開戦と日本軍の進撃
1930年代以降、日本とアメリカは、中国に於ける権益や太平洋に於ける勢力圏を巡って、次第に対立を深めるようになっていた。
アメリカ国内では反日機運が高まり、政府のみならず国民も、日本を脅威とみなす様になっていった。日本国内でも反米感情が高まり、マスコミも連日それを煽っていた。
昭和16年(1941年)12月~昭和17年(1942年)3月昭和16年(1941年)12月~昭和17年(1942年)3月昭和16年(1941年)から続けられていた日米交渉は次第に行き詰まった。そして、日本軍の南部仏印(フランス領インドシナ)進駐を契機として、アメリカは対日経済封鎖を発動、更に日本が到底受け入れられない事を承知の上で、事実上の最後通牒(所謂「ハル・ノート」)を提示した。
事ここに至っては、最早交渉による打開は不可能と判断した日本政府は、自存自衛の為、武力による解決を決定、そして長年の反米感情が鬱積していた多くの国民もそれを望んでいた。
開戦劈頭に於いては、日本海軍がハワイ諸島オアフ島真珠湾を空襲して米海軍太平洋艦隊を撃破し、これと同時に日本陸軍が南方(東南アジア)に進撃、資源地帯攻略を行う事になった。
ハワイ空襲(開戦劈頭に於ける海軍作戦)
昭和16年(1941年)12月8日~昭和17年(1942年)4月
ハワイ空襲昭和16年(1941年)11月26日に択捉島単冠湾を出港した日本海軍機動部隊は、12月8日(現地7日)までにハワイ諸島オアフ島北方350kmまで接近、同日未明、航空母艦6隻から合計354機の日本軍機が発艦、オアフ島真珠湾に停泊する米海軍太平洋艦隊の艦船、及び同島の米陸海軍基地を空襲した。空襲は二波に分かれて行われ、約5時間に及んだ。米軍は主力戦艦群を含む多くの艦艇を撃沈破され、多数の航空機を破壊されるという被害を受けた。攻撃は完全な奇襲となり、日本軍の損害は軽微であった。
この空襲は、世界で初めて航空母艦を集中運用して行われた大規模な空襲であり、事前の綿密な計画や秘密保持、兵員の高い練度や兵器の性能と相まって、予想をはるかに超える大戦果となった。
この真珠湾攻撃により日米は戦争状態に入り、事実上の大東亜戦争の発端となった。しかし、攻撃開始直前に行われる手筈であったアメリカへの宣戦布告が、外務省の手違いによって1時間遅延、結果として宣戦布告前の攻撃となってしまった。アメリカはこの事を最大限に利用、自国民の対日感情を煽り、日本への戦争と共に、それまで参戦に否定的であったヨーロッパへの戦争に参戦する世論を作り出した。
結果として真珠湾攻撃は、アメリカに、太平洋やヨーロッパでの戦争に参戦する絶好の機会を提供する事になってしまった。こうして、ヨーロッパでの戦争と太平洋での戦争(大東亜戦争)は、第二次世界大戦として結びついたのである。
ハワイ作戦(真珠湾攻撃):昭和16年(1941年)12月8日
南太平洋作戦:昭和17年(1942年)1月~3月
インド洋作戦:昭和17年(1942年)4月
南方作戦(開戦劈頭に於ける陸軍作戦)
昭和16年(1941年)12月8日~昭和17年(1942年)5月
南方作戦日本にとって大東亜戦争の主目的は、自存自衛の為の資源獲得であった。当時、南方(東南アジア)一帯は豊富な天然資源を産出し、また欧米各国(米英蘭等)の植民地であった。そこで、開戦と同時に、これら南方資源地帯の獲得を目指す南方作戦が発動され、日本軍は東南アジア及び中部太平洋全域に侵攻を開始した。
南方作戦は、昭和16年(1941年)12月8日、英国領のマレー半島への上陸に始まり、米国領のフィリピン諸島にも上陸、東洋に於ける英国支配の牙城であった香港(中国)やシンガポール(マレー半島)を占領し、南方資源地帯の要域であったオランダ領のインドネシア(蘭印)へと侵攻していった。更に、中部太平洋に於いては米国領のグアム島・ウエーク島を占領した。これら欧米植民地では、連合軍部隊の大部分は戦意に乏しく、装備も旧式化していた。これに対して日本軍は、高い士気と事前の準備によって連合軍部隊を圧倒し、作戦は当初の予想以上の速度で推移した。開戦から約半年後の昭和17年(1942年)3月までに日本軍は南方資源地帯をほぼ占領、東南アジア及び中部・南西太平全域を支配下に置いた。
南方作戦の成功により、日本は南方資源地帯を獲得、戦争の目的は一応達成したかに見えた。併しながら、これ以降の具体的な戦略は用意されておらず、如何にして戦争を終結させるかという事に関しては依然として不透明であった。そして、その広大な占領地域は、それを守るだけでも膨大な兵力を必要とし、また、獲得した資源を内地(日本本土)に輸送する計画も手段も曖昧なままであった。
南方作戦:昭和16年(1941年)12月8日~昭和17年(1942年)5月
マレー半島攻略:昭和16年(1941年)12月8日~昭和17年(1942年)2月15日
シンガポール攻略:昭和17年(1942年)2月9日~15日
フィリピン諸島攻略:昭和16年(1941年)12月8日~昭和17年(1942年)5月6日
香港・ウェーク島・グアム島・ラバウル攻略:昭和16年(1941年)12月10日~昭和17年(1942年)1月23日
蘭印(オランダ領インドネシア)攻略:昭和17年(1942年)1月11日~3月10日
バリ島沖海戦:昭和17年(1942年)2月19日夜半~20日未明)
ビルマ攻略:昭和17年(1942年)1月~5月18日
戦争の転換期・消耗戦
昭和17年(1942年)4月~昭和19年(1944年)2月昭和17年(1942年)4月~昭和19年(1944年)2月大東亜戦争開始から約半年、日本は広大な支配地域を得た。併しながら、これ以降の作戦計画は準備されていなかった。今後の作戦方針を巡って陸海軍の意見は対立した。
陸軍は南方資源地帯に篭城し、逐次敵を迎撃しながら戦争終結の糸口をヨーロッパでの戦争に期待した。これに対し、海軍は積極攻勢を主張した。具体的には将来連合国反撃の拠点になりうる豪州(オーストラリア)を制圧しようとしたのである。陸海軍折衝の末、ソロモン諸島及びフィジー諸島・サモア諸島・ニューカレドニア諸島を占領して、米国と豪州を遮断する事となった。日本軍は、緒戦で得た南方資源地帯を守る為、更に戦線を拡大しようとしたのである。
これら、米豪遮断構想に対し、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、日米の国力差を考慮すると長期戦は不利であり、短期決戦しか日本が生き残る道は無いと考えた。
これに基づいて、連合艦隊はミッドウェイ作戦を立案、これは、米国領ミッドウェイ諸島の攻略し、同時に、米海軍太平洋艦隊撃滅を目指す作戦であった。併しながらこの作戦の十分な準備や訓練は行われず、機密保持も不十分であった。更に、この頃米軍は日本軍の暗号を解読してその動向を察知しつつあった。
ミッドウェイ海戦
昭和17年(1942年)4月~6月
ミッドウェイ海戦米豪遮断構想に基づき、東部ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)が発動され、昭和17年(1942年)5月7日~8日、日米海軍による初の航空母艦同士の海戦である珊瑚海海戦が発生した。結果、日本軍は米空母1隻を撃沈したが、日本軍も空母1隻損傷・軽空母1隻喪失・航空機多数を失い、ポートモレスビーー攻略を延期せざるを得なかった。大東亜戦争開戦後初めて日本軍の進撃が実力で阻止されたのである。
そして、日本軍はミッドウェイ作戦を開始する。それは正規空母4隻を含む艦艇150隻・航空機1000機・兵力10万名という大艦隊であった。これに対し、米軍は、日本軍の作戦を事前に察知し、正規空母3隻を中心とする艦隊をミッドウェイ諸島近海に配置して日本軍の来襲を待ち構えていた。昭和17年(1942年)6月5日~7日、日米海軍によるミッドウェイ海戦が行われた。結果、日本軍は正規空母4隻と航空機多数を失うという大敗北を喫した。
ミッドウェイ海戦の結果、日本軍は正規空母4隻と航空機多数を失った。これらは、日本の国力ではその速やかなる補充が困難であった。そして何よりも、日本軍は以前のような積極攻勢に出ることが出来なくなった。これは、戦争の主導権の喪失を意味し、即ち、短期間に戦争を終結させる可能性が無くなった事を意味していた。
そして、それまで守勢に立たされていた連合国は、これ以降、日本に対する反攻を開始する。ミッドウェイ海戦は大東亜戦争に於ける戦局の転換点とされている。
東京初空襲(ドゥーリットル空襲):昭和17(1942年)年4月18日
珊瑚海海戦:昭和17年(1942年)5月7日~9日:
アリューシャン作戦:昭和17年(1942年)6月
ミッドウェイ作戦:昭和17年(1942年)6月
ガダルカナル島攻防戦
昭和17年(1942年)7月~昭和18年(1943年)2月
ガダルカナル島攻防戦昭和17年(1942年)7月6日、ソロモン諸島ガダルカナル島で日本軍による飛行場建設が開始された。ソロモン諸島に飛行場を建設して米国と豪州を遮断し、また、南太平洋の日本軍拠点の防衛を強化する為であった。この時、米国も対日反攻を開始し、その矛先をソロモン諸島に向けてきた。果たして、8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸して日本軍の飛行場を奪取。ここに、昭和17年(1942年)8月~昭和18年(1943年)2月の半年間に渡って行われたガダルカナル島飛行場を巡る日米の攻防戦が発生した。
戦闘は陸上・海上・空中全てで行われた。日本軍は最寄の基地であるビスマルク諸島ラバウルから1000キロ近くも離れたガダルカナル島の米軍を攻めあぐねた。上陸した陸軍部隊への補給は途絶え、制空権・制海権を米軍に握られた状態での作戦は、いたずらに陸上兵力・海上兵力・航空兵力を消耗する結果となった。約半年に渡る攻防戦の末、昭和18年(1943年)2月、日本軍はガダルカナル島から撤退、ソロモン諸島は米軍の手に堕ちた。
この半年間の戦闘で、日米とも膨大な量の兵員兵器・船舶・航空機を喪失した。これらは日本の国力では容易に補充できるものでは無かった。更に、この頃から米潜水艦が日本の海上輸送を破壊し始めた。以後、日本国内の生産力は減少の一途を辿る。日本にとって、ガダルカナル島を巡る攻防戦は、島そのもの喪失よりも、その乏しい国力をを更に弱め、米国に対しては、その生産力を背景に戦力を回復する機会を与えてしまった。以降、戦局は日本にとって不利になり、米国の反攻が本格化する。
ガダルカナル島攻防戦:昭和17年(1942年)8月~
東部ニューギニア戦線:昭和17年(1942年)7月~
連合軍の反撃
昭和18年(1943年)2月~昭和19年(1944年)2月
昭和17年(1942年)11月、東部ニューギニア北岸に連合軍が上陸、ニューギニア方面やソロモン諸島では、ガダルカナル島攻防戦以降も日米の熾烈な航空戦が展開されていた。日本軍はなけなしの航空戦力をつぎ込んで戦線の建て直しをはかるものの、日を追って戦力は減少、果てしない消耗戦によって日本軍の戦力は低下していった。 昭和18年(1943年)4月には連合艦隊司令長官山本五十六大将戦死、南太平洋方面の日本軍は次々と失地を重ねた。
また、北太平洋方面でもアリューシャン列島に於いて米軍の反攻が開始され、昭和18年(1943年)5月にアッツ島の守備隊が玉砕、7月にはキスカ島の守備隊が撤退し、同方面は米軍に奪還された。
昭和18年(1943年)9月30日、日本は絶対国防圏を策定。これは、絶対確保すべき地域を限定して戦線を縮小し、戦力を回復して、戦局の一挙打開を目指したものであった。しかし、同年11月にギルバート諸島が陥落、続いて昭和19年(1944年)2月にマーシャル諸島が陥落。東部ニューギニア・ソロモン諸島の日本軍拠点は次々と連合軍に占領され、南太平洋の拠点ラバウルは孤立、トラック諸島は無力化した。
連合軍の反撃
東部ニューギニア戦線(昭和18年2月~3月)
ソロモン諸島に於ける航空消耗戦
山本五十六連合艦隊司令長官の戦死
北太平洋方面(アッツ島玉砕・キスカ島撤退)
ギルバート諸島陥落(タラワ環礁玉砕・マキン環礁玉砕)
マーシャル諸島陥落(クゥエゼリン環礁玉砕・ルオット環礁玉砕)
トラック諸島空襲・ラバウルの孤立
絶対国防圏の崩壊
昭和19年3月~8月
絶対国防圏の崩壊昭和19年(1944年)6月、米軍は、日本の絶対国防圏要衝である中部太平洋マリアナ諸島(サイパン島 ・テニアン島 ・グアム島)への侵攻を開始。ここを占領されると日本本土は直接空襲にさらされる事になる。これを阻止すべく日本海軍はマリアナ諸島近海に出動、昭和19年6月19日~20日、日米海軍によるマリアナ沖海戦が発生しが、日本海軍の一方的な敗北に終わった。中部太平洋の制海権・制空権は米軍の手に堕ち、7月~8月、孤立した日本軍守備隊が玉砕。マリアナ諸島は米軍に占領された。以降、ここを基地とした米軍による日本本土空襲が開始された。
ニューギニア方面に於いても、米陸軍・豪州軍が東部ニューギニアを制圧し、ニューギニア方面の日本軍は壊滅状態になり、7月、ビアク島が陥落した。ニューギニア方面を制圧した連合軍はパラオ諸島・フィリピン諸島を覗っていた。
戦局が悪化していたのは太平洋方面のみではなかった。昭和19年(1944年)3月、ビルマからインドを目指してインパール作戦が開始されたが、英印軍の反撃と物資の欠乏によって失敗、参加した陸軍部隊は夥しい犠牲者を出して敗走した。インパール作戦の失敗の結果、ビルマに於ける日本軍戦線は崩壊、インドからは英印軍が、雲南方面(中国)からは米支軍がビルマに侵入し、日本軍はタイ方面へと後退を余儀なくされた。同時期、中国では、50万名の陸軍部隊を動員した大陸打通作戦が開始され、占領地を拡大したが、最早、中国での戦局は戦争全体の流れには何ら貢献するところは無く、各地で崩壊しつつあった日本軍戦線を立て直すことは出来なかった。
この時期、米潜水艦の跳梁によって日本輸送船が次々と撃沈され、南方資源地帯から日本本土への資源輸送は途絶しつつあった。
日本国内は資源不足・燃料不足から兵器生産はもとより、食糧不足・物資不足によって国民生活は深刻な状態に陥っていった。
ビアク島の陥落(東部ニューギニア戦線の崩壊)
マリアナ諸島の喪失(昭和19年5月3日~8月13日)
『あ』号作戦(マリアナ沖海戦)(昭和19年3月1日~6月20日)
サイパン島の玉砕(昭和19年6月15日~7月9日)
インパール作戦
大陸打通作戦
比島(フィリピン)決戦
昭和19年9月~昭和20年1月
比島(フィリピン)決戦連合軍の次なる目標はフィリピン諸島であった。日本にとってフィリピン諸島の喪失は南方資源地帯との輸送路の遮断を意味する。結果、国内に資源を産しない日本は干上がる事と成り、敗北は決定的となる。この事態を受けて日本軍は最後の決戦を決意。この時期、日本の敗色は濃厚であったが、連合軍に決戦を挑んで打撃を与えて、少しでも有利な条件で講和を模索していた。
昭和19年(1944年)9月、米軍はパラオ諸島ペリリュー島・アンガウル島に上陸。更に、10月10日~12日にかけて沖縄諸島・台湾を空襲。20日にはフィリピン諸島レイテ島に上陸を開始した。これに対し日本軍は、レイテ島での米軍迎撃を決意。レイテ島に陸軍部隊を増強し、残存する殆どの海軍艦艇を動員して最後の海上決戦を挑んだ。また組織的な特攻作戦が実施された。日本軍の最後の戦力を投入したフィリピン決戦であったが、圧倒的な兵力・物量を以てする米軍の侵攻を押しとどめる事は出来ず、23日~25日のレイテ沖海戦で日本連合艦隊は事実上壊滅。昭和20年(1945年)1月頃レイテ島はほぼ米軍に占領され、フィリピン諸島での主たる地上戦はルソン島に移るが、最早制空権・制海権は完全に米軍の手中にあり、陸軍部隊は終戦まで山中で持久戦を行う他に道はなかった。
日本は、フィリピン諸島を喪失し、南方資源地帯との輸送路はほぼ途絶えたのである。即ち、大東亜戦争の実質的目的であった南方資源地帯の確保は完全に失われてしまったのである。最早日本の敗北は決定的となった。
ペリリュー島・アンガウル島の玉砕(昭和19年9月15日~11月24日)
終戦へ
昭和20年2月~8月15日
終戦へ昭和20年(1945年)2月18日、東京都小笠原諸島硫黄島に米軍が上陸。1ヶ月近い激戦の後、3月22日、日本軍守備隊は玉砕。硫黄島は米軍に占領された。3月10日には東京大空襲が行われ、以降日本各地の都市は米空軍の無差別爆撃にさらさ、大勢の一般市民が犠牲になった。。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸を開始。米軍の攻撃によって一般住民多数が犠牲になった。そして、6月23日、米軍は沖縄本島を占領した。