オーストラリアは日本の真南、南半球の広大なオーストラリア大陸を領土とする国である。面積は約769万平方kmで世界第6位、日本の約21倍である。しかし、大陸内部の大半は乾燥した砂漠気候であり、開発は進んでいない。街の多くは気候の良い東海岸に集中しており、人口は2100万人あまりと国の大きさの割には少ない。人口密度は3人/平方kmで日本の100分の1以下である。
オーストラリアは1901年にイギリスから独立したが、その後もイギリスとの関係は深く、独立後もイギリスの戦争にたびたび参加してきた。1914年、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦にイギリスが参戦すると、オーストラリアもニュージーランドとともにヨーロッパへの派兵を決定した。日本も日英同盟に基づいて参戦し、日本海軍はオーストラリア軍の海上護衛を担当した。また、参戦によって急増した火器の需要を満たすため一部は日本製の迫撃砲が輸出され、オーストラリア兵はこれに明確な名称を与えずに「ジャパニーズモーター(日本式迫撃砲)」と呼んでこの戦いに使用した。オーストラリア軍は英仏軍とともにガリポリの戦いでオスマン帝国軍と激戦を繰り広げ、多数の死傷者を出した。オーストラリアは第一次世界大戦に33万人の兵士を投入し、うち6万人が命を落とした。
昭和16年(1941年)12月8日、日本がアメリカ・イギリスへの宣戦布告して大東亜戦争が勃発すると、同日イギリスとともにオーストラリアも日本に宣戦布告し、両国は戦争状態となった。
日本軍はマレー半島上陸に始まり、南方資源地帯に急速に勢力を拡大した。マレー半島やシンガポールにはオーストラリア兵も展開しており、昭和17年(1942年)2月15日のシンガポール陥落では約15000名のオーストラリア兵が捕虜となった。また、オランダ領インドネシアへの日本軍の侵攻を食い止めるために編成されたABDA艦隊(米・英・蘭・豪合同艦隊)は日本艦艇と海戦を繰り広げた。大東亜戦争中オーストラリア陸軍部隊は主にニューギニア島東部に展開し、日本陸軍部隊と死闘を繰り広げた。
また、日本はオーストラリア本土へ攻撃を行った唯一の国である。昭和17年(1942年)2月から翌年11月までの期間に渡って、日本軍は艦載機や陸上機によってダーウィン、ブルーム、タウンズビル、ケアンズなどの北部沿岸都市や周辺諸島の連合軍基地や艦船を空襲した。オーストラリア北部は日本軍が占領したオランダ領インドネシアの目と鼻の先にあり、連合軍の反攻基地として使われるのを妨害したのである。
蘭印のクーパン島やスウェラシ島のケンダリーに進出した台南航空隊や高雄航空隊などの基地航空隊が空襲の主力であり、数機~50機程度の規模で行われていたようである。一方、米軍と英軍が防空のため「P-40(ウォーフォーク)」や「スピットファイア」を派遣してくるようになると、日本軍機にも被害が出るようになった。
この時期は両軍の戦闘機の数はほぼ拮抗していたようであるが、日本軍爆撃機を撃墜しようとして護衛の「零式艦上戦闘機(零戦)」の得意とする格闘戦になることが多く、航空戦は日本軍に優勢であったようである。また、この時期の日本軍搭乗員の技量は高く、実戦経験の少なかった連合軍搭乗員は機体の性能を十分に生かしきれなかったことも要因としてあったようである。
昭和18年(1943年)頃から米軍の反攻が始まると、日本軍は米豪遮断作戦を行った。しかし、ポートモレスビー作戦は失敗し、ガダルカナル島の戦いでは国力を大幅に消耗して敗北を喫した。米豪を遮断することはついにできず、絶対国防圏を破られた日本は昭和20年(1945年)8月に敗戦に追い込まれた。第二次世界大戦でオーストラリアは55万人を投入し、34000人が死亡した。そのうち対日戦では27000人が死亡した。戦後はオーストラリア軍も日本本土に進駐して占領軍の一端を担った。極東国際軍事裁判(東京裁判)の裁判長はオーストラリアのウェッブ判事であった。
オーストラリア国民は約90%が白人であり、先住民族アボリジニや他の有色人種に対する迫害や差別の歴史がある。人種差別禁止法が制定されたのは1975年であり、差別撤廃の取り組みの歴史は比較的浅い。それに加え、日本軍による空襲を受けたオーストラリア北部の都市では、戦争を経験した高齢者の中には現在も反日感情の強い者もいるようである。