大東亜戦争におけるサイパン島の歴史

サイパン島北部の戦跡
バナデル周辺(旧マッピ岬・旧マッピ山・旧バナデル平原)
ラストコマンドポスト周辺
サン・ロケ地区(旧マタンサ)

サイパン島中部の戦跡
キャピトル・ヒル周辺
タッポーチョ山(タポチョ山)周辺

サイパン島西部の戦跡
ガラパン市街
オレアイ海岸
チャランカノア海岸
マニャガハ島(軍艦島)

サイパン島東部の戦跡
旧チャチャ・旧ドンニィ周辺
・カグマン半島

サイパン島南部の戦跡
・サイパン国際空港周辺
・ナフタン半島
・南海岸周辺

サイパン島の博物館・戦跡詳細
日本軍兵器(ラストコマンドポスト)
アメリカンメモリアルパーク(ビジターセンター)
北マリアナ博物館

サイパン島は日本の南、約2400㎞、北緯15°15’東経145°45’に位置する島である。グアム島を除くマリアナ諸島の北マリアナ自治領の中心的な島であり、テニアン島へは南へ約5km、ロタ島へは南へ136kmという位置関係である。島の面積は185平方kmで伊豆大島の約2倍の大きさである。島は南北に伸びた形をしており、中央部の最高標高「タッポーチョ山」(473m)周辺が山岳地帯となっており、島中は珊瑚質の岩盤である。

気候は典型的な海洋性亜熱帯気候である。年間の平均最高気温は27℃で年較差は小さく、一年中泳ぐことができる。4月中旬から10月初旬が雨季であり、10月中旬から4月初旬が乾期である。

先住民としてチャモロ人・カロリニアン人がおり、彼らは紀元前3000~2000年ごろにフィリピンやインドネシアなどを経由してきた東南アジア系人種が祖先であるという説が有力である。フィリピン人や中国人の移民も多く、人口は約58000人である。

かつてはチャモロ民族の伝統的な土着信仰が中心であったが、現在はカトリック教徒が大多数を占める。アメリカ合衆国の保護領であり、公用語は英語である。

大正3年(1914年)7月28日、第一次世界大戦が勃発し、日本軍は当時ドイツ領であった南洋諸島を占領した。終戦後の大正9年(1920年)、サイパン島を含む南洋諸島は国連の信託統治領となり、日本による委任統治が決定した。大正10年(1921年)3月、南洋諸島の製糖事業を目的とする国策会社として南洋興発株式会社が設立され、さらに、大正11年(1922年)4月1日にはサイパン島に南洋庁サイパン支庁が置かれた。当時、日本国内でサイパン島は「彩帆島」と呼称され、同島は日本の南洋開発の中心地となり、精糖・漁業・酒造・農業などの産業も大いに栄えた。昭和18年(1943年)8月の時点で、同島の人口は日本人約30000人、チャモロ人・カロリニアン人約4000人であった。

大東亜戦争開戦当初、サイパン島を含むマリアナ諸島は日本軍の後方基地として機能し、最前線からは縁遠い場所であった。しかしながら、昭和18年以降、米軍の反撃が本格化し、日本軍の戦線は次第に後退した。そして、マリアナ諸島は日米双方から重要な戦略拠点として注目され始めた。なぜなら、マリアナ諸島は米軍の重爆撃機「B-29」によって日本本土爆撃が可能な距離に位置していたのである。

日本軍はマリアナ諸島を含む「絶対国防圏」を策定して防備を固めようとしたが、兵力・資材・船舶不足によって防衛体制の構築は遅々として進まなかった。果たして、昭和19年(1944年)6月11日、米軍機によるサイパン島空襲が開始された。13日、艦砲射撃も加わり、ここに米軍によるマリアナ諸島侵攻が開始された。

15日、ついに米軍はサイパン島西部「オレアイ海岸」「チャランカノア海岸」に上陸を開始した。日本軍は水際撃滅作戦を取ったが、見晴らしのよい上陸海岸に構築された陣地は米艦艇や航空機の砲爆撃で徹底的に破壊された。米軍は日没までに幅10km、奥行き1kmの橋頭堡を築いた。日本軍は16日深夜に上陸した米軍を海へ追い落とすべく、戦車第九連隊の44両を含む約8000名で総攻撃を行ったが、米軍の圧倒的火力の前に失敗に終わった。米軍は内陸へ侵攻し、18日には「アスリート飛行場」を占領した。

昭和19年(1944年)6月19日~20日、日本軍は「マリアナ沖海戦」の敗退によってマリアナ諸島周辺の制海権・制空権を完全に喪失、マリアナ諸島は孤立し、救援の望みは絶たれた。24日、大本営はサイパン島の放棄を決定した。

追い詰められた日本軍は島中央部の「タッポーチョ山」周辺の山岳地帯の洞窟を利用して頑強に抵抗したが、圧倒的な兵力・装備を誇る米軍に抗し切れず、残存部隊は約3000名にすり減っていた。7月7日、斎藤義次中将は 残存部隊に最後の総攻撃を命じ、ほとんどの日本兵が万歳突撃を敢行して玉砕した。

この戦いで島内の大勢の日本人民間人も米軍に追い詰められ、「バンザイクリフ」などから身を投げほとんどが自ら命を絶った。また、米軍の攻撃の巻き添えによりチャモロ人・カロリニアン人にも多くの犠牲者が出た。

日本軍の総攻撃を退けた米軍は7月9日にサイパン島の占領を宣言した。しかし、日米の戦いはまだ終わっていなかった。指揮官が自決し組織的抵抗が終了したあとも、生き残った日本兵は各部隊ごとに米軍の掃討を逃れつつ反撃を加えたのである。

映画「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」(2011年:日本)のモデルとなり、竹野内豊が演じた大場栄大尉の率いた歩兵第十八連隊衛生隊もその一つであった。大場栄大尉は「タッポーチョ山」を拠点にし、圧倒的に優勢な米軍に対し密林で覆われた丘や洞窟など奥深いところに戦闘を持ち込んでゲリラ戦を展開した。当然食料の補給は既に途絶えていたが、米軍の倉庫を襲撃して食料を確保するなどして戦いを続けたのである。米軍は残存兵に対する掃討作戦を繰り返し行っていたが、大場隊は巧みに掃討をかわして神出鬼没に米軍を翻弄し、いつしか米軍は大場栄大尉を「フォックス」と呼ぶようになった。

大場隊は終戦を知らず戦い続けていたが、昭和20年(1945年)11月27日に独立混成第九連隊長の天羽馬八陸軍少将の正式な降伏の命令書を受け取り、ついに12月1日に大場栄大尉以下47名は投降した。山を降り、米軍の待つ広場へ軍歌「歩兵の本領」を堂々と歌いながら整然と行進する大場隊を、米軍側代表ハーマン・ルイス大尉は畏敬の念を持って迎えたという。

サイパン島は現在では観光産業が栄え、日本人をはじめ多くの観光客で賑わうリゾート地である。日本からのフライトは3時間ほどと近く、価格も手頃なツアーが多いため人気のリゾート地である。美しい海でのダイビングやサーフィンなどのマリンスポーツのほか、スカイレジャーやゴルフなどのスポーツも盛んである。島の景色も素晴らしく、周囲は美しい砂浜と珊瑚礁に囲まれ、まさに南国の楽園と言える。

しかしながら、大東亜戦争当時、この島では多くの日本軍将兵が祖国を護る為に戦い、大勢の日本人住民や現地人が戦闘の犠牲となった悲劇の島でもある。そしてその時の戦跡が今も島のいたる所に遺されている。一部は観光地化されているが、多くはほとんど知られずに、密林の中に眠っている。

米軍が上陸した島西部の砂浜沿いには多数のトーチカが遺されている。現在島の中心地となっている「ガラパン市街周辺」は、当時も文化・経済の中心地であり、神社や南洋興発関連の建物が遺されている。「サイパン国際空港」は当時の日米航空隊にとって重要拠点であり、多数の軍施設や兵器類を見ることができる。大場栄大尉が拠点としていた「タッポーチョ山」山頂からは島全体がよく見渡せる。また、「タッポーチョ山」南側の麓には、日本軍の砲兵陣地跡や、第四三師団戦闘指揮所が置かれた洞窟等が遺されている。

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