大東亜戦争における東京都の歴史

日本の首都東京は世界最大の都市圏人口約3520万人を擁する大都市であり、都区域のみでも約1320万人が暮らしている(2010年)。経済規模でもニューヨーク都市圏を凌ぎ最大である。1868年、江戸城無血開城によって江戸が新政府の支配下に入ると、新政府は江戸を東京府と改称した。明治22年(1889年)の市制施行で東京市が発足し、大東亜戦争中の昭和18年(1943年)に東京府と東京市は廃止され、東京都が設置された。なお、この時は区は35区あった。

昭和19年(昭和1944年)7月、マリアナ諸島が陥落。以後、ここを基地とする米軍の日本本土空襲が本格化した。当初は、昼間精密爆撃によって軍需工場などの軍事関連施設を主目的として行われていた。しかしながら、十分な爆撃効果が得られなかったため、米軍は方針を転換した。すなわち、爆撃目標を一般市街地とし、非戦闘員である一般市民の殺害と家屋の破壊を目的としたのである。その初めの標的に選ばれたのが東京下町地区であった。

米軍は日本家屋が木造であると言う点に注目、火災によって一般市街地を焼き払う戦法が採用された。爆撃には高性能焼夷弾が使用される事になった。これは油脂や黄燐を燃料とし、着弾後に火炎を飛散させ、周囲の可燃物に延焼するよう開発された兵器である。さらに、焼夷弾の投下目標も厳密に設定された。まず爆撃目標区域の周辺に焼夷弾を投下して火災を発生させる。結果、火災から逃れようと爆撃目標区域の中央に集まった住民の頭上に後続機が絨毯を広げるように次々と焼夷弾を投下するように計画された。

昭和20年(1945年)3月9日深夜、陽動のため少数の米軍爆撃機が東京上空に侵入して房総半島方面に退避。米軍機退避のため、日本軍の空襲警報発令は大きく遅延した。その隙を突いて、少数の編隊に分かれた米軍爆撃機が低空から次々と東京上空に侵入してきた。日付が変わって10日0時7分、深川地区への焼夷弾投下が開始され、続いて城東地区・浅草地区・芝地区(現在の港区)にも次々と焼夷弾が投下された。この日の東京は強い冬型の気圧配置により、強い北西の季節風が吹き、冷え込み乾燥していた。焼夷弾による火災は強風に煽られて次々と燃え移り、東京下町地区では随所で大火災が発生した。以後、2時37分までの2時間半にわたって米軍機は焼夷弾を投下し続けた。

米軍爆撃機による焼夷弾投下は東京下町地区に甚大な被害をもたらした。折からの強風に煽られた火災はどんどん拡大し、いたるところで巨大な火災旋風が出現した。さらに、高温のために可燃物が次々と自然発火し、火災が火災を呼ぶ大惨事となった。人々はただひたすらに火災から逃れようと避難したが、米軍の巧妙な爆撃計画によって、その退路はすでに絶たれていたのである。

この3月10日の空襲は「東京大空襲」と呼ばれることとなる。わずか2時間半の空襲で、死者10万人・負傷者4万人・被災者100万人という空前の被害が出た。東京35区の1/3(約41k㎡)が一晩で灰燼に帰したのである。犠牲者のほとんどは軍人では無く、非戦闘員である一般市民であった。犠牲者の数は推定であり、詳細は今も判明していない。

隅田川を挟んで西側の台東区と東側の墨田区を結んでいる言問橋も、この惨劇の舞台となってしまった。台東区も墨田区も火災が発生し、炎に追われた人々は隅田川の対岸に行けば助かると考えた。結果、両岸から大勢の人々が言問橋に殺到、橋は避難してきた人々で身動きが取れない状態になった。しかし、ここにも火災は容赦なく押し寄せた。

橋は大勢の人々と荷物で埋め尽くされており、ついに荷物や衣服が自然発火を始めたのである。一瞬にして橋の上は地獄と化した。身動きが出来ないほどの人々で埋め尽くされた橋の上は炎で覆いつくされ、人々は生きながら焼き殺されたのである。一部の人は橋から隅田川に飛び降りたが、寒波によって冷え切った川に入った人々の多くは凍死した。空襲が終わり、朝になった言問橋の上とその周辺はおびただしい数の焼死体が山を作り、隅田川は凍死・水死した人々の遺体で埋め尽くされた。

現在の言問橋は1992年に改修されており、当時を物語るものは少ない。しかし、空襲当時の支柱が一部遺されており、ここには空襲の際に焼死した人の遺体から流れ出た脂のシミが未だに残っている。そして、橋のたもとには慰霊碑が建てられている。

また、国立科学博物館ではニューブリテン島沖から回収された「零式艦上戦闘機二一型(零戦21型)」が展示されている。