大東亜戦争における沖縄県の歴史

沖縄本島は、面積1207.66km2、海岸線の長さは約560kmであり、本土4島と北方領土を除いて日本最大の島である。沖縄を中心とする半径2000kmの圏内には、東京、大阪のほか、台湾、上海、ソウル、香港、マニラなど、東アジア経済圏の主要な都市がある。このような地理的特性から、琉球王国時代は貿易の中継地点として、そして近世から現在に至るまで軍事地政学的に重要な場所となっている。

地理的には北部、中南部、南部でそれぞれ特徴がある。北部は火成岩が中心で、恩納岳、名護岳、与那覇岳など400m程度の低山が続く。やや大きな河川があるのも北部の特徴である。平地はごく少ない。 中南部は主として隆起した珊瑚礁から構成され、地形は平坦で、100mを越える丘陵地はほとんどない。また、河川が非常に少ない。 南部には侵食されやすい石灰岩が多く、亜熱帯であるので浸食は速い。雨水が溶解しやすい石灰岩を溶かすために、地表にはすり鉢型の窪みが、地下には鍾乳洞が発達している。

昭和19年(1944年)6月、米軍のマリアナ諸島侵攻が開始された。 マリアナ諸島が玉砕すると、大本営は米軍の沖縄進攻を予測し沖縄守備軍の強化を計る。満州や中国大陸、千島、樺太、日本内地から実戦部隊総勢6万7千名を沖縄に移動させた。沖縄本島は全島要塞化に向け、飛行場建設や陣地の構築が進められていった。

昭和20年(1945年)4月1日、米軍は沖縄本島中西部の 「宜野湾読谷、北谷」の海岸に上陸を開始した。対する日本軍は水際迎撃を避けて持久戦闘を基本方針としていた。大きな反撃を受けずに上陸した米軍は首里(那覇市)の 「日本軍司令部」を目指して南下した。

日本軍は南部を主戦場とする作戦を立てたため、沖縄本北部には独立混成第四四旅団の第二歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されておらず、北部は4月22日までに制圧された。

首里(那覇市)の 「日本軍司令部」を目指して南下してきた米軍は、首里北方の丘や丘陵地帯に陣地構築していた日本軍と大激戦を繰り広げた。この血で血を洗う激しい攻防戦はおよそ50日間繰り広げられ、昭和20年(1945年)5月下旬まで続いた。日本軍は戦死者約6万4千名を出し、全兵力の8割を失った。

掃討戦は終戦まで続いた。沖縄県生活福祉部援護課の昭和51年(1976年)3月発表によると、日本軍・邦人の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。日本側の負傷者数は正確な記録が残っていない。米軍軍の死者・行方不明者は1万2520名で、負傷者7万2千名であった。

米軍に占領された沖縄は、戦後も米軍の軍政下に置かれた。昭和47年(1972年)の沖縄返還後も米軍基地は日米安全保障条約によって引き続き使用され、現在も沖縄本島の面積の約19%が米軍基地となっている。日常的に発生する航空機騒音、米軍機の墜落事故及び油脂類・赤土等の流出、実弾演習による山林火災、米軍人による刑法犯罪が問題となっている。

米軍が上陸を行った海岸には 「泊城公園」が整備されている。米軍に占領された「沖縄北飛行場(読谷補助飛行場)」は平成18年(2006年)に全面返還されて飛行場は廃止された。ここには現在でも 「滑走路跡」と 「掩体壕」が遺されている。読谷村は米軍上陸時に焼け野原となって大きな被害を受け、 「チビチリガマ」では村民の集団自決の悲劇が起きた。

南部では、「嘉数高台の戦闘」(4月18日~24日)、 「前田高地の戦闘」(4月26日~5月6日)、 「シュガーローフの戦闘」(5月12日~18日)の三つの激戦地となった丘陵地帯を見ることができる。首里城では最後の組織的抵抗を行った 「海軍司令部壕跡」を見学することがでる。また、 「那覇空港(小禄飛行場跡)」のターミナルからは、米軍が沖本島上陸に先立って占領した慶良間諸島を見ることができる。