大連港周辺の日本統治時代の近代建築

日露戦争と大東亜戦争における大連・旅順の歴史
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大連第二埠頭船客待合所

不凍港を欲するロシアが明治35年(1902年)に開港した大連港である。

東清鉄道が第1埠頭、第2埠頭を建設した。明治38年(1905年)には大阪商船により大阪-大連間の日満連絡線が開設された。大正9年(1920年)には満鉄により第3埠頭が建設された。満州に向かう日本人が最初に踏む地であった。

当時の「大連第二埠頭船客待合所」である。

現在の大連港候船庁は昭和62年(1987年)に改築された。

終戦後、昭和21年(1946年)12月から昭和22年(1947年)3月の間、大連港より20万3765人の日本人の引き揚げが記録されている。

2階は現在も客船の待合所となっている。観光客でも出発口の手前までは入ることができる。

1階には鉄道のプラットフォームがあり、満鉄線に直接乗り換えることができた。第2埠頭にロシア時代に既に線路が敷設されていたため、日露戦争時には日本軍が兵站基地として使用した。

大連市の歴史を感じさせる観光スポットである。

大連市の観光の中心である「中山広場」からは人民路を北西へ。

1kmほどで港湾広場のロータリーがある。このロータリーの左斜め前(北へ)の港湾橋へ入る。

港湾橋は陸橋になっており、鉄路を超えて400mほどで右へ大きくカーブする。
カーブを曲がった左側が「大連第二埠頭船客待合所」となっている。

大連埠頭事務所

道を挟んで大連港候船庁の反対側に建てられているのは「旧大連埠頭事務所」である。7階建てであり、昭和元年(1926年)の竣工時は大連で最も高い建築物であった。

屋上のみ観光客に開放されている。

現在も大連港務局として大連港を管理している。建物はコの字型である。

裏手から見たところ。

大連市の観光の中心である「中山広場」からは人民路を北西へ。

1kmほどで港湾広場のロータリーがある。このロータリーの左斜め前(北へ)の港湾橋へ入る。

港湾橋は陸橋になっており、鉄路を超えて400mほどで右へ大きくカーブする。 カーブを曲がった左側の建物は「大連第二埠頭船客待合所」である。

「大連第二埠頭船客待合所」の反対側が「大連埠頭事務所」である。

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