「日本軍兵器(ラストコマンドポスト)」の展示内容

大東亜戦争におけるサイパン島の歴史
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ラストコマンドポスト周辺
ラストコマンドポスト周辺の戦跡一覧ラストコマンドポストサイパン島北部に「ラストコマンドポスト」と呼ばれる場所がある。「ラストコマンドポスト」には日本軍兵器や「トーチカ」が遺されている。「ラストコマンドポスト」は直訳すると「最後の司令部」であ...

トーチカ(監視所跡)

「トーチカ(監視所跡)」が遺されている。
この「トーチカ」は、海軍が天然の岩場を利用して建設した「監視所」であった。
この「トーチカ」が、南雲中将以下の日本軍首脳陣が自決した「最後の司令部」であると思われているが、間違いである。ここは日本軍の「最後の司令部」ではない。(詳細)

「トーチカ」はコンクリート製である。
外壁には多数の弾痕がある。また、大きな破孔がある。この破孔は米軍の艦砲射撃によるものと言われているが、詳細不明である。

「トーチカ」は天然の岩場の隙間を利用して建設されている。現在は観光用に階段や通路などの足場が整備されている。

岩の間にコンクリートで固められた入口がある。鉄筋の一部が見えている。

コンクリートをふんだんに使用した立派な「監視所」であった事が分かる。戦時中、海軍は陸軍よりも築城資材(鉄筋・セメント等)を豊富に持っていた。海軍が建設した施設はこれ等の築城資材をふんだんに使用している事が多い。

内部は天井が高くて広い。壁の一部は天然の岩を利用している。

壁には、監視窓兼銃眼と思われる四角い穴が幾つか設けられている。窓の外枠は、銃弾を防ぐ為に階段状になっている。
壁に大きな破孔がある為、内部は明るい。

「トーチカ」の裏側(「旧マッピ山」側にも銃眼がある。外壁の一部には緑色の塗料が遺されているのが分かる。当時塗装されていた迷彩用の塗料である。

九五式軽戦車

「九五式軽戦車」1両が遺されている。

サイパン島には陸軍の戦車第九連隊の3個中隊(第三中隊・第四中隊・第五中隊)が配備されていた。各中隊本部は 「九五式軽戦車」2両を装備しており、合計6両を装備していた事になる。
これ以外に、海軍の陸戦隊(横須賀第一特別陸戦隊・第五根拠地隊)が 「九五式軽戦車」を装備していたと思われるが、詳細は不明である。

ここの車両は風化による損傷が激しく、保存状態が良くないが、車体中央を左右に貫通している破孔は戦闘による損傷であると考えられる。

ここの車両と同一の車両と考えられる「九五式軽戦車」の写真である。サイパン島での戦闘に於いて米軍が撮影し、75mm砲で撃破したと注釈があった。
車体中央を左右に貫通している破孔、砲塔後部の車載機関銃の銃架(ボールマウント)向きが、ここの車両と似ている。
砲塔横に旭日旗(軍艦旗)が描かれている事から、海軍(陸戦隊)の車両であった事が分かる。

併しながら、ここの車両は風化による損傷が激しく、決め手は少ない。
ちなみに、ここの他の日本軍兵器は全て海軍の兵器である。戦後、ここに日本軍兵器を集める際に、ある程度同一の場所から運んできたのではないだろうか。特に、「ガラパン市街周辺」には海軍部隊が配置されており、多数の兵器が米軍に破壊・捕獲された。
以上の事から、ここの車両は海軍が装備していた可能性がある。

砲塔内の「九四式三十七粍戦車砲」。

車体前部のギアボックス(変速機)。

車体前部(写真右側)のギアボックスから自在継手(ユニバーサルジョイント)を解してドライブシャフトが車体後部(写真左側)に伸びている。
車体後部(写真左側)にはエンジンがあり、フライホイール・ディスクカバーを解してドライブシャフトと繋がっているのが分かる。

車体後部のエンジン(「三菱A六一二〇VDe(ハ号機)」)。
4ストローク直列6気筒空冷ディーゼルエンジンで、最大120馬力を出力した。車体後部に右よりに縦置きされた。

短二十糎砲

「短二十糎砲」1門が遺されている。

全備重量:4100kg 砲身重量:630 kg 口径:202mm 砲身長:2438mm(12口径) 初速:310m/sであった。
高角砲に分類されるが、対潜射撃を主目的とした商船の自衛用火砲として開発された。

大東亜戦争末期になると、島嶼防衛に於いて陸上砲台・沿岸砲台の火砲として運用された。
ここの「砲」がサイパン島のどこに配備されていたかは詳細不明である。

各部が朽ち、保存状態はあまり良くない。

航空魚雷

「航空魚雷」1本が遺されている。

本体内の調整用ダイヤルに漢数字が読み取れる事から日本海軍の「航空魚雷」であると思われるが、型式等は詳細不明である。

先端の弾頭部は失われている。
内部には動力機関や燃料用のタンクの一部が見える。

同様の「航空魚雷」が「サイパン国際空港周辺(旧アスリート飛行場)」にも遺されている。

四十五口径十年式十二糎高角砲

「四十五口径十年式十二糎高角砲」3門が遺されている。

本砲は、「四十五口径三年式十二糎砲」(大正3年制式採用)を高角砲化し、大正10年(1921年)に制式採用された。
大正後半(1920年代)~昭和初期(1930年代)に於ける日本海軍の主力高角砲として、竣工時の重巡洋艦や航空母艦(「赤城」「加賀」)等の各種艦艇に搭載された。

昭和4年(1929年)、本砲の後継である「四十口径八九式十二糎七高角砲」が制式採用された。

既に重巡洋艦や航空母艦に搭載されていた本砲の多くは順次換装された。

本砲は、高角砲としては比較的軽量(単装砲架は8t弱)であり、製造が容易であった。その為、終戦まで製造され、運用され続けた。

製造総数約3000門の内、7割以上にあたる2320門が昭和17年(1942年)~昭和20年(1945年)に製造された。正式採用から実に20年近くに渡って運用された事になる。

海防艦(御蔵型以降)などの補助艦艇や商船からの改装空母(「大鷹」「雲鷹」)に本砲が搭載された。
また、大東亜戦争後期には多数の本砲が陸上砲台・沿岸砲台に於いて運用された。

現在、マリアナ諸島ではサイパン島以外にもグアム島・ロタ島にも本砲が遺されており、島嶼防衛に於いて運用されていた事が分かる。

ここにある本砲3門の内1門は砲口が裂けるように破損している。

九四式三十七粍砲

「九四式三十七粍砲」2門が遺されている。

本砲は、昭和11年(1936年)2月13日に正式採用された日本陸軍の速射砲(対戦車砲)であった。射距離1000mで20mmの装甲板を貫通する事が出来た。
併しながら、大東亜戦争開戦後は次第に威力不足になり、 「一式機動四十七粍速射砲 」が開発されたが、小型・軽量な本砲は、速射砲(対戦車砲)の不足を補う為にその後も使用され続けた。

2門とも砲身・砲架のみで、砲脚や車輪等は失われている。コンクリートの台座に一部が埋められて固定されている。

五十口径四十一式十五糎砲

「五十口径四一式十五糎砲」1門が遺されている。

本砲は、日露戦争(明治37年~38年)で使用された「安式四十口径十五糎砲」(アームストロング社製)を国産化し、明治41年(1908年)に正式採用された。
その為、「安式四十口径十五糎砲」とは砲弾・装薬に互換性があった。

金剛型戦艦・山城型戦艦の副砲として使用されていたが、1930年代の改装時に一部が撤去された。阿賀野型軽巡洋艦の主砲としても使用された。
余剰になった本砲は、大東亜戦争後期には陸上砲台・沿岸砲台に於いて運用された。

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