ジーゴ(Yigo)周辺

大東亜戦争におけるグアム島の歴史
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ジーゴ(Yigo)周辺の戦跡一覧

リティディアン岬(北岬)

グアム島最北端の「リティディアン岬」からは76km先にロタ島を見ることができる。

ロタ島には陸軍独立混成第十連隊第一大隊を主力とする陸軍約1000名の他、海軍の人員も配備されていた。マリアナ諸島失陥後は敵中に孤立していたものの地上戦は起きずに終戦を迎えた。

「リティディアン岬」周辺には長い砂浜が続いているが、米軍はここから上陸しなかった。この辺りは潮の流れが速く遊泳注意となっている。潮の流れのために上陸には適さなかったのかもしれない。
日本軍も配備していたのは陸軍第三八連隊第三大隊の一個中隊のみであった。

「リティディアン岬(北岬)」の歩き方
グアム島最北端にある岬である。
タモン地区からは3号線を北に向かう。

3号線を道なりに行くと、「アンダーセン空軍基地」周辺で3A号線との三叉路がでてくる。
ここを左折して3A号線をさらに北に進む。
3A号線の行き止まりは駐車場となっている。そこから砂利道を行くと海岸に出ることができる。

かつては軍用ビーチであったが、現在は祝日以外の8:30~16:00に一般に開放されている。

アンダーセン空軍基地

「アンダーセン空軍基地」の正門である。

昭和19年(1944年)、グアム島を占領した米軍は日本本土爆撃のための飛行場をグアム島北部に建設した。ここから連日のように「B29」が日本本土へ向けて飛び立った。米軍は終戦後も現在に至るまでこの飛行場を基地として使用しており、ベトナム戦争中はここから「B52」が遠距離爆撃作戦を実施した。

「アンダーセン空軍基地」には主滑走路のほか、「ノースウエストフィールド」と呼ばれる一回り小さい別の滑走路が基地内北西部にある。
「リティディアン岬」へ向かう途中に門がある。

アンダーセン空軍基地アンダーセン空軍基地基地の敷地内には「B29」の残骸や日本軍「トーチカ」が遺されているが、一般人は中に立ち入ることはできない。

サンタローザ山の中腹から滑走路の全景を見渡すことが出来る。海抜191mの台地の上の飛行場であり、右端が崖になっている様子が分かる。

現在も3000m級滑走路を二本備える大飛行場である。

「アンダーセン空軍基地」の歩き方
アンダーセン空軍基地アンダーセン空軍基地タモン地区から1号線を北に向かう。ジーゴ地区を過ぎたところで左にカーブしつつ9号線に名前が変わる。
ここが三叉路になっており、右側が「アンダーセン空軍基地」の正門となっている。

9号線を更に進むと3A号線と3号線の三叉路に出る。この三叉路から右手の3A号線を3kmほど進んだところで、3A号線はほぼ直角に左に曲がる。
「ノースフィールド」の門はそのカーブを曲がってすぐのところにある。

アンダーセン空軍基地アンダーセン空軍基地「アンダーセン空軍基地」の滑走路を撮影した地点はサンタローザ山の中腹である。

29号線と15号線のT字路から15号線を北に2kmほど行ったところに三叉路がある。ここを鋭角に右折してMt. Santa Rosa通りを登っていく。

Mt. Santa Rosa通りを1kmほど登ったところの左手に視界の開けた場所がある。ここが撮影地点である。

ジーゴの戦いのモニュメント

「アンダーセン空軍基地」の裏門のすぐ南の広場に、「ジーゴの戦いのモニュメント」が立てられている。

ジーゴは日本軍が最後の組織的抵抗を行った地である。

中央にはグアム島をかたどった「モニュメント」が設置されている。
ジーゴの場所に赤い星で印がつけられている。

「モニュメント」の手前の碑文によると、この碑は米軍の退役軍人によって立てられたものだそうである。碑文はグアム島の戦いの概略が刻まれている。

「モニュメント」左側の碑文は日本語で慰霊の言葉が刻まれている。

ピースリング・オブ・グアムが平成18年(2006年)3月26日に寄贈した。
ピースリング・オブ・グアムとは、大東亜戦争において戦没した方々を慰霊する活動を行っている団体だそうである。

「ジーゴの戦いのモニュメント」の歩き方
タモン地区から1号線を北東に行くと、ジーゴ地区に29号線とのT字路があるので、ここを右折する。

2kmほどで15号線とのT字路に突き当たるので、ここを左折する。T字路から4kmほど北へ行った左手の広場に「モニュメント」が建てられている。

「モニュメント」のある広場から更に15号線を北へ進むと、「アンダーセン空軍基地」の裏門に突き当たる。

南太平洋戦没者慰霊公苑(South Pacific Memorial Park)

上陸後1週間で米軍は「フォンテヒル(本田台)」の師団司令部を始め主要な高地を全て占領し、日本軍は大きな損害を出していた。しかしグアム島ではまだ3000名以上の生存者がおり、各部隊は米軍機の監視を避けて夜間に北部密林地帯である「マタギャックヒル(叉木山)」に集結した。

「マタギャックヒル」には現在「慰霊公苑」が設けられている。

まず目に入るのは、「合掌する手」がモチーフの高さ15mの「白い慰霊塔」である。周辺には各部隊ごとの「慰霊碑」が複数ある。

「慰霊公苑」を入って右手の階段を下りると、「叉木山戦闘司令部壕跡」が遺されている。

「壕」は先ほどの「白い慰霊塔」の立つ丘の下あたりに位置する。
「壕」について説明する立て看板の左右に2つの「壕」の入口がある。右側の「壕」の入口は崩落があったのか、あるいは元々そのような構造として作ったのか、かなり狭い。

内部は15畳ほどの広さであり、「司令部壕」としては若干狭く感じられる。内部は土砂で半分ほど埋まっている。

左側の「壕」の入口は比較的広く、通路を進むと左手に空間が広がっている。右側の「壕」よりも若干広く、壁面は頑丈そうなコンクリート造りとなっている。

昭和19年(1944年)8月11日、「マタギャックヒル」の日本軍司令部は米軍の戦車約50両に包囲されて全滅し、組織的戦闘は終了した。

「壕」の近くには日本軍飲料水槽がある。

近くの沢へ下りる階段を降りると、別の水槽がある。沢の水を導き、溢れた分が下流に流れていく構造となっている。

「慰霊公苑」を入って左手に「礼拝堂」がある。

「礼拝堂」の中には、「壕」から発掘された遺品が展示されている。

壁には第三一軍司令官小畑英良中将の写真が掛けられている。

小畑中将は玉砕を覚悟した最後の総攻撃を下命するにあたり、天皇陛下ならびに大本営に対し「己の身を以って、太平洋の防波堤たらん」との決別の辞を打電し、この「マタギャックヒルの壕」において60余名の将兵とともに自決した。

「南太平洋戦没者慰霊公苑(South Pacific Memorial Park)」の歩き方
グアム島北東部のジーゴ地区である。

タモン地区からは1号線を東北へ行くと、29号線とのT字路(信号機あり)が出てくる。ここを直進し、さらに1号線を700mほど北東に進む。

左手にMilalak Drという路地があるので、ここを入る。500mほど行った突き当りが公苑の入口である。

なお、Milalak Drの少し手前には「慰霊公苑」の場所を示す小さな看板が設置されている。

米軍記念碑

ジーゴ地区の1号線沿いの空地に「米軍記念碑」が建てられている。

碑は高さ50cmほどの小さなもので、注意して見ていないと通り過ぎてしまうだろう。

「記念碑」には「BATTLE of YIGO 7 AUGUST 1944 US ARMY」と記されている。
ジーゴでの戦いは、日本軍にとって最後の組織的な戦いであった。

「米軍記念碑」の歩き方
米軍記念碑米軍記念碑タモン地区からは1号線を北東に進む。

29号線とのT字路(信号あり)の400mほど手前の道路沿い右手(東側)の空地に「記念碑」はある。

「記念碑」は小さいので見過ごしやすい。空地はChin Tun Ignacio Chanaという路地の手前にある。

道を挟んで反対側にはマクドナルドを併設したMobil(ガソリンスタンド)があるので、これが目印となる。

タンギッソン・ビーチのトーチカ

タンギッソン・ビーチに出て右手側に海に突き出た岩場があり、ここに3つの「トーチカ」が遺されている。

「トーチカ①」は岩場に穴を縦に掘っただけのような天井もない簡単な作りである。
あるいは元々自然地形であったものを利用したものかも知れない。

縦穴を覗き込むと海側に向けて銃眼のような小さな横穴が開いているのが分かる。

「トーチカ①」を海側から見たところである。
長年の波浪によって周囲はかなり侵食されている。

「トーチカ①」から数メートルのところに「トーチカ②」がある。
こちらも岩肌がむき出しとなった簡単な作りである。

「トーチカ①②」から海岸に沿って岩場を進むと、人工的に石を積み重ねてコンクリートで固められた「トーチカ」のようなものが複数ある。

入口が開いており、中に空間があるが、詳細は不明である。

ここからさらに20mほど海岸に沿って岩場を進むと、「トーチカ③」がある。

「トーチカ③」の銃眼は明らかにコンクリートで固められた人工的な長方形をしている。

今回は潮位が高く砂浜に沿って歩いてくることはできなかったが、干潮時なら砂浜を歩いて来られるかもしれない。

海岸沿いの岩場の天然の窪みに銃眼を開けて作られたようである。
銃眼以外にコンクリートなどの人工的なものは見られない。

「タンギッソン・ビーチのトーチカ」の歩き方
タンギッソン・ビーチのトーチカタモン地区から1号線を北上すると、大型ショッピングセンターのミクロネシアモール(Micronesia Mall)が右手にでてくる。ここのT字路を左折して34号線に入る。

34号線を3kmほど行くと左手に恋人岬(Tow Lovers Point)へ向かうT字路が出てくるが、ここは直進する。

このT字路から34号線をさらに1kmほど行くと、道は左にカーブして急な下り坂となっていくが、道なりに進む。
道を下りきると海岸に出る。 海岸の左手には大きな発電所の施設が見える。

海岸に出て右手に進むと砂浜は終わるが、岩場を登りつつさらに海岸に沿って歩いていくことができる。

50mほどで海に突き出した部分があるが、ここに2つの縦穴があり、これが「トーチカ①」である。

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