようになった。
昭和6年(1931年)10月24日、南洋興発社長の松江春次の提案によって、それまでの「香取神社」の規模を拡大し、新しい社殿に遷座され、「彩帆神社(サイパン神社)」と社名も改められた。それが現在の「砂糖王公園」の敷地である。祭神は経津主神と新たに合祀された天照大神・大国主命であった。
昭和19年(1944年)6月、米軍の攻撃でガラパン市街灰燼に帰した。
「彩帆神社」も焼失し、荒廃した。戦後、「彩帆神社」の跡地は「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」となった。
現在、「砂糖王公園」敷地内には「彩帆香取神社(サイパン香取神社)」がある。これは戦後再建された神社である。
側には、当時あった「彩帆神社」の灯篭と社号標が遺されている。
戦闘の際の弾痕が遺されている。
社号標は平成16年(2004年)6月頃、風化によってに自然倒壊したが、平成17年(2005年)、天皇陛下のサイパン島訪問の際に修復された。
現在ある「彩帆香取神社(サイパン香取神社)」は、昭和60年(1985年)11月19日、香取神社連合会によって再建された。
「彩帆香取神社」の「拝殿」の裏にある「小山」がかつての「香取山」である。
日本統治時代、「彩帆神社」の「本殿」もこの「小山」の中腹にあった。現在、「彩帆香取神社」の「本殿」も同じ場所にある。
「拝殿」をくぐると「本殿」に続く石段がある。
「小山」には登山道が整備されている。「彩帆香取神社」の「拝殿」の右手に案内看板があり、登山道に通じる小道がある。
小道を進むと、小山の横に戦没者を慰霊する「お堂」(サイパン国際礼拝堂・南溟堂)がある。
「南溟堂」は、国際布教師の秋田新隆老師が発願、5年の歳月を経て、平成2年10月、戦没者遺族、 岐阜県仏教会等を中心として建てられた。
「南溟堂」に向かって右に登山道が続いている。
登山道を進むと、「小山」の西側(海側)、ちょうど「彩帆香取神社」の裏側に天然の「洞窟」がある。
かつて、戦艦「香取」の香取神宮の分霊を分祀した場所である。
「小山」の登山道から「彩帆香取神社」「砂糖王公園」を望む。
ドイツ統治時代にはこの「小山」に監視所があり、日本統治時代は「香取山」と呼ばれていた。現在もガラパン市街方面の海が見える。
「彩帆香取神社(サイパン香取神社)」「彩帆神社跡(サイパン神社跡)」の歩き方
ガラパン市街の南部、「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」の敷地内である。
オレアイ海岸からミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)を北上し、ガラパン市街に入ったあたりの右手に「砂糖王公園」がある。
「砂糖王公園」の敷地の東端に「彩帆香取神社(サイパン香取神社)」がある。
比較的新しい鳥居・灯篭・社殿は戦後に再建された「彩帆香取神社」のものである。
「彩帆香取神社」に向かって右手前にあるのが、戦前の「彩帆神社」の灯篭・社号標である。
「彩帆香取神社」の背後(東側)に小山がある。この小山がかつての「香取山」である。
「彩帆香取神社」拝殿の右奥に小道があり、小山に上る登山道に通じている。
小道の途中、小山の南側の麓に「お堂」(サイパン国際礼拝堂)がある。
そこから更に登山道を登っていくと小山の西側(海側)、ちょうど「彩帆香取神社」拝殿の裏側あたりに「洞窟」がある。
北マリアナ博物館(日本病院跡)・建物跡・防空壕跡
「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」の向かいに「北マリアナ博物館(North Marianas Museum)」がある。
「北マリアナ博物館」は昭和63年(1988年)に開館した。日本統治時代の「南洋庁サイパン医院」の建物が利用され、サイパン島・テニアン島の歴史や現地人の文化について紹介している。
「博物館」の側には、別棟の「建物跡」が遺されおり、日本統治時代は、この区画一帯が病院の敷地であった。
「南洋庁サイパン医院」は、日本統治時代の大正11年(1922年)に日本政府(南洋庁)が設立した。
当時、南洋群島で最高の設備を持った近代的な病院であった。
現在、「南洋庁サイパン医院」は「日本病院」と呼ばれている。
当時の「日本病院」の正面玄関が、「北マリアナ博物館」の裏口になっている。
日本統治時代の「日本病院」。
米軍が上陸してくる以前の平和な時代のサイパン島を偲ばせる。建物の外観は当時と殆ど変わっていない。
当時の「日本病院」の中の様子。
日本統治時代、南洋群島には南洋庁によってサイパン医院・パラオ医院・アンガウル医院・ヤップ医院・トラック医院・ポナペ医院・ヤルート医院の7つの病院が建てられ、現地の衛生環境改善に貢献した。
「博物館」には、現地人(チャモロ人・カロリニアン人)の歴史や文化、スペイン・ドイツ・日本統治時代のサイパン島・ テニアン島の歴史、サイパン島での日米の戦闘の記録などが展示されている。
「博物館」は撮影禁止である。
今回特別に許可を頂いて撮影した。
「日本病院」で功績のあった医師を記念する石碑がある。上部が破損してしまっている。
「博物館」の側には「建物跡」「防空壕跡」「灯篭」が遺されている。
この「建物跡」は「日本病院」の施設の一部であった。当時の写真から、「建物」は倉庫として使用されていたようである。
「建物」の後ろにあるのは現地人のための医療施設である。「日本病院」の敷地北側(「砂糖王公園」の直ぐ向かい)に建てられていた。現在は芝生になっており、何も遺されていない。
「博物館」「建物跡」の横(北側)に「防空壕跡」が遺されている。
戦時中、敷地内に造られたものだろうか。
左右に反対向きに入口があり、円形の半地下式コンクリート製である。
「博物館」の側に「灯篭」が2基遺されている。
真っ直ぐ東に進むと、「彩帆神社(サイパン神社)」(現在の「砂糖王公園」)である。
ここまで「彩帆神社(サイパン神社)」の参道だったのだろうか。
展示内容詳細
・日本統治時代
・米軍のサイパン侵攻
「北マリアナ博物館(日本病院跡)」「建物跡」「防空壕跡」の歩き方
ガラパン市街の南部である。
オレアイ海岸からミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)を北上し、ガラパン市街に入ったあたりの左手に「北マリアナ博物館(日本病院跡)」がある。
または、ビーチロード(Beach Rd.33号線)を北上し、「ガラパン教会」の手前の道(Kopa Di Oru St.)を右折する。Kopa Di Oru St.とミドルロード(Chalan Pale Arnold Rd. 30号線)との交差点の右手前(南西)に「北マリアナ博物館(日本病院跡)」がある。
「北マリアナ博物館」の建物が「日本病院跡」である。その直ぐ側に「建物跡」があり、その直ぐ横(北側)に「防空壕跡」がある。
「灯篭(2基)」は「博物館」の西側の駐車場の側にある。
入場料:2ドル、学生(学生証提示)1ドル、5歳以下無料
開場時間:09:00-16:30(月曜~金曜)、12:00-16:30(土曜)
休館日:日曜、祝日
HP:http://nmimuseum.net/
電話:(670)664-2160
(2009年現在)
ガラパン教会の鐘楼(ベルタワー)
ガラパン市街南部に「ガラパン教会」がある。正式名称は「クリスト・ライ教会(Kristo Rai Church)」である。
また、「ガラパン教会」の横にはスペイン統治時代に建てられた「鐘楼(ベルタワー)」が遺されている。
「ガラパン教会」もスペイン統治時代から続くカトリックの教会であが、昭和19年(1944年)6月、米軍の攻撃によって破壊された。現在の「ガラパン教会」は戦後に再建された。
明治38年(1905年)、ドイツ統治時代の「教会」。石を積んで造られているのがわかる。横には小さな建物が見える。
日本統治時代の「教会」。ドイツ統治時代と同じ建物であり、小さな建物も同じである。日本人も大勢参加してお祭が行われている。
当時、ガラパン市街には神社(神道)・寺院(佛教)・教会(キリスト教)が同居していた。
日本統治時代の「教会」。正面が新築されているようである。横の小さな建物は同じである。
同じ時期の「教会」。
「教会」の左後ろ(北側)に「鐘楼」が、右横(南側)には「ラッテストーン」が見える。
また、「教会」の右後ろ(東側)には「南洋庁サイパン支庁」が見える。
これ等は、平和な時代のサイパン島を伝える写真である。しかし、平和な時代は突然終わりを告げる。
昭和19年(1944年)6月15日、米軍はサイパン島に上陸し、ガラパン市街も米軍の砲爆撃で破壊された。7月2日、米軍はガラパン市街に突入した。
米軍の攻撃によって炎上する「教会」である。
後ろに「鐘楼」が見える。
サイパン島占領後、神父から「教会」の被害について説明を受ける米軍将校。(写真左上)
米軍の攻撃で破壊された「教会」の前で写真を撮る米軍兵士。(写真左下)
戦後、現地人の協力によって再建された「ガラパン教会」の除幕式。(写真右)
日本統治時代の「鐘楼」。(写真左)
「鐘楼」も米軍の攻撃を受けて損傷したが、破壊は免れた。戦闘後の「鐘楼」。(写真右)
「ガラパン教会」は、昭和62年(1987年)現在の建物に新築された。新築当時、外観は黄色であったが、平成18年(2006年)に外観が白色に再塗装され、現在に至る。
「鐘楼」は現在も遺されている。
尚、テニアン島の サン・ホセ市街にも「スペイン統治時代の鐘楼」が遺されている。
「ガラパン教会の鐘楼(ベルタワー)」の歩き方
ガラパン教会の鐘楼(ベルタワー)ガラパン教会の鐘楼(ベルタワー)ガラパン市街の南部である。
オレアイ海岸からビーチロード(Beach Rd.33号線)を北上し、「日本軍トーチカ」を越えて約 m進んだ右手に「ガラパン教会」がある。
「ガラパン教会」に向かって右奥(北東)に「鐘楼(ベルタワー)」がある。