日本統治時代
日本統治時代日本統治時代日本統治時代は大正3年(1914年)~昭和19年(1944年)までである。
日本統治時代の各種展示がなされている。
「日本病院」は米軍の攻撃によって破壊され、戦後も荒廃していたが、昭和63年(1988年)、「北マリアナ博物館」として開館した。
南洋メグリ双六。
ふりだしが「横浜」、上がりがパラオ諸島コロール島の「南洋神社」である。
日本統治時代の南洋興発及び関係会社事業一覧である。
当時の南洋開発の様子と、各地の特産品が分かる。特産品の一部が伏字になっている。
日本統治時代日本統治時代日本人が使用していた炊飯用の釜。
これはサイパン島北部の「カラベラ・ケーブ」で発見された物である。米軍侵攻時に避難した一般邦人が使用ていたのだろうか。
桶・石臼・壷。
特に説明は無いが、日本統治時代の生活用品である。桶はレプリカのようである。
日本統治時代のサイパン島の地図と「ガラパン市街」の地図。
有名商店や官公庁の写真や案内も付属している。観光用の地図だったのだろうか。
「ガラパン市街」の店舗広告。
数多くの飲食店・旅館・商店がある。他にも写真館・マーケット・印刷所など、多種多様な商店が軒を連ねていたことが分かる。当時の「ガラパン市街」の繁栄を物語っている。
南洋興発会社の初代社長としてマリアナ諸島の開発に尽力した松江春次に関する展示である。
松江春次は「砂糖王(シュガーキング)」として、現在もサイパン島発展の功労者として現地人からも尊敬されている。 「北マリアナ博物館」のすぐ北にある 「砂糖王公園(シュガーキングパーク)」には松江春次の銅像が遺されている。
南洋興発会社によるサトウキビ産業の様子が当時の写真で展示されている。
「テニアン町」(現在のテニアン島 「サン・ホセ市街」)
米軍が上陸してくる前の平和な時代の 「テニアン町」の繁栄が伺える。「ガラパン市街」も同様に賑わっていたことであろう。
「ガラパン音楽堂」(「ガラパン市街」)に於ける海軍軍楽隊の吹奏。
軍楽隊の演奏会に大勢の市民がつめかけている。これも米軍が上陸してくるはるか以前の平和な時代の一こまである
現在の「北マリアナ博物館」は日本統治時代は「南洋庁サイパン医院」であった。当時この病院は南洋諸島で最高の設備を持った近代的な病院であり、現地人の衛生状態向上にも大きく貢献した。現在は「日本病院」とも呼ばれている。
「日本病院」での診察中の一こま。
「日本病院」でのレントゲン撮影中の一こま。現地人を診察している。
日本統治時代日本統治時代サイパン島で発見された当時の生活用品。
女学校の生徒手帳や通知表もある。
サイパン島やテニアン島の南洋興発会社の写真。
当時としては珍しいカラー写真で、製糖工場や農作業の様子が良く分かる。
南洋興発会社による南洋開発の規模の大きさを物語る。
日本統治時代に撮影された現地人(チャモロ人・カロリニアン人)の写真が展示されている。
現在ではあまり見られない現地人の伝統文化がカラー写真などで遺されている。
日本統治時代の日本人学校での記念写真。
当時の教員の制服は詰襟の服に制帽をかぶり、刀を持っているのがおもしろい。
第八十四番の仏像。
日本統治時代、サイパン島では「チャランカノア」から「タッポーチョ山」までの登山道に、四国八十八箇所を模した仏像が置かれていたようである。
南洋版「お遍路さん」というところであろうか。
テニアン尋常高等小学校。
テニアン島の「テニアン町」にあった。
現在は「サン・ホセ教会」がある。
日本統治時代の「テニアン町」。
中央の道は当時のメインストリートであった「スズラン通」。テニアン郵便局付近から撮影。
「テニアン町」に建てられた現地人の為の学校(公学校)。
日本統治時代、現地人(チャモロ人・カロリニアン人)に対する教育も行われた。
日本統治時代日本統治時代日本統治時代、サイパン島北部の「バナデル平原」には「南洋興発第三農場」があった。
「南洋興発第三農場」で使用されていた鐘。
鐘をたたいて時刻を知らせていた。
昭和19年(1944年)になると、「バナデル平原」に日本軍の飛行場建設が開始され、南洋興発社員多数も勤労動員として参加した。併しながら、6月15日に米軍が上陸した時、 飛行場は未完成であった。
米軍はサイパン島占領後、「バナデル飛行場」を整備・拡張して使用した。
米軍のサイパン島侵攻
米軍のサイパン島侵攻米軍のサイパン島侵攻ここからは、主に戦時中の品物が展示されている。
戦時中、日本軍が使用していたサイレン。
日本軍・米軍の装備品。
日本軍の装備品は、水筒(将校用)・鉄兜・ 「三十年式銃剣」「南部十四年式拳銃」・写真等がある。写真には水兵服を着た兵士と海軍陸戦隊の兵士が写っている。
米軍の装備品は、水筒・手榴弾・拳銃(「コルトガバメント」)・写真等がある。
米軍のサイパン島侵攻米軍のサイパン島侵攻マリアナ諸島(サイパン島・テニアン島・グアム島)を占領した米軍は、大規模な飛行場を整備し、昭和19年(1944年)12月から日本本土に対する空襲を開始した。
米陸軍第313爆撃航空団第9爆撃航空群所属の「B-29」(GOIN’ JESSIE)の戦果を記念するパネル。
各種砲弾と薬莢。
米軍のサイパン島侵攻米軍のサイパン島侵攻米軍のサイパン島侵攻米軍の「ブローニング M1919 機関銃」。
原子爆弾投下に関する展示。
広島・長崎に投下された原子爆弾は、テニアン島の 「ノース・フィールド飛行場」を離陸した「B-29」から投下され、一般市民約数十万人が死亡した。
テニアン島に原子爆弾を輸送した米海軍重巡洋艦「インディアナポリス」の撃沈に関する記述、日本の降伏に関する記述も展示されている。
米軍のサイパン島侵攻米軍のサイパン島侵攻日本軍の医療品・医薬品や、海軍の第三種略帽が展示されている。
サイパン島の戦闘では、負傷した多くの将兵は医療品・医薬品の不足から満足な治療を受けることが出来ず、その多くは自決によって自ら命を絶った。
寄せ書きのある日章旗。
サイパン島の日本軍兵士の所持品だったのであろうか。「贈 今井文次郎 君」と書かれている。この兵士は無事に祖国日本に帰る事は出来たのであろうか。
米軍のサイパン島侵攻米軍のサイパン島侵攻サイパン島中部の「タッポーチョ山」を進撃する米軍兵士。
米軍の捕虜収容所で日本人収容者が製作した花瓶。砲弾の薬莢を利用して製作されている。
米軍のヘルメットの前に置かれているのは、テニアン島の「チューロ村」付近に開設された捕虜収容所(CAMP CHURO)の看板。
左側には、南洋興発がテニアン島に敷設した軽便鉄道のレールの一部が展示されている。