立川飛行機が開発・製造した「一式双発高等練習機(キ54)」である。陸軍は昭和14年(1939年)に多目的に使用できる高等練習機の試作を指示し、昭和16年(1941年)7月に制式採用された。
全金属、双発、引込脚が条件とされた。立川飛行機としては、初めての自社開発の全金属製双発機だった。
操縦席からの視界は広く、訓練用の広いスペースも設けられており、使い勝手の良い機体であった。そのため、練習機型のほか輸送機型や哨戒機型も生産され、連絡機としても使用された。生産数は1342機である。
正副操縦者のほかに操縦訓練生、航法手訓練生、通信手訓練生、爆撃手訓練生、旋回機銃手訓練生などの訓練生と教官計6~7名が乗れるように設計された。機体には窓がたくさん付いており、大柄な機体である。
戦後も各地に残った機体には日本人志願兵の手によって国共内戦で運用されたものもあった。この機体もそのうちの一つだったのであろう。
青森県・秋田県の県境の十和田湖には、ほぼ原型を保ったままの「一式双発高等練習機」が沈んでいることが2010年に発見された。昭和18年(1943年)9月に墜落した機体で、乗っていた4人のうち1人のみが救助された。機体の引き上げが検討されているそうである。
(2023年追記)
当該機は2012年に十和田湖から引き揚げられ、現在青森県立三沢航空科学館で展示されている。
「P-61(ブラックウイドウ)」
アメリカ・ノースロップ社の夜間戦闘機「P-61(ブラックウイドウ)」である。ロンドンに対するドイツ爆撃機夜間空襲に大きな脅威を感じた米陸軍は夜間戦闘機の必要性を感じ、昭和15年(1940年)の暮れに発注が行われた。
機首部分には夜間戦闘に必須のレーダーを搭載している。双胴式の機体に2000馬力のエンジン2基を搭載していた。
胴体下面には20mm機関砲4門前方固定、中央胴体部上部に遠隔操作式の12.7mm四連装旋回銃座を備える重武装であった。
開発は難航し、実戦投入は昭和19年(1944年)まで遅れた。機体の重量の割には軽快な運動性だったが、単発機には遠く及ばず目立った戦果を上げることなく終戦を迎えた。
「P-47(サンダーボルト)」
アメリカ・リパブリック社の陸上戦闘機「P-47(サンダーボルト)」である。試作機は昭和16年(1941年)に初飛行したものの、初の本格的高高度高速戦闘機として開発にはトラブルが相次ぎ、運用開始は昭和18年(1943年)以降である。
2430馬力の強力なエンジンパワーを生かすため、直径12ft(3.66m)の巨大なプロペラを採用した。機首にカバーがかけられ、エンジンとプロペラは取り外されているようである。
燃費は悪かったが太い胴体下部に大容量の燃料タンクを格納しており、航続距離は2900km(D型、増槽使用時)と長かった。この航続距離を生かし、欧州戦線では爆撃機に随伴してドイツまでの護衛を行った。
主翼には12.7mm機関銃を8挺を備えていた。「P-51(マスタング)」の登場で護衛任務を取って代わられた後は、この重武装で対地攻撃に活躍した。さらに2500lbs(908kg)の爆弾が搭載できた。これは日本軍の爆撃機である「一式陸上攻撃機(一式陸攻)」や「九七式艦上攻撃機(97艦攻)」の搭載量800kgを越える。
「V2ロケット」
ドイツが開発した世界初の弾道ミサイル、「V2ロケット」である。仮設置き場の南端に置かれた3本のミサイルのうちの両側の2基である。
「V1飛行爆弾」が大気圏を飛行機並の速度で飛行する無人の爆弾であったのに対し、「V2ロケット」は宇宙空間に到達したあと超音速で落下してくるため、当時の軍事技術では迎撃不可能であった。
しかし、この誘導システムの精度が低く、コストも4発で爆撃機1機に匹敵するため、戦術的効果は限定的であった。しかしながら、この迎撃不可能な兵器の連合国への心理的効果はかなり大きかったとされる。
終戦直前は「V2ロケット」と技術者の獲得競争が行われた。アメリカとソ連は多数の「V2ロケット」と技術者を自国に連れ帰った。イギリスも少数の「V2ミサイル」を獲得した。ここに保管されている2本の「V2ロケット」は中国と関係の深かったソ連から供与されたものなのであろうか。
「その他航空機」
ソ連の副座練習機「Yak-18」である。戦後初期の練習機で、朝鮮戦争では朝鮮民主主義人民共和国軍によって夜間攻撃としても使用された機種である。
アメリカ・ダグラス社の陸軍輸送機「C-47(スカイトレイン)」である。旅客機「DC-3」の軍用機輸送型であり、日本海軍も「DC-3」を原型として「零式輸送機」を制式採用した。
詳細不明であるが、ヘリも保管されている。
ソ連の超音速戦闘機「MiG-19」である。初飛行は1953年で世界では2番目の超音速機となった。