大東亜戦争における大阪府の歴史

大阪府は日本の都道府県の1つであり、西日本の経済・産業の中心地である。33の市・9の町・1の村からなる。面積は1898km2(平成21年10月)であり、日本で2番目に小さいが、人口は約884万人(平成21年10月)であり、東京都・神奈川県に次ぐ日本第3位である。本州のほぼ中央に位置し、西は大阪湾に面し、他は山地に囲まれている。兵庫県・京都府・奈良県・和歌山県・三重県などと隣接し、これらの都道府県によって都市圏を形成している。

現在の大阪府のある地域は、約1万年、既に人間(縄文人)が生活していた。5世紀頃、この地域には難波津(なにわず)と言われる港が開かれ、中国大陸との交易の玄関口として機能した。大化元年(645年)12月には大和朝廷によって日本初の本格的都城「難波宮」が置かれ、大化の改新の舞台ともなった。その後、都は奈良市周辺・京都市周辺に移動していったが、この地域はその後も、経済・産業・物流の中心地の1つとして機能した。
明応5年(1496年)、蓮如(浄土真宗中興の祖)が上町台地の北端(大和川と淀川の間)に石山本願寺を建立、この頃からこの場所を大坂と呼ぶようになった。その後は寺内町として発展していったが、天正8年(1580年)、石山戦争(織田信長と石山本願寺の戦争)の後、石山本願寺は大坂より退去した。天正11年(1583年)、替わって大坂に入った豊臣秀吉は、ここを天下統一の拠点と定め、巨大な大坂城(大阪城)築城を開始した。付近には、配下の大名・有力商人・神社仏閣・武士・町人などを集め、城下町を整備した。こうして大坂は日本の政治・経済の中心地となった。

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去し、その後、台頭してきた徳川家康は、慶長18年(1603年)、江戸幕府を開いて政治の実権を握りった。その後、大阪冬の陣(慶長19年・1614年)・大阪夏の陣(慶長20年・1615年)に於いて豊臣家は滅亡し、大坂城(大阪城)は落城した。江戸幕府が開かれてからは、政治の中心地は江戸(東京都)に移り、戦乱で荒れ果てた大坂は一時的に衰退した。その後、江戸幕府の直轄地(天領)となって復興される事になり、江戸幕府は大坂城(大阪城)を再建すると共に、河川の改修・運河の掘削を行った。結果、河川・運河を利用した水運が盛んに行われ、大坂は日本の物流の中心地となり、「天下の台所」言われるほどの繁栄振りをみせるまでになった。

やがて、江戸幕府が倒れ、明治維新となり、日本は近代国家成立に向けて歩み始めることになった。この時期、大坂から大阪に字が改められた。これは、「坂」の字は「土に反る(死ぬ)」「士(氏族)が反乱する」に繋がり、縁起が悪かった為と言われている。
明治元年(1868年)、明治新政府はこの地域に大阪府を置き、北区・東区・西区・南区の4区に編成した。明治20年(1887年)、大阪府は奈良県を分離して現在の形となった。明治22年(1889年)、かつて大坂の城下町であった場所は大阪府大阪市となり、大阪市は周辺の町村を統合して現在の形になった。この様に、初めは上町台地の北端(大和川と淀川の間)を指していた大坂という地名は、大阪府の形成と共に、かつての大坂の城下町とその周辺(大阪平野一体)を指す大阪という言葉となっていった。