北京郊外

北京郊外の戦跡・見どころ一覧

大東亜戦争における北京の歴史
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「坦克博物館(タンク博物館) 」

北京郊外の戦車の博物館である。「坦克(タンク)」とは「TANK」を音写した中国語表記である。中国語での「戦車」とは、馬が引く古代戦闘馬車(チャリオット)を指す。

博物館正門の両側には2両の「T-34/85」が訪問者を迎える。1950年頃、ソ連から「T-34」が導入されて中国陸軍の近代化が始まった。

展示されている戦車は中国軍で使用されていたものが多い。中国陸軍は戦後しばらくはソ連の「T-34」や、「T-54」のライセンス生産である「59式戦車」を配備していた。昭和63年(1988年)に制式採用された「80式戦車」以降は国産戦車が中心となっている。

日本軍の車両も2両展示されている。特に「九四式軽装甲車」は現存するものは世界で2両しか残っておらず貴重である。博物館の中でこの車両だけがガラスケースの中で保存されている。
なお、もう1両の は現存するものは世界で2両しか残っておらず貴重ではモスクワの「クビンカ戦車博物館」に遺されている。

「九七式中戦車」である。
大東亜戦争開戦当時には、各国戦車と比較すると火力、装甲は低かったが、中国軍は有効な対戦車火器を持っていなかったため、特に中国戦線で活躍した。終戦で日本軍が引き上げると、共産党は中国大陸に残された日本軍車両の接収し、国共内戦に使用した。

米軍の車両も遺されている。写真の「M3A1軽戦車(スチュアート)」のほか、「LVT(A)-4」が展示されている。

展示内容詳細
・博物館外観
・九四式軽装甲車(94式軽装甲車)
・九七式中戦車(97式中戦車)
・中国軍戦車
・M3A1軽戦車(スチュアート)
・LVT(A)-4
・T-34/85

「坦克博物館(タンク博物館) 」の展示内容
「博物館外観」博物館に入って正面の建物は資料館となっている。中国軍の戦車部隊の歴史が展示されている。手前は「96式戦車」である。1996年に中国陸軍に制式採用され、旧式化した「59式戦車」や「69/79式戦車」を補う形で約1500両が生産さ...

「坦克博物館(タンク博物館) 」の歩き方

北京中心部から約40kmほど北の郊外に位置する。まず、地下鉄13号線「龍沢駅(Longze)」で下車。なお、中国語では駅名が簡体字表記で日本の漢字表記と若干異なるので注意。

駅の出口の階段を下りたところは広場となっている。この広場の先の道路を渡り、50mほど右手に行くと「城鉄龍沢站」バス停がある。乗るべきバスは「昌20路」系統である。「昌20路」は10分に1本程度の頻度で運行しているようである。ここが始発であり、全て「南口村行き」なので、方向を気にせずに来たバスに乗ればよい。

付近には各方面へ向かうバス停が複数あるが、「昌20路」は「昌25」と表記されたバス停付近に止まる。なぜか「昌20」と表記されたバス停は見当たらない。

バスの入口のところに運賃支払い用のICカードリーダーが設置されているが、現金でも乗ることができる。その場合は、バスの中ほどにいる車掌に運賃を払う。車掌は私服なので分かりにくいが、運賃収受用の黒いハンドバックを下げている。右写真の椅子に座っている女性が車掌である。

バスの出口の左上あたりにバス停の一覧が表示されている。31個目の「坦克博物館」バス停で下車する。運賃は4元、1時間ほどの道のりである。なお、通常英語は通じないので、「坦克博物館」と書いた紙を見せて、運賃を払うと良いだろう。

バス停にはバス停名を表記しているところと表記していないところがある。「坦克博物館」バス停にはバス停名の表記がないので、その3,4個手前の表記のあるバス停名を確認しておき、バス停の数を数えて「坦克博物館」のバス停の場所を把握すると良い。

「坦克博物館」バス停で下車して、バスの進行方向(北へ)に100mほど歩いたところの左手が博物館正門である。入口の両側には2両の戦車が置かれている。正門の右手側の小屋がチケット売場である。

また、北京市中心部の地下鉄2号線「積水潭駅(Jishuitan)」の西400mほどの「徳勝門」バスターミナルから914路支線車に乗って行くこともできるようである。ただし、バスの本数は少なく、混雑する市街地を走るため1時間半~2時間ほどかかるようである。

入場料:18元
休館日:月曜日
開館時間:08:30-17:00(春、夏、秋季)
       08:30-16:30(冬季)
(2010年現在)

「盧溝橋と宛平県城」

盧溝橋は北京市街地の南西20kmの豊台区を流れる永定河にかかる石橋である。その歴史は古く、1192年の金王朝の時代に完成した。全長は266.5mであり、11幅のアーチからなる。かつてこの地を訪れたマルコ・ポーロはその著書「東方見聞録」の中で「世界中でどこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と記した。そのため、西洋では「マルコ・ポーロ・ブリッジ」として知られている。

橋の欄干には、一つひとつ違う姿と大きさをした501体の石造りの獅子が並んでいる。

以前は路面が舗装され、車での通行も可能であった。しかし、1980年代に史跡保護を目的とした大規模な修復工事が行われ、それ以降車での通行は禁止された。現在では車は南側にかけられた別の橋を通行している。路面は舗装されたままだが、橋の中央部には石畳が一部復元されている。正面奥に見えるのが宛平県城である。

盧溝橋は日中の全面衝突である支那事変のきっかけとなった「盧溝橋事件」が起きた歴史的な場所でもある。周辺の位置関係図である。

1937年(昭和12年)7月7日、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(清水中隊)は豊台にあった兵営を出発し、盧溝橋北側の永定川西岸の野戦演習地に向かった。
この付近は現在では住宅地となっている。

19時30分頃より空包を用いた演習が開始されたが、22時30分頃、鉄道橋近くの堤防より十数発の射撃を受けた。清水中隊は演習を中止し、点呼を行ったところ、二等兵が一人行方不明であることが分かった。清水中隊長は豊台の第三大隊本部(一木大隊)に伝令を送った。
鉄道橋は盧溝橋の約300m北側にある。

伝令は23時50分前に到着し、一木大隊は翌8日の1時0分に豊台を出発して西五里店に向かった。一方、清水中隊も演習地を引き払って西五里店に向かい、一木大隊と清水中隊は西五里店西方で合流した。なお、行方不明だった二等兵は0時15分頃に発見された。行方が分からなかった理由ははっきりとはしないが、中国側の射撃とは無関係だったようである。一木大隊は前進し、西五里店の西側の一文字山を占領した。3時25分には龍王廟方向から再び3発の銃声を聞いた。

現在の龍王廟付近である。工業用地として造成されたように見えるが、空地も多い。

一木大隊長は4時0分に北平(北京)の牟田口連隊長に電話連絡により攻撃許可を求め、牟田口連隊長は4時20分に一木大隊長に攻撃許可を与えた。その直後、一木大隊長は宛平県城への軍使一行として北平から派遣された連隊長代理の森田中佐と面会した。攻撃許可が出ていることを知らない森田は一旦弾薬の装填禁止を命じた。
現在の一文字山方向であるが、住宅地として造成されたようであり、山のようなものは見えない。

しかし、第29路軍は龍王廟および永定河西側の長辛店付近の高地から迫撃砲と小銃で攻撃をかけてきたた。

森田は城外にいる敵に限定して攻撃してよい、と言明した。一木大隊長は5時0分、大隊に城外にいる敵に対して攻撃命令を出した。夜が明けると、宛平県城にいた中国兵は城外に出て、堤防沿いに龍王廟まで展開を開始した。
写真右側、橋の正面奥に小さく見えるのが宛平県城である。

この様子は一文字山からは良く見渡せたため、5時30分頃からの日本側の射撃を受けて中国兵に大きな損害が出た。中国兵は交通壕を通って元いた宛平県城に退却していった。
宛平県城の西門である。

一方、一木大隊の攻撃と同時に、宛平県城内にて軍使桜井少佐と金振中営長との間で現地交渉が開始された。双方は戦闘の中止で一致したが、中止命令はうまく伝達されず、戦闘は続いた。
宛平県城内に遺される旧盧溝橋駅舎である。

6時20分、一文字山に支那駐屯軍参謀和知中佐が現れ、宛平県城にいる敵兵の武装解除を軍方針とする方針が一木大隊長に伝えられた。
宛平県城の城壁の内側である。城壁の高さは8mほどであろうか。かなりの厚みがある。

一木大隊長は永定河西側に進出して宛平県城を包囲するため、大隊の一部を率いて永定河を渡河して中州に進出した。第29路軍側は中州に孤立しているように見えた一木大隊長らに銃撃を集中させた。7時30分頃、ようやく銃撃戦は収束していった。

季節にもよるかもしれないが、永定河は川幅の割に水量が少なく、盧溝橋北側はところどころ砂地が見えている。

南側には自動車橋(戦後の建設)が見える。堰があるため、こちらは比較的砂地は少ない。

城内の交渉で戦闘の中止で一致していたが、牟田口連隊長は引き続き宛平県城の占領を命令した。一方、金振中も第29路軍中央より宛平県城の死守命令を受けていた。牟田口は11時0分から砲撃を含めた総攻撃をかけたが、中洲に孤立した一木大隊の一部がなかなか東岸に戻れなかったため、攻撃の効果は限定的であった。

宛平県城南側の城壁には日本軍の砲撃によってできた着弾痕が遺されている。

翌9日2時0分、北平にて日本軍と第29路軍を永定河を境に分離する協定が成立し、戦闘は一旦終了した。一木大隊は戦死10名、戦傷30名を出し、第29路軍は戦死60名、戦傷120名を出したと伝えられている。
盧溝橋西側である。

盧溝橋事件の最初の銃撃を行ったのが誰かについては、日本軍、国民党、共産党などの故意または偶発説などがあり、現在も謎が残る。
両軍はそのまま睨み合いを続けていたが、宛平県城は日中全面衝突が発生した後の29日に日本軍によって占領されることとなる。

「盧溝橋と宛平県城」の歩き方

ある。八角遊楽園駅から盧溝橋までは5kmほど。タクシーで20分、約30元程度である。

なお、六里橋長距離バスターミナルから309、339路バスでも行けるようである。「盧溝新橋」下車後、北へ徒歩約10分である。

帰りは宛平県城南側に大通りが走っており、ここでタクシーを拾うことができるだろう。

盧溝橋は宛平県城側に入場門がある。
なお、宛平県城は入場無料である。

入場料:20元
休場日:なし
開場時間:07:00-19:00(4-10月)、08:00-17:00(11-3月)
(2010年現在)

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