アンガウル島北部

大東亜戦争におけるアンガウル島の歴史
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アンガウル島北部の戦跡

アンガウル神社

アンガウル島の北東に「アンガウル神社」が遺されている。

「アンガウル神社」の由来は、大正6年11月27日、日本の委任統治領であった南洋群島の中では最も古く創建された。その後、昭和19年(1944年)9月、米軍の攻撃によって焼失した。

現在の「アンガウル神社は」、昭和58年(1983年)5月、日本の青年神職団体とアンガウル島民有志によって再建された。

御祭神は、天照大神とアンガウル島で玉砕した将兵・軍属、及び日本統治時代にアンガウル島発展に尽力して亡くなった人々である。

再建された「アンガウル神社」は、アンガウル島に散華した英霊や功労者の御霊を供養する「慰霊碑」でもある。

御神体の奉られた祠の前には1対の狛犬が置かれている。狛犬は日本から奉納された。

「アンガウル神社」の向かいの敷地に、アンガウル島で戦没した英霊を供養する「慰霊碑」が、多数建てられていた。
これら「慰霊碑」は、戦後、生還した将兵や遺族によって日本軍守備隊玉砕の地とされるこの場所に建てられていた。

平成22年(2010年)、「慰霊碑」は、福井縣護国神社を始めとする日本の有志とアンガウル島民有志によって、アンガウル島の北東に移設された。

現在は、石の台座があるのみである。

「アンガウル神社」の歩き方

「アンガウル港」から外周道路を北上する。
途中、「灯台跡」を過ぎて更に北上する。

「アンガウル港」から約5km(自転車で15分~20分程)、外周道路の右手(山側)に「アンガウル神社」の鳥居が見える。
(N:06°54′55.40″ E:134°07′39.46″)

「アンガウル神社」から外周道路を挟んで向かいに小さな広場がある。ここが以前(平成22年まで)「慰霊碑」があった場所である。

ブローホール・マリア像(旧那須岬)

アンガウル島の北東の岬に「マリア像」が建てられている。
この岬は日本統治時代は「那須岬」と呼ばれていた。船でアンガウル島に渡る場合、「マリア像」は海上からもよく見える。

「マリア像」は、昭和29年(1954年)、アンガウル島で戦没した米軍兵士の慰霊の為に建てられたようであるが、詳細不明である。

付近には看板等は無い。

「旧那須岬」の一角が広場になっている。

この付近には、アンガウル島で戦死した日本軍守備隊長後藤丑雄少佐の碑が建てられたが、後に「アンガウル神社」付近に移設され、現在はアンガウル島東部に移設されている。

青い空の下に、青と白の「マリア像」が実によく映える。
現在のアンガウル島は緑に覆われた平和な島である。

ブローホール・マリア像(旧那須岬)ブローホール・マリア像(旧那須岬)「マリア像」から直ぐ近くの海岸の岩場に「ブローホール」がある。

海岸の岩場の一角に、海と繋がる穴が開いており、そこに波が打ち寄せると、岩場の上の穴から勢いよく海水が吹き出ている。

外周道路からも「ブローホール」がよく見える。
波が打ち寄せると、穴を吹き抜ける風の音が響き、その直後、海水が勢いよく吹き出ている様子が間近で見える。

「ブローホール・マリア像(旧那須岬)」の歩き方

「アンガウル港」から外周道路を北上する。
途中、「灯台跡」を過ぎて更に北上する。

「アンガウル港」から約6km(自転車で15分~20分程)、「アンガウル神社」から750m程北上すると、外周道路が大きく右に曲がっている。ここがアンガウル島の北西の岬(旧那須岬)である。

外周道路の左手に岬(海側)に向かう側道があり、この先の広場には「マリア像」が見えている。
(N:06°55′18.46″ E:134°07′30.16″)

「マリア像」のある場所から、外周道路を更に450m程進むと、左手(海側)に「ブローホール」がある。周辺は、海側が開けており、海岸の岩場がよく見える。
(N:06°55′20.32″ E:134°07′43.85″)

リン鉱石採掘施設跡

アンガウル島北部の海岸沿いに「リン鉱石採掘施設跡」が遺されている。

外周道路から少し南側(陸側)に入ったところに、鉄骨で櫓が組まれている。

アンガウル島に於けるリン鉱石採掘はドイツ統治時代から行われていた。
大正11年(1922年)以降、パラオ諸島を含む南洋群島が日本の委任統治領となってからも、リン鉱石採掘は最も重要な島内産業であった。

パラオ諸島でのリン鉱石採掘は、当初は南洋庁管轄であったが、昭和12年(1937年)、アンガウル島でのリン鉱石採掘が南洋拓殖株式会社に移管された。

リン鉱石の採掘量は、昭和10年(1935年)には78000トン、昭和14年(1939年)には104000トンに上った。

アンガウル島内には、ドイツ統治時代からリン鉱石輸送の為の鉄道が引かれ、機関車が持ち込まれていた。

櫓の下にはトロッコや車輪が遺されている。

トロッコは採掘したリン鉱石を輸送する為に使用された。

終戦後も約10年間、日本から作業員がアンガウル島に渡り、リン鉱石採掘が続けられた。
これらリン鉱石は肥料の原料として活用され、戦後の日本の食糧難を支えた。

「リン鉱石採掘施設跡」の歩き方

「アンガウル港」から約6.5km(自転車で20分~25分程)、「ブローホール」から250m程先に進む。

外周道路の右手(陸側)の森の奥に、鉄骨を組んだ櫓が見える。
(N:06°55′18.55″ E:134°07′52.18″)

櫓のある場所が「リン鉱石採掘施設跡」である。
周囲は岩山に囲まれている。

ペリリュー島の遠景

アンガウル島はペリリュー島の南西約10kmに位置している。

アンガウル島北部からは対岸にあるペリリュー島の南西を遠望することが出来る。

昭和19年(1944年)9月15日、ペリリュー島の周囲には米軍艦艇が幾重にも取巻いていた。更に、ペリリュー島の南西沖合いには、米海兵隊の上陸用舟艇・水陸両用車両がひしめき、一斉にペリリュー島西海岸を目指した。

当時、この場所からはペリリュー島に上陸しようとする米軍と、それを阻止せんとするペリリュー島の日本軍守備隊との激しい戦闘が遠望されたはずである。

その時、アンガウル島の日本軍守備隊はどの様な想いでその光景を見たのであろうか。

息詰まる想いでペリリュー島の友軍の戦闘を見つめたアンガウル島の日本軍将兵であったが、その2日後、9月17日、遂にアンガウル島にも米軍が上陸を開始した。

「ペリリュー島の遠景」の歩き方

アンガウル島北部から対岸にペリリュー島が見える。

「ブローホール」から「リン鉱石採掘施設跡」を過ぎて 「島民解放記念碑」付近までの外周道路は海岸沿いに通っており、この付近から対岸のペリリュー島が遠望できる。

海に向かって右手(北東)の方向にペリリュー島の島影が見える。

島民解放記念碑

アンガウル島北部に「島民解放記念碑」が建てられている。
「島民解放記念碑」は、平成5年(1993年)10月8日、アンガウル島での戦闘の49周年を記念して米軍によって建てられた。

日本統治時代、アンガウル島では日本人と現地人の島民が共に暮らしていた。しかし、大東亜戦争末期、米軍のアンガウル島侵攻が予想され、日本軍は島民を避難させるべく手を尽くした。
併しながら、米軍の航空機・潜水艦による妨害の為に島民約200人は避難することが出来なくなった。

昭和19年(1944年)9月17日、米軍はアンガウル島に上陸を開始した。日本軍守備隊は島民を安全な洞窟に待避させ、米軍の侵攻を食い止めるべく奮戦したが、1ヵ月後、遂に玉砕した。
アンガウル島に取り残された島民の多くは、日本軍の計らいによって、この場所の近くの洞窟に避難して難を逃れた。

しかし、島民が自分たちの村に戻ると、そこは米軍の攻撃で破壊されており、かつて繁栄を誇っていたアンガウル島は荒廃してしまった。
これを米軍は「島民の解放」と称し、島民が米軍の攻撃から身を隠していたこの場所に「島民解放記念碑」を建てた。

「島民解放記念碑」の歩き方

「アンガウル港」から約7km(自転車で25分程)、「リン鉱石採掘施設跡」から250m程先に進む。

海岸沿いを通っていた外周道路が大きく右に曲がり、内陸へと入っていくと共に、ゆるい上り坂になっている。

ゆるい上り坂を20m程上った場所のやや右手に「島民解放記念碑」がある。
(N:06°55′17.92″ E:134°07′59.70″)

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