大東亜戦争における北京の歴史

北京の戦跡・見どころ
北京市街
北京郊外

北京の博物館・戦跡の詳細
北京航空館(北京航空航天大学)
北京警察博物館
坦克博物館(タンク博物館)

中国の首都北京は黄海沿いの天津から150kmほど内陸にあり、西側と北側を山脈に囲まれた華北平原の北西端に位置する。北京市街地西側には永定河が流れており、市街地中心部から南西約15kmには盧溝橋がかかっている。支那事変のきっかけとなった盧溝橋事件が起きた場所である。

北京は清朝の前の明朝の時代から首都であり、現在も常住人口1633万人(2007年)を擁する大都市である。蒋介石の率いる国民政府は首都を南京と定めたが、昭和24年(1949年)の中華人民共和国の成立により北京は再び首都とされた。

近世以降の中国は苦難の歴史であった。日清戦争が明治28年(1895年)に清の敗北で終わると、それまで「眠れる獅子」と清を畏れていた欧米列強は次々と清に進出した。外国勢力の進出への反発は明治32年(1899年)に「扶清滅洋」をスローガンとする義和団事件を引き起こし、それに乗せられる形で清朝は列強へ宣戦布告した。

しかしながら清に列強に対抗する戦力はなく、すぐに8ヶ国連合軍によって北京を占領されて北京議定書を締結させられた。 これは多額の賠償と海岸沿いの山海関から北京までの諸拠点(天津など)に列強の駐兵権を認める内容であった。清朝の求心力は低下し、後に辛亥革命が起こり中華民国が成立することとなった。

昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外にて盧溝橋事件が発生した。事件の原因については日本軍、国民党軍、共産党の謀略、あるいは偶発説など諸説あり、現在も謎が残る。盧溝橋事件は日中双方宣戦布告のないまま全面的な戦闘に発展し、支那事変へと発展した。国際的孤立を避けたい日本にとっても、外国(アメリカ、イギリス)の支援が必要な国民党にとっても、宣戦布告は都合が悪かったのである。中国大陸での権益の維持拡大を狙う米英は、日本の勢力拡大を抑えるため、香港経由の援蒋ルートを通じて国民党を支援した。

日本軍は7月中に北京、天津を占領した。これに対応し国民党と共産党は第二次国共合作によって共闘体勢を取ったが、日本軍は11月には上海を占領した。12月には国民政府の首都であった南京を占領したが、蒋介石は重慶に遷都し抗戦を続けた。

その後も昭和16年(1941年)12月までに済南、青島、徐州、広東、武漢三鎮、南昌、南寧などの主要都市、工業地帯を次々と占領したが、広大な中国大陸を面で支配することは不可能であった。日本軍の支配は都市と輸送路のみ、つまり点と線にとどまった。一方、広東を押さえられて香港経由が使えなくなった米英は、新たにビルマルートを設定し、引き続き国民党を支援した。

昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃とともに日本がアメリカ、イギリスに宣戦布告すると、国民政府は翌9日に日本に宣戦布告し、支那事変は日中戦争となった。

昭和17年(1942年)5月、日本軍はビルマ全域を占領し援蒋ルートを遮断しようとしたが、アメリカ・イギリス側は新規ルートの建設と並行して空路による支援を続けたため、これを完全に遮断することができなかった。日本軍は対米英戦争開始後も、香港、鄭州、洛陽などを占領したが、中国軍はゲリラ戦術を展開し、戦線は膠着したまま、昭和20年(1945年)8月15日、終戦を迎えた。

兵器類は日本軍撤退後に引き続き国共内戦に使用されたものも多く、市内・郊外の博物館の収蔵物として遺されている量は豊富である。中には「九四式軽装甲車」など現存数が少なく貴重なものも多い。

北京市街の南西には、日中全面衝突に発展するきっかけとなった盧溝橋があり、歩いて渡ることができる。盧溝橋のすぐ東側の宛平県城の城壁には、盧溝橋事件のときの日本軍砲弾の着弾跡が生々しく遺されている。市民は秩序正しい印象であるが、市内には多数の警官が配備されており、どことなく「治安維持」という言葉を連想させる。

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