オレアイ海岸

オレアイ海岸の戦跡一覧

大東亜戦争におけるサイパン島の歴史
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日本軍トーチカ(2ヶ所)

オレアイ海岸北部に日本軍の「トーチカ」が2ヶ所遺されている。
この一帯は米軍上陸海岸(Red Beach 1)の北端であった。米軍の上陸正面から外れていた為か、「トーチカ」に大きな損傷は見られない。
ここからは、南側に広がる米軍上陸海岸(Red Beach 1 2 3、Green Beach 1 2)を望む事が出来る。

ペンキで黄色く塗られ、落書きされている。
一見して「トーチカ」とは分かりにくい。

海岸に向けて細長い銃眼がある。

銃眼の細さからして、この「トーチカ」は砲座ではなく、機銃座若しくは掩蔽壕として造られたと考えられる。銃眼は北側(ガラパン市街方向)に向けて射角が取れるようになっている。

側面には入口があるが、土砂で埋まっており入ることは出来ない。入口の上には漢字が彫られているが、何と書いてあるかは不明である。

「トーチカ(黄色)」から南側のオレアイ海岸中部~南部(Red Beach 1 2 3、Green Beach 1 2 3)を望む。
米軍上陸海岸である。昭和19年(1944年)6月15日、米軍(第2海兵師団)はこれらの海岸から上陸を開始した。奥の岬に見えるのは「サイパングランドホテル(Saipan Grand Hotel)」。

黄色く塗られた「トーチカ」から200m程南にもう一つの「トーチカ」がある。

半地下式に造られており、海岸に向けた銃眼は地面の高さにある。

土砂が侵入している為、内部に入ることは出来ない。「トーチカ」は海岸から10~15m程のところに造られている。銃眼は南側(オレアイ海岸方向)と北側(ガラパン市街方向)に向けて射角が取れるように、左右に開いている。

この一帯は米軍の上陸正面からは多少外れているが、この「トーチカ」には損傷が見られる。
経年劣化によるものか、米軍の攻撃によるものかは分からない。

現在、この一帯は海岸沿いに美しい遊歩道が整備され、手入れの行き届いた芝生がある。

「トーチカ」遊歩道内にあり、周囲の風景に溶け込んでいる。嘗てここが血みどろの激戦地であったことを忘れたかのようである。

「日本軍トーチカ(2ヶ所)」の歩き方
ビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いである。

ガラパン市街から南下してすぐ、海岸沿いの遊歩道(Beach Road PathWay)が始まるところに「トーチカ(黄色)」がある。

ここから南に約200m程行った場所にもう1つ「トーチカ」がある。遊歩道(Beach Road PathWay)が緩いS字状に曲がっているところである。

ビーチロード(Beach Rd.33号線)の向かいにはLlat St.という小路の入口がある。

日本軍戦車・日本軍トーチカ

オレアイ海岸北部には他にも「日本軍トーチカ」と「日本軍戦車 (九七式中戦車)」が遺されている。
ビーチ・ロード(Beach Rd. 33号線)沿いに「九七式中戦車」が見えるが、擱座した「九七式中戦車」が展示用として「トーチカ」の上に置かれている。
正面の海岸は米軍上陸海岸(Red Beach 2)であった。

「トーチカ」は半分地中に埋もれているが、大きな銃眼がある。砲座であると考えられ、側面には弾痕も見える。また、この「九七式中戦車」は戦車第九連隊所属車両であった。

昭和19年(1944年)6月16日夜半、部隊は上陸した米軍に対して大規模な戦車夜襲を敢行。水際逆襲によって米軍を海へ追い落とそうとしたのである。この夜襲には歩兵部隊も参加し、日本軍は乾坤一擲の反撃に出た。

併しながら、日本軍の決死の反撃も空しく逆襲は失敗した。戦車の大部分を失い戦車第九連隊は壊滅。米軍は内陸への地歩を固めた。

この「九七式中戦車」にも生々しい被弾の跡が遺されており、激戦の模様を伝えている。
「九七式中戦車」の乗員は4名、搭乗していた戦車兵は無事に脱出できたのであろうか。

錆び付いた砲塔は最早動くことは無いが、「戦車砲」は今も海を睨んでいる。

車体後部にはエンジン、バッテリー、フライホイール、プロペラシャフトなどが遺されている。床板等は失われているが、これらの残骸から戦車の構造が良く分かるだろう。

車体前部には変速機(ギアボックス)、操縦席のペダルなどが遺されている。

昭和19年(1944年)6月15日、「トーチカ」目前の海岸(Red Beach 2)に米軍(第2海兵師団第6連隊)が上陸した。

「トーチカ」は海岸から約10m程の所に造られており、銃眼は南西(Red Beach 2、3)方向を向いている。

上陸した米兵には目前に立ちはだかる「トーチカ」が見えただろう。日本軍は上陸する米軍に対して水際反撃を試みた。この「トーチカ」でも、日本軍兵士は斃れるまで米軍に反撃したに違いない。

この一帯はオレアイ海岸沿いに遊歩道が整備されており、 「九七式中戦車」「日本軍トーチカ」も観光資源として保存されている。

側の看板には、昭和19年(1944年)6月16日夜半の日本軍による水際夜襲についての説明がある。
米軍は日本軍水際逆襲を撃退したもの、予想以の損害を受け、予備としていた陸軍師団をサイパン島攻略に投入せざるを得なくなった。結果、 テニアン島・グアム島の攻略予定が約1ヶ月遅延したのである。

「日本軍戦車・日本軍トーチカ」の歩き方
ビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いである。

ビーチロード(Beach Rd. 33号線)と、Quarter Master Rd.との交差点、ビーチロード(Beach Rd. 33号線)からすぐ見える場所にある。

ビーチ・ロード(Beach Rd. 33号線)とMSGR.Guerrero Rd.(31号線)の「交差点」 (「米軍記念碑・日本軍速射砲」)からビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いに約1100m北上した場所である。

付近は遊歩道(Beach Road athWay)が整備されている。

また、ここは「日本軍トーチカ(2ヶ所)」からビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いに約1500m南下した場所でもある。

米軍記念碑・日本軍速射砲

「ランディングビーチ」のやや北のビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いの「交差点」に「米軍記念碑」が建てられている。

2つの「モニュメント」からなっており、一方の「モニュメント」の上部にはヘルメットが被せられた十字架がデザインされている。

これは戦場の墓標をイメージしており、サイパン島で戦死した米軍兵士を記念している。

この「記念碑」は昭和45年(1960年)5月、米海軍の管理部隊によって建てられた。

「この記念碑は祖国の任務の為にに自らの命を捧げた自己犠牲的な精神を持った人々の栄誉を称える」とある。

「米軍記念碑」の側には日本軍の「日本軍速射砲(一式機動四十七粍速射砲 )」2門が遺されている。

2門とも砲身が短く切断され、砲脚もダミーが取り付けられているが、砲盾・砲尾・尾栓・タイヤなどは原型を保っている。

「米軍記念碑・日本軍速射砲」の歩き方
ビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いである。

オレアイ海岸中部のビーチロード(Beach Rd. 33号線)とMSGR.Guerrero Rd.(31号線)「交差点」の南東の角である。

この「交差点」は「日本軍戦車・日本軍トーチカ」から約1100m南下した場所である。

この「交差点」は比較的大きな「交差点」なので分かり易いだろう。

ランディングビーチ(ベテランズ・メモリアル)

米軍が上陸したオレアイ海岸には「ランディングビーチ(上陸海岸)」と呼ばれる場所がある。

「ランディングビーチ」には米側の「モニュメント(Veterans Memorial)」が建てられている。

ここでのベテランとは退役軍人のことである。
中央には「記念碑」があるが、風雨に長年さらされたためか、文字は読み取りづらい。

「記念碑」の背面の壁には壁画のほか、アメリカがサイパン島で戦った米軍兵士を称える文章が書き込まれている。

「ランディングビーチ(ベテランズ・メモリアル)」の歩き方
ビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いである。

ビーチ・ロード(Beach Rd. 33号線)とMSGR.Guerrero Rd.(31号線)の「交差点」 (「米軍記念碑・日本軍速射砲」)から約1000m南下した場所である。
ビーチ・ロード(Beach Rd. 33号線)沿いの海側(西側)にある。

ビーチ・ロード(Beach Rd. 33号線)を挟んだ向かいには「マリアナ高校(Marianas High School)」と「野球場」がある。

歩兵第十四連隊の碑(江藤大隊慰霊碑)・鎮魂碑

「サイパングランドホテル(Saipan Grand Hotel)」敷地内に「歩兵第十四連隊の碑(江藤大隊慰霊碑)」「鎮魂碑」が建てられている。

江藤大隊(独立歩兵第三一六大隊)は米軍が上陸したオレアイ海岸一帯の守備を担当していた。
上陸する米軍と正面から対峙することになったため、部隊の消耗は激しかった。昭和19年(1944年)6月17日(米軍上陸3日目)、部隊が「アスリート飛行場」まで後退したときには既に兵力は半減、戦闘力は極に低下していた。

「慰霊碑」は江藤大隊が守備していたオレアイ海岸沿いに建てられている。
正面には鎮魂の文字とともに英霊593名の氏名が刻まれている。部隊に配属されていたのは610名、部隊はほぼ全滅した。

裏面には碑文が刻まれている。
「碑文 太平洋戦争において、サイパン島及び一部テニアン島で、祖国のために崇高な任務を全うして散華された、尊い御霊を弔い、遺烈を永く顕彰するため、平和への祈りをこめて、この地に鎮魂の碑を建立し、慰霊の誠を捧げ、心から御冥福を祈る 一九九四年六月吉日 戦友・遺族有志一同」

また、「サイパングランドホテル」の正面玄関脇には「鎮魂碑」が建てられている。こちらは特定の部隊ではなく、戦没者全体を鎮魂する碑である。

裏面には碑文が刻まれている。

「歩兵第十四連隊の碑(江藤大隊慰霊碑)・鎮魂碑」の歩き方
歩兵第十四連隊の碑・鎮魂碑歩兵第十四連隊の碑・鎮魂碑ビーチロード(Beach Rd. 33号線)沿いの「サイパングランドホテル(Saipan Grand Hotel)」敷地内にある。

「サイパングランドホテル」は「ランディングビーチ」から900m程南下した場所にある。

「鎮魂碑」は、「サイパングランドホテル」前の「ロータリー」にある。
「サイパングランドホテル」に向かって左側(南西側)、「ロータリー」の側の植込みに「鎮魂碑」がある。

「歩兵第十四連隊の碑(江藤大隊慰霊碑)」は「サイパングランドホテル」の裏側(海側)にある。

「サイパングランドホテル」の正面玄関から入ってフロントを抜けると「プール」がある。

「プール」の左側(南西側)にオレンジ色の屋根の「小屋」がある。

「小屋」の裏側(南西側)に「歩兵第十四連隊の碑(江藤大隊慰霊碑)」がある。

海上のM4中戦車(シャーマン)

昭和19年(1944年)6月15日、艦砲による支援射撃のもと米軍はオレアイ海岸一帯に上陸を開始した。翌16日には輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で重火器類の揚陸を行い、橋頭堡を強化した。

オレアイ海岸には揚陸途中で撃破された「M4中戦車(シャーマン)」を海岸から見ることができる。

車体部分は海没しており、砲塔部分が海面から出ている。砲塔の上の部分はハッチが開いているように見える。

「海上のM4中戦車(シャーマン)」の歩き方

「ランディングビーチ」から「サイパングランドホテル(Saipan Grand Hotel)」までの海岸の沖合いである。

海岸から150m~300mあたりの位置に海没した4両の「M4中戦車(シャーマン)」を見ることができる。

日本軍トーチカ

オレアイ海岸南部に日本軍の「トーチカ」が遺されている。銃眼は比較的大きく、海岸に対して斜めになっており、南西方向を指向している。ここは米軍上陸海岸(Green Beach 3)であった。

内部から銃眼越しに米軍上陸海岸(Green Beach 3)が見渡せ、左端にはチャランカノア海岸の「シュガードック」が見えている。

昭和19年(1944年)6月15日、銃眼の前に広がる米軍上陸海岸(Green Beach 3)に殺到する米軍に対し、それを阻止せんとする日本軍はこの「トーチカ」から激しい反撃を試みたに違いない

水際で反撃する日本軍に対して、米軍の艦砲射撃は熾烈を極めた。殆どの陣地が破壊され、多くの部隊が甚大な被害を受けた。

この「トーチカ」も正面には大きな弾痕があり、米軍の艦砲射撃の威力が分かる。

内部に散らばるコンクリートの破片は米軍の攻撃によるものだろうか。
ここで戦った日本軍兵士は無事に祖国の地を踏めたのであろうか。

「トーチカ」側面には、投げ込まれた手榴弾を捨てる為であろうか、下向きに開いた隙間がある。

また、この「トーチカ」の近くにはこの付近一帯に上陸した米軍(第2海兵師団)の記念碑がある。

「日本軍トーチカ」の歩き方
「サイパングランドホテル(Saipan Grand Hotel)」から少し南の海岸沿いにある。

「サイパングランドホテル(Saipan Grand Hotel)」の「歩兵第十四連隊の碑」付近から海岸沿いに南へ約100m程歩くと、波打ち際に「トーチカ」が見えてくる。

銃眼は南西側を指向しているのでこの方向からは銃眼は見えない。上には大きな木が覆いかぶさるように生えており、「トーチカ」天井も草で覆われている。

「米軍記念碑」は「サイパングランドホテル(Saipan Grand Hotel)」とこの「トーチカ」の中間にある。
砂浜より15m程内陸に入った所にある。

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