ミッドウェイ海戦

ミッドウェイ作戦・アリューシャン作戦:昭和17年6月

作戦構想

南方作戦を終了した日本軍は南方資源地帯を支配下に置き、当初の目的を一応達成した。しかし、これ以後の作戦方針は定められていなかった。ここで以後の作戦方針に関して日本軍内部で陸海軍に意見の相違が生じる。参謀本部(陸軍)は南方資源地帯の防備を固めて長期不敗態勢を築く事を主張、軍令部(海軍)は豪州を占領して米国の反撃拠点を奪うことで太平洋方面の防衛を固める事を主張した。陸海軍折衝の結果、太平洋方面に於いて将来の連合軍反攻の拠点となるであろう豪州を米国から遮断する為、ソロモン諸島及びフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島を攻略する作戦が立案された。この時点で当初の戦争目的を達成した日本軍の関心は太平洋方面から中国大陸・南アジア(インド)・中近東方面に向けられており、太平洋方面に於ける連合国の反撃はまだ先であるという見方が大勢を占めていた。

南方作戦後の第二段作戦は米豪遮断を目指してソロモン諸島及びフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島攻略を実施する事となった。これに対して海軍の実戦部隊である連合艦隊では、緒戦で撃ち漏らした米軍航空母艦の撃滅を主張した。これは、太平洋上の米国領ミッドウェイ島を攻略、迎撃してくるであろう米海軍太平洋艦隊と艦隊決戦を行い、これを殲滅しようという作戦である。海軍内部では上部組織である軍令部と実戦部隊である連合艦隊で第二段作戦の攻撃目標に関して意見が分かれた訳である。当初作戦に反対した軍令部であったが、昭和17年(1942年)4月18日、日本本土が米軍航空母艦からの爆撃機によって初空襲を受けると連合艦隊の主張を受け入れる。こうしてソロモン諸島及びフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島攻略作戦施前にミッドウェイ島攻略作戦を実施する事が決定した。

第二段作戦は東部ニューギニア南端の要衝ポートモレスビー攻略から開始された。結果、日米海軍による史上初の航空母艦同士の海戦「珊瑚海海戦」(5月7日~8日)が発生し、結果は日米海軍とも相撃ちに近かかった。引き続き日本海軍は米海軍太平洋艦撃滅を目指してミッドウェイ島攻略作戦を発動させる。併しながら、この時期米軍は日本軍の暗号を解読しつつあった。「珊瑚海海戦」後、米軍は日本軍の次なる攻撃目標がミッドウェイ島であることを察知した。6月5日、日本海軍は総力を挙げてミッドウェイ島近海に出動、日本海軍の正規空母4隻から発艦した艦載機はミッドウェイ島への空襲を開始する。対する米海軍はこれをミッドウェイ島近海で待ち受けていた。米軍正規空母とミッドウェイ島米軍基地からの艦載機・陸上機が日本軍艦隊目指して飛び立つ。後に「大東亜戦争の転換点」と言われる日米海軍による「ミッドウェイ海戦」の幕がここに切って落とされた。

米豪遮断構想

南方作戦がほぼ終了した昭和17年(1942年)3月、連合軍は捕虜が25万人、艦艇が沈没105隻・撃破91隻、航空機が撃墜461機・地上破壊1076機という損害を受けていた。太平洋からインド洋にかけて連合軍艦艇は一掃され、日本軍は東南アジア・中南部太平洋の島々・東部ニューギニアに渡る広大な地域を支配下に置いてた。この時点での日本軍の損害は戦死7000人・戦傷14000人・喪失航空機は562機・喪失艦艇27隻。巡洋艦以上の艦艇は1隻も沈んでいなかった。この大戦果を受けて日本国内は大いに沸き返り、各地で戦勝祝賀会が開かれた。

日本は南方作戦終了までを第一段作戦と称していたが、その後の第二段作戦は未定であった。この時点での参謀本部(陸軍)・軍令部(海軍)の見込みとしては「南方資源地帯は確保したが、日本は米国本土まで侵攻・占領する力は無い」「連合国の国力は強大だが、戦争の準備は出来ておらず、反攻は昭和18年以降である」「欧州情勢は概ねドイツに有利であり、英国が脱落すれば米国は戦意を失って講和の機会が訪れる」であった。この情勢判断により、陸軍は第二段作戦は南方資源地帯の防衛を固めて太平洋方面は守勢に転じ、長期不敗態勢を築く考えであった。所謂「南方篭城」である。特に南方資源地帯を確保して当初の戦争目的を達成したと考えた陸軍は南方作戦に動員した兵力を本土や中国大陸に引き揚げつつあった。陸軍にとって主戦場は中国大陸であり、更に当時北アフリカ戦線で優勢であったドイツ軍との呼応を意識した南アジア(インド)・中近東方面への侵攻に関心を持っていた。これに対して海軍は太平洋方面での積極的な攻勢を主張した。元々海軍は艦艇で機動して戦闘を行う為、篭城という思想は無い。そこで、将来的に連合国の反撃の拠点になりうる豪州を占領することを主張した。防御するにしても敵に向かっていく所謂「攻勢防御」である。併しながら、豪州占領を実施するには膨大な兵力と船舶が必要となる。豪州占領には陸軍が難色を示した。そこで陸海軍折衝の結果、第二段作戦としてソロモン諸島及びフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島を占領して、米国と豪州の連絡を遮断する「フィジー・サモア作戦」(「FS作戦」)を実施する事になった。

ミッドウェイ島攻略構想

第二段作戦の主目的はソロモン諸島及びフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島を占領して米豪遮断を実施すると共に、豪州北部の制海空権を確保して豪州を孤立させることであった。併しながら海軍内部では上部組織である軍令部と実戦部隊である連合艦隊とで主攻撃目標に意見の相違があった。連合艦隊では山本五十六連合艦隊司令長官が中心となって米海軍太平洋艦隊殲滅を主張した。これはハワイ空襲で米海軍の主力戦艦群が壊滅したとはいえ、米軍航空母艦は無傷であり、これら米軍航空母艦が存在する限り日本の安全は保障されない。早期に米海軍太平洋艦隊に艦隊決戦を挑んでこれを撃滅し、絶えず相手を劣勢におく必要があると考えたのである。

連合艦隊ではこの方針に基づいて太平洋の米国領ミッドウェイ島攻略作戦を立案した。当時既に米軍航空母艦による散発的な攻撃が日本軍支配地域であるマーシャル群島・ウェーキ島・ラバウルに対して行われており、連合艦隊としては米軍航空母艦に対して警戒感と、本土防衛の必要性を感じていたのである。連合艦隊ではミッドウェイ島を占領することで哨戒網を広げ、更には迎撃に出撃してくるであろう米海軍太平洋艦隊を殲滅しようと考えた。特にハワイ空襲で撃ち漏らした米軍航空母艦の撃滅が最も重要な目標であった。

軍令部は当初連合艦隊案に対して否定的であったが、山本長官の決意は固く、ハワイ空襲同様今回も連合艦隊の作戦を採用する事となった。昭和17年(1942年)4月5日、軍令部は第二段作戦としてフィジー・サモア諸島攻略の前に6月を目処としてミッドウェイ島攻略作戦を実施する事に同意した。

日本本土初空襲:昭和17年(1942年)4月18日

昭和17年(1942年)4月18日、突如米軍B25爆撃機16機が東京・川崎・横須賀・名古屋・四日市・神戸を空襲。空襲の被害そのものは軽微であったが、日本の防空体制・哨戒体制の虚を突いた空襲であり、日本近海の防空・哨戒を担当する海軍は大きな衝撃を受けた。この日本本土初空襲は米軍航空母艦を発艦した爆撃機によって行われ、山本長官の危惧を証明する結果となった。ミッドウェイ島攻略及び米軍航空母艦撃滅の必要性はにわかに現実味を帯びてきた。陸軍も先の日本本土初空襲によって本土防衛及び北方守備の必要性を感じていた。5月5日、正式にミッドウェイ島攻略作戦(「MI作戦」)が発令され、同時に北太平洋方面アリューシャン列島攻略も実施する事になった。しかし、ミッドウェイ島攻略作戦に参加予定の艦艇はインド洋方面・太平洋方面に作戦行動中であり、内地にもどって十分な補給・整備をする時間的余裕は無かった。ミッドウェイ島攻略作戦(「MI作戦」)は開戦劈頭のハワイ空襲の時の程入念な準備や訓練は行われず実施されようとしていた。更に機密保持に関しても不十分であった。この時期米軍は日本軍の暗号を解読しつつあり、日本軍の次の攻撃目標がミッドウェイ島であることを掴んでいたのである。

珊瑚海海戦(昭和17年5月7日~8日)

南太平洋ソロモン諸島中部のガダルカナル島対岸ツラギ島には豪州軍の水上機基地があり、ソロモン諸島の中心地となっていた。さらに東部ニューギニア南岸の要衝ポートモレスビーには連合軍の航空基地が整備され、南太平洋の日本軍拠点ラバウルには大きな脅威であった。そこで、第二段作戦開始に伴い、ソロモン諸島ツラギ島方面への攻略作戦と東部ニューギニア南岸の要衝ポートモレスビー攻略作戦が計画された。特に、ポートモレスビーを攻略すれば東部ニューギニア及び豪州北部の制海権・制空権を抑える事が出来る。こうして第二段作戦の一環としてソロモン諸島中部ツラギ島攻略と東部ニューギニア南岸ポートモレスビー攻略作戦(「MO作戦」)が開始されることになった。

昭和17年5月3日、ソロモン諸島中部ツラギ島への上陸が行われた。併しながら、これら一連の日本軍の作戦計画は米海軍によって察知されていた。この時期米海軍は日本海軍の暗号をある程度解読していたのである。米海軍は正規空母2隻(「レキシントン」・「ヨークタウン」)を含む艦隊をソロモン諸島南方の珊瑚海南東海域に派遣し、4日、日本軍が上陸したツラギ島を空襲した。その頃、日本軍の艦隊・船団が海路ポートモレスビーを目指していた。正規空母2隻(「翔鶴」・「瑞鶴」)・軽空母1隻(「祥鳳 」)を含むポートモレスビー攻略部隊である。米軍のツラギ空襲の報に接すると日本軍も米艦隊を求めて索敵を開始した。7日~8日、ソロモン諸島南方珊瑚海で日米艦隊による「珊瑚海海戦」が行われた。これは海戦史上初の航空母艦同士による海戦であった。即ち、互いの艦艇が砲を撃ち合う事は無く、攻撃は全て空母艦載機によって行わた。結果は日本軍が軽空母1隻(「祥鳳 」)沈没・正規空母1隻(「翔鶴」)大破、米軍が正規空母1隻(「レキシントン」)沈没・1隻(「ヨークタウン」)大破・駆逐艦1隻沈没・油槽船1隻沈没であった。

「珊瑚海海戦」によって、米海軍は正規空母2隻を撃沈破され後退を余儀なくされた。併しながら、日本海軍も損失艦艇数は米海軍より少ないものの、当初の目的である海路からのポートモレスビー攻略作戦(「MO作戦」)を延期せざるを得なかった。今回の損害をうけて日本軍のポートモレスビー攻略部隊も珊瑚海から退避したのである。詰り、大東亜戦争開戦以来の日本軍の進撃が初めて実力で阻止されたのである。更に、日本軍は正規空母「翔鶴」が損傷し、正規空母「瑞鶴」も多数の艦載機・搭乗員を失った為、6月に予定されているミッドウェイ島攻略作戦にこれら正規空母2隻(「翔鶴」・「瑞鶴」)が参加出来なくなった。結果、ミッドウェイ島攻略作戦に参加予定であった正規空母が6隻から4隻になってしまったのである。

ミッドウェイ海戦(昭和17年6月5日~7日)

昭和17年(1942年)5月27日(第三十七回海軍記念日)、正規空母4隻(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)を主力とする日本軍艦隊(第一機動部隊)が広島湾柱島を出撃した。2日後の29日、戦艦9隻・巡洋艦7隻を含む日本軍艦隊(第一艦隊・第二艦隊)が広島湾を出撃した。目的地はミッドウェイ島である。更に、予めマリアナ諸島グアム島・サイパン島に待機していた日本軍艦隊と攻略部隊(陸軍部隊・海軍陸戦隊)を乗せた船団も同地を出航して一路ミッドウェイ島を目指した。また、ミッドウェイ島を目指す部隊とは別にアリューシャン列島攻略を目指す日本軍艦隊(北方部隊)も26日、集結地である青森県陸奥湾を出撃していた。これらミッドウェイ島・アリューシャン列島攻略作戦(「MI作戦」)に動員された兵力は艦船約350隻・兵員約10万人・航空機約1000機に達し、当時の日本海軍の保有兵力のほぼ全てがこの作戦に参加していた。

米軍は日本軍の暗号をある程度解読して日本軍の攻撃目標がミッドウェイ島である事を掴んでいた。そこで米軍はミッドウェー島基地に航空機・兵員を増強して守備を固めていた。更に、5月28日と30日、正規空母3隻(「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」)を中心とする米軍艦隊がミッドウェイ島近海に向けてハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍基地を出撃した。特に、米軍正規空母「ヨークタウン」は先の「珊瑚海海戦」(5月7日~8日)に於いて大破していたが、真珠湾の米海軍基地で3日間の応急修理を施してなんとか出撃可能にこぎつけた。米軍はこれら正規空母3隻を中心とする艦隊とミッドウェイ基地兵力で日本軍の侵攻を待ち受けていたのである。

6月5日04時30分(以下現地時間)、ミッドウェイ島の北西210海里(380㌔)に到達した日本軍艦隊(第一機動部隊)は正規空母4隻(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)から艦載機108機が発艦、ミッドウェイ島空襲に向かった。この頃米軍は哨戒機からの情報によって日本軍艦隊とミッドウェイ島に向かう日本軍機を発見した。午前6時、ミッドウェイ基地から日本軍艦隊攻撃と日本軍機迎撃の為に米軍機が離陸した。更にミッドウェイ島北方海上に待機していた米軍正規空母3隻(「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」)でも艦載機が発艦準備を始めた。この時点で日本軍は米軍艦隊の存在を全く察知しておらず、ミッドウェイ基地攻略が主目的であった。日本軍は、米軍艦隊は日本軍のミッドウェー島攻略が開始されてから出撃してくると考えており、米軍艦隊の存在にはあまり注意を払っていなかった。06時17分、ミッドウェイ島に到達した日本軍機が空襲を開始した。しかし米軍機と対空砲火に阻まれて日本軍機の空襲は十分ではなかった。06時43分、ミッドウェイ島からの米軍機が日本軍艦隊上空に来襲、攻撃を開始した。しかし米軍機の行動は統一を欠いており、日本軍艦隊に被害を与えることが出来なかった。

07時28分、日本軍索敵機がミッドウェイ島北方海上に米軍艦隊を発見。この知らせを受けた日本軍は直ちに米軍艦隊攻撃を決意し攻撃準備を始めた。07時50分、先にミッドウェイ島空襲に向かった日本軍機が日本艦隊上空に帰還してくる。この時点までミッドウェイ島からの米軍機は散発的に来襲していたが日本軍艦隊に被害は無かった。日本軍は、まずミッドウェー島空襲から帰還した艦載機を収容することを決定した。これらの艦載機を含めた全ての艦載機を以て米軍艦隊攻撃を行おうとしたのである。09時18分、米軍機来襲の合間を縫って艦載機の収容が完了する。これとほぼ同時に米軍正規空母3隻(「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」)から発艦した艦載機が日本軍艦隊に来襲し始めた。しかし、この米軍機も行動が不統一であり日本軍艦隊に損害を与えられずにいた。この間日本軍正規空母4隻(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)の艦内では艦載機の発艦準備が行われつつあった。10時20分、米軍機(空母艦載機)の散発的な攻撃が続く中、日本軍艦隊では艦載機の発艦準備が完了。日本軍正規空母4隻(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)の飛行甲板には戦闘機・爆撃機・攻撃機が並べられ、いよいよ発艦が開始されようとしていた。しかし、その時日本軍正規空母の上空には爆弾を搭載した米軍機が爆撃体勢に入っていた。それまでの米軍機の攻撃が主に低中空からが中心であった為、日本軍艦隊の対空監視は低中空に集中し、高空からの米軍機の攻撃には直前まで気がつかなかった。

日本軍正規空母から艦載機が発艦しようとした矢先、見張り員の「敵機直上!急降下!」という報告は悲鳴に近いものであった。報告を受けて直ちに回避運動に入ったものの、忽ち米軍機の投下した爆弾が命中する。10時23分~25分、日本軍正規空母3隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」)が次々と被弾した。唯一被弾を免れた正規空母は「飛龍」1隻のみであった。この時、各正規空母の飛行甲板上には燃料・爆弾・魚雷を搭載した艦載機が並べられており、飛行甲板下の格納庫には多数の爆弾・魚雷が置かれていた。米軍機の投下した爆弾はこれら艦載機に火をつけ、更に格納庫内の爆弾・魚雷の誘爆させた。被弾した日本軍正規空母3隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」)では大火災が発生、艦内格納庫では爆弾・魚雷の誘爆が相次ぎ、飛行甲板は多きく捲れ上がり、艦内は手の施しようのない惨状を呈し出した。日本軍艦隊の攻撃力の要である正規空母3隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」)は一瞬にして行動不能に陥ったのである。

この時点で唯一被害を免れた日本軍正規空母「飛龍」では直ちに反撃を決意する。10時58分、「飛龍」から艦載機24機が発艦、一路米軍艦隊を目指した。12時10分、日本軍機は米軍艦隊を発見し米軍正規空母「ホーネット」に爆弾3発を命中させる。しかしこの攻撃で出撃した24機の日本軍機の中で帰還出来たのは僅かに6機であった。続いて午後1時30分、「飛龍」から艦載機16機が発艦、同じく米軍正規空母「ヨークタウン」に魚雷2本を命中させたが、帰還出来たのは9機であった。日本軍正規空母「飛龍」からの日本軍機による攻撃で米軍正規空母「ヨークタウン」は大破し戦闘能力を失った。併しながら、米軍艦隊には正規空母2隻(「エンタープライズ」・「ホーネット」)が無傷であり、日本軍艦隊攻撃の為に艦載機が発艦していった。その頃、日本軍正規空母「飛龍」では残存艦載機と搭乗員を再編成して米軍艦隊へ再度の攻撃を計画していた。午後5時1分、米軍機が日本軍正規空母「飛龍」の直上から急降下、午後5時3分、4発の爆弾が「飛龍」に命中した。遂に日本軍正規空母4隻全てが被弾したのである。

B-17爆撃機の攻撃を受け、回避行動中の空母飛龍

「蒼龍」は19時26分、「加賀」は午後7時26分に沈没。「赤城」、「飛龍」は暫く海上に浮いていたが、消火・曳航は不可能と判断して味方駆逐艦の魚雷によって処分される。翌6月6日、「赤城」は02時に沈没、「飛龍」は翌朝看取られること無く沈没した。日本海軍は正規空母4隻(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」)を一挙に失った。この日本軍艦隊(第一機動部隊)の被害を受けて日本軍はミッドウェイ島攻略作戦(「MI作戦」)の中止を決定。ミッドウェイ島に向っていた他の日本軍艦隊(第一艦隊・第二艦隊・その他)は順次撤退を開始する。更に撤退中の日本軍重巡洋艦「最上」「三隈」が衝突。「最上」は大破し、7日、米軍機の攻撃によって「三隈」が沈没した。一方米軍は日本軍機の攻撃で大破した正規空母「ヨークタウン」をハワイ諸島オアフ島真珠湾の米海軍基地に曳航しようとしてたが、7日、これを日本軍潜水艦「伊-一六八」が発見、魚雷によって撃沈する。