大東亜戦争における新潟県の歴史

新潟県は日本の都道府県の1つであり、信越地方の経済・産業の中心地である。20市・9郡・6町・4村からなる。面積は12584km2(平成21年10月)であり、人口は約236万人(平成23年9月)である。本州の北に位置し、北は日本海に面し、他は山地に囲まれている。富山県・長野県・群馬県・福島県・山形県などと隣接している。

中世の戦国時代(16世紀末)、現在の新潟県は上杉氏によってほぼ支配されていた。その後、豊臣秀吉の命によって上杉氏が会津(福島県)に移り、代わってほかの大名が入り、現在の新潟県の市町村の基となった。

慶応3年(1867年)、江戸幕府が倒れ、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府が樹立された。しかし、旧幕府軍と新政府軍との間に戊辰戦争が勃発、信越・東北地方の諸藩は旧幕府軍(東軍)として新政府軍(西軍)と戦った。特に、長岡藩は、軍事総督河井継之助や大隊長山本帯刀の指揮の元に頑強な抵抗をしたが、遂に両指揮官以下数百名の藩士が壮絶な戦死を遂げ、城下町も灰燼に帰した。そして、敗れた長岡藩は賊軍(反乱軍)の汚名を着せられ、石高も減らされて人々の生活は困窮していた。この時、近隣諸藩から救援物資として米俵百俵が届いたが、時の大参事であった小林虎三郎は、将来を担う人材の育成が大切だとし、これを学校建設の資金とした。この事は、後に「米百俵」の故事として有名になり、平成14年(2002年)、当時の小泉純一郎総理が「米百俵」を引用して構造改革を訴えた事は記憶に新しい。やがて、人々は持ち前の粘り強さによって郷土を復興させ、また、その後も多くの学校が設立されて優秀な人材を多数輩出するようになった。

大東亜戦争に於ける新潟県出身の著名な軍人としては、海軍の山本五十六海軍元帥(長岡市)と、陸軍の本間雅晴陸軍中将(佐渡島)が挙げられるだろう。


山本五十六元帥は、明治17年(1884年)4月4日に生まれ、旧制長岡中学校から海軍兵学校に入学、日露戦争の日本海海戦にも参加した。その後は駐在武官として欧米に出張、帰国後は主に海軍航空本部で勤務、当時まだ発展途上だった航空機の将来性を見出し、その育成に尽力した。昭和11年(1936年)に海軍次官に就任した山本中将(当時)は、米内光正海軍大臣と井上成美軍務局長と共に、ドイツ・イタリアとの同盟に強硬に反対した。大東亜戦争緒戦に於いては、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃(ハワイ諸島オアフ島)やミッドウェー海戦を指揮したが、昭和18年(1943年)4月18日、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で乗機が撃墜されて戦死した。享年59歳。

本間雅晴中将は、明治20年(1887年)11月27日に生まれ、旧制佐渡中学校から陸軍士官学校に入学した。少尉任官後、歩兵第十六連隊(新発田市)に配属された。その後、陸軍大学校、参謀本部員へと進み、駐英武官としてイギリスに駐在し、欧州通として知られた。大東亜戦争緒戦に於いては、第十四軍司令官としてフィリピン諸島の攻略を指揮した。本間中将は非常に温和で人間味のある将軍であったという。しかし戦後、米軍によってこの時の米比軍捕虜の処遇(所謂「バターン死の行進」)の責任を問われる事になった。これは偶発的な事故であったが、米軍の報復的な戦犯裁判では、まともな取調べも行われる事無く本間中将に絞首刑が宣告された。これに対し本間中将は全く弁明せず部下の一切の責任を背負い、昭和21年(1946年)4月3日未明、従容として刑の執行を受けた。享年59歳。

また、新潟県長岡市は、昭和20年(1945年)8月1日夜、米軍による大規模な空襲を受けた。この空襲は大量の焼夷弾を市街地に投下し、非戦闘員である一般市民の殺戮を目的としていた。一晩の空襲で一般市民1461人が死亡、多数が負傷した。 長岡市は、富山市・福井市と並び、日本海側で大きな空襲を受けた数少ない都市であった。

尚、新潟県の郷土部隊としては以下の連隊があった。

新発田市:歩兵第十六連隊・後備歩兵第十六連隊・歩兵第百十六連隊・歩兵第百五十四連隊
五泉市村松:歩兵第三十連隊(高田に移駐)・歩兵第百五十八連隊
上越市高田:歩兵第三十連隊・歩兵第五十八連隊・独立山砲第一連隊

特に、歩兵第十六連隊(新発田市)と歩兵第三十連隊(五泉市村松)は、明治以来の歴戦の連隊として、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満州事変、支那事変と数々の戦役に従軍した。大東亜戦争に於いても、歩兵第十六連隊は、ジャワ島(オランダ領インドネシア)、ソロモン諸島ガダルカナル島、雲南(中国南部)、ビルマでの過酷な戦闘を経験した。歩兵第五十八連隊も、ビルマからインド東部へのインパール作戦に参加、多くの将兵が散華した。