カロリナス台地周辺

カロリナス台地周辺の戦跡一覧

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スーサイドクリフ

テニアン島の南部にはカロリナス台地と呼ばれる台地がある。カロリナス台地は南東側が切立った断崖になっており、海岸線との間に細長い平地がある。また、海岸線も切立った崖になっている。

現在、カロリナス台地の南東に「スーサイドクリフ」と呼ばれる場所があり、戦没者を弔う為の慰霊碑が多数建てられている。

ここ近年、中国人観光客等による慰霊碑への落書きや損傷行為が多発した。

「スーサイドクリフ」の端には崖を見下ろすように「展望台」が設けてある。

「展望台」からは断崖の下の海が見下ろせる。昭和19年8月、米軍に追い詰められた人々はこの一帯から海に身を投じた。

平和な時代を生きる我々が、現在の価値基準をもって当時の人々の行動を云々言うのは適切ではない。しかし、我々が彼らの冥福を祈る事は、戦没者に対する行為として当然の事ではなかろうか。

「鳥居」の「慰霊碑」。

「魂」と彫られた「慰霊碑」。
徳島県の金比羅宮の有志によって建てられた。

「専習健児慰霊之塔」である。
サン・ホセ市街(San Jose)には「専修学校敷地跡の碑」が遺されている。

「沖縄の塔」である。

日本統治時代、テニアン島ではサトウキビ栽培による製糖業が盛んであった。その為、テニアン島への移住者には、 沖縄県出身者が多かった。
テニアン島では、米軍の攻撃によって約2000人の沖縄県出身者(一般市民)が亡くなった。

「沖縄の塔」には、慰霊碑とその正面に儀式用の座席が設けられている。慰霊碑の後ろには十字架が建てられている。

「旧満州海城山砲兵第二十九連隊 第四中隊慰霊碑」である。

山砲兵第二十九連隊第二大隊の一部は、昭和19年2月、歩兵第五十連隊の砲兵大隊としてテニアン島に派遣された。7月、テニアン島に上陸してきた米軍との戦闘によって将兵の殆どが散華し、部隊は玉砕した。

「鎮魂不戦之碑」である。
日本統治時代にテニアン島に在住していた有志によって建てられた。

「太平洋戦没者慰霊平和塔」である。

「スーサイドクリフ 」の歩き方
スーサイドクリフ スーサイドクリフ テニアン島の南東端にある。

「テニアン空港」のターミナルを出て「ブロードウェイ」に出たら右折して真っ直ぐ南へ進む。

「ブロードウェイ」が下りになり、下りきると右側(西側)にサン・ホセ市街(San Jose)が見えてくる。

「テニアン空港」を出てから約3.2kmほど進んだところに、右側(西側)からの「8番街(8th Ave.)」と合流する「T字路」がある。

この「T字路」を越えて更に進む。
左手には大きなリゾートホテル(「テニアン・ダイナスティー・ホテル」)が見えている。

「T字路」から約700m進むと道が左に直角に折れている。前方に海水浴場への細い道があるが、ここは直角に左折する。

直角に左折したところから650m程進むと「十字路」がある。「十字路」を800m程進むと「Y字路」があるが、道なりに右に進む。

ここから先は道なりにテニアン島の南端を反時計回りに進んでいくと、前方に「スーサイドクリフ」のゲートが見えてくる。

「スーサイドクリフ」のゲートは、中国人観光客等による慰霊碑への落書きや損傷行為の防止の為に設けられた。
一時期は入場制限があったが、現在(2009年)では緩和され、自由に入場できる。

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