シドニー
・シドニー港攻撃概要
・オーストラリア海事博物館
(Australian National Maritime Museum)
・オーストラリア海軍記念館
(Australian Naval Memorial)
キャンベラ
・オーストラリア戦争記念館
(Australian War Memorial)
・カウラ捕虜収容所跡
・日本人戦没者墓地
・オーストラリア人戦没者墓地、カウラ墓地
・日本庭園、桜通り
メルボルン
・戦争慰霊館(Shrine of Remembrance)
・RAAC陸軍戦車博物館
(Royal Australian Armoured Corps Memorial
and Army Tank Museum)
・旧Wangaratta Air World
オーストラリア最大の都市は約450万人の人口を擁するシドニーであるが、首都は人口約33万人のキャンベラである。1901年、オーストラリアがイギリスから独立するとき、シドニーと同国2位の350万人の人口を擁するメルボルンとの間で首都の座を巡る対立が起きた。この争いに決着を付けるためにシドニー、メルボルン間の中間地点に新しく建設された人工都市がキャンベラである。
シドニーは南半球最大の都市であり、特に金融業が発達した国際都市である。18世紀後半に最初の入植者がやってきた場所であり、港湾や交通が整備されて以後オーストラリアの中心となっていった。一方、メルボルンに入植者がやってきたのは19世紀前半である。19世紀半ばにヴィクトリア州中央部で金が発見されてゴールドラッシュが始まり、貿易のための港町として急速に発展を遂げた。市街にはビクトリア様式の建築物が多く残っており、アメリカ風なシドニーの街並みと対比してメルボルンはイギリス風な街並みである、と言われる。
港内に停泊する敵主要艦を「特殊潜航艇」で狙ったマダガスカル島ディエゴスワレズ湾攻撃と同期し、昭和17年(1942年)5月にシドニー港攻撃が計画された。「特殊潜航艇」は真珠湾攻撃に5艇が参加したが、全て未帰還であった。今回は母艦と「特殊潜航艇」の間に交通筒が設けられ、浮上せずに発進ができるように改良されていた。また、不具合の多いジャイロコンパスその他装備の信頼性も大きく改善された。しかし、生還の可能性が依然として極めて低いことは明白であった。
トラック諸島チューク島を出航した5隻の巡潜乙型潜水艦(うち3隻は「特殊潜航艇」を搭載)は昭和17年(1942年)5月30日にシドニー沖に到達し、夕方に「特殊潜航艇」を発進させた。イ24号搭載艇は港内への侵入に成功し、米海軍重巡洋艦「シカゴ」を発見し、2本の魚雷を発射した。魚雷のうち1本は「シカゴ」の舷側をかすめ、オランダ潜水艦「K-Ⅳ」と係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦「クッタブル」の艦底を通過して埠頭に当たって爆発した。「クッタブル」はこの爆発で真っ二つに折れて沈没し、21名が戦死した。イ24号搭載艇はその後港外への脱出に成功したものの、潜水艦(母艦)に戻らずに行方不明となった。イ27号・イ22号搭載艇は敵艦艇や防潜網に阻まれ、魚雷未発射のまま自爆した。
港内で自爆した2隻の「特殊潜航艇」は同年6月に引き揚げられ、4名の乗組員の遺体が収容された。シドニー要港司令官グールド海軍少将は乗員4名の海軍葬を行い、遺骨は中立国経由で日本側に引き渡された。グールド少将は海軍葬のあと次のようにラジオ演説をした。
「<要約>戦争が引き起こすものがいかに悲惨であろうとも、彼ら乗組員の勇気に敬意を払わないものはいないだろう。このような勇気は敵国軍人のみならず我々オーストラリア軍人も持っているはずだ。しかし、彼ら愛国者が払った犠牲の千分の一の犠牲を実際に払う覚悟ができている者は、我々の中に一体何人いるだろうか」
シドニーやキャンベラの博物館にはシドニー港攻撃で沈没した「特殊潜航艇(イ22号・27号搭載艇)」が乗組員の遺品と共に展示されている。オーストラリア本土を攻撃した唯一の国として反日的な展示内容も多い中、「特殊潜航艇」の展示に関しては乗組員の愛国心や家族に宛てて遺した手紙を紹介するなど異例の扱いである。
なお、イ24号搭載艇は港外に脱出したあと行方不明となっていたが、2006年に地元ダイバーによってシドニー北部沿岸から5.6km離れた深さ70mの海底に沈んでいるのが発見された。
その他、博物館にはニューギニア、南太平洋で回収された日本軍機や戦車、火砲が多く遺されている。特に「九四式軽装甲車(テケ)」は現存数が少なく貴重である。また、少数だが欧州戦線で鹵獲されたドイツ軍の火砲や「V1飛行爆弾」なども展示されている。
東海岸内陸のカウラという小さい町には戦争中捕虜収容所があった。ここでは昭和19年(1944年)8月5日に日本人捕虜の大規模脱走事件が起き、日本兵234名が死亡し、警備側のオーストラリア兵も4名が死亡した。収容所があった場所には現在も建物跡が残っており、事件の死者は近郊の墓地に祀られている。