

「監獄概観」

日露監獄は明治35年(1902年)にロシアが建設したのが始まりである。当初は85室の牢獄とオフィス棟が一つだけの小規模な造りであった。
正面のグレーの建物はロシア時代の建築である。

日露戦争終了後、明治40年(1907年)に日本は牢獄を253室に増築し、地下牢や病棟などが設けられた。初めは「関東都督府監獄署于」と呼ばれ、大正9年(1920年)に「関東庁監獄」、昭和9年(1934年)に「関東刑務所」、昭和14年(1939年)に「旅順刑務所」と改名された。
日本が増築した部分はオレンジ色のレンガ造りの建物である。

監獄概観のジオラマである。
監獄塀外には強制労働のための林場、果樹園、野菜畑などがあった。敷地面積は最大時は22.6万平方メートルであり、当時の中国東北部において最大の刑務所であった。拘禁されていたのは中国人が最も多かったが、ロシア人や朝鮮人もいた。また、反戦主義の日本人も拘禁されていたようである。監獄が担っていた役割を考えると、おどろおどろしさを感じさせる観光スポットである。

敷地内には当時の街並みを再現した一画もある。
まだ建設中のようである。
「監獄房舎」

長い通路の左右に監房が設置されている。
ロシア時代の建築の建物の壁は白いコンクリート造りである。

増築された日本時代の部分はレンガ造りである(写真奥側)。
ここはちょうど境目である。

網越しに牢の内部を見ることができる。一部屋の収容人数はわらじの数で表されている。
さほど広くない部屋に6、7人を収容していたようであり、服役者は窮屈であったことであろう。

なにやら拷問器具のようである。
今はすっかり観光地となったこの場で、かつて拷問が行われていたと考えると恐ろしい。
「安重根」

安重根が収監されていたのもここ旅順監獄である。
明治42年(1909年)10月26日、安はハルビン駅のホームで初代韓国統監であった伊藤博文に3発の銃弾を浴びせて殺害した。安はその場でロシア官憲に逮捕され日本側に引き渡された。 11月3日に旅順監獄に移送され、「国事犯」として看守部長の当直室の横にあるこの監房に単独で拘禁された。

部屋はある程度の広さがあり、机が置かれている。
他の受刑者とは違う扱いであったようである。

明治43年(1910年)2月14日、安は旅順の関東都督府地方法院で死刑判決を受けた。安は軍人扱いの「捕虜」として銃殺刑に処せられることを望んだが、3月26日に犯罪者として絞首刑に処せられた。伊藤が絶命してからちょうど5ヶ月後のことであった。
絞首刑台は二階部分の床が開いており、その下に桶が置かれている。

処刑後に遺体をそのまま桶に入れて埋葬したようである。
写真右側のガラスケースに当時の死刑囚の遺体と桶を発掘したらしきものが展示されていて、生々しい印象を観光客に与えている。
「砲・機雷」

監獄内に、武器類を集めて観光できるようになってる建物がある。
これは日露戦争中に旅順港外で沈没した日本艦艇に装備されていた「8cm砲」である。 明治時代に呉海軍工廠で製造された艦砲である。昭和59年(1984年)に旅順の漁民に発見され、現在はここで観光客に公開されている。

ロシア軍の大砲である。
詳細は不明であるが、口径は「8cm砲」と同程度に見える。

各種砲弾である。
口径の数字がペイントされている。

日本軍の二号機雷である。
直径76cm、全重量394kg、爆薬量180kg。
明治37年(1904年)4月12日23時、機雷敷設艦蛟龍丸は旅順口外に達し、機雷敷設を開始した。翌13日午前中に日本艦隊は要塞砲に守られた旅順港内のロシア艦隊を誘い出し、砲戦が開始された。
「戦艦ペトロハバロフスク」も港外に出たが、港内に撤退するときに触雷し、沈没した。
「福井丸碑」

福井丸の錨である。
旅順港内に立てこもるロシア艦隊の動きを封じ込めるため、日本海軍は旅順港閉塞作戦を実施した。旅順港は湾の入口部分が500m、最も狭いところで200m程度の幅しかなく、ここに老朽船を沈めて航行を妨害しようとしたのである。

作戦は三次に渡って実施され、福井丸は第二次閉塞作戦に参加した。作戦は天候不順と陸上砲台からの迎撃で失敗した。
こちらは舵のようである。

日露戦争後、旅順港西側に閉塞作戦を記念した碑が建てられた。

他にも日露戦争関連の記念碑が集められている。
これらの武器や記念碑が、日露戦争での両軍の熾烈な激戦を物語る観光スポットである。


