大東亜戦争におけるテニアン島の歴史

テニアン島北部の戦跡
ノース・フィールド周辺
北部海岸周辺

テニアン島中部の戦跡
ブロードウェイ周辺
8番街(8th Ave.)周辺
テニアン空港周辺

テニアン島南部の戦跡
サン・ホセ市街周辺
カロリナス台地周辺

テニアン島は日本の南、約2400㎞、マリアナ諸島(Mariana Islands)に属する。面積101km2・南北16km・東西8km、島中は珊瑚質の岩盤である。最高所はラッソ山(173m)であり、全体的に平坦な島である。幅4.8kmの水道を挟んで北には北マリアナ諸島の中心的な島である サイパン島がある。常夏であり、年間の平均気温が約27℃、「世界で最も気温の変化のないところ」としてギネスブックに載っている。雨期は7月~11月で南国特有のスコールが時折降る。

現在はアメリカ合衆国の自治連邦区(Commonwealth)となっている。先住民としてチャモロ人・カロリニアン人がおり、カトリック教徒が多い。公用語は英語である。人口は約3500人、殆どは南部のサン・ホセ市街(San Jose)に集中している。農業が主産業であが、これに牧畜と観光産業が加わる。総面積の3分の1が牧場である。中部に「テニアン国際空港」、南部の サン・ホセ市街(San Jose)付近に「テニアン港」があり、島外との玄関口として機能している。

大正3年(1914年)7月28日、第一次世界大戦が勃発、日本軍は当時ドイツ領であった南洋諸島を占領。大正5年(1916年)11月には初めての移民として日本から4人、サイパン島から約20人が移住。開拓を開始した。大正7年(1918年)2月22日、山形県出身者約100人とサイパン島・ロタ島からの300人が移住し、開拓が本格化する。この頃のテニアン島では椰子栽培が行われていたが、害虫や干ばつによってその後衰退した。大正10年(1921年)3月、南洋諸島の製糖事業を目的とする国策会社として南洋興発株式会社が設立された。昭和2年(1927年)、南洋興発のサトウキビ農家が移住。以後、テニアン島ではサトウキビ栽培が行われ、製糖業が発展していく。

昭和5年(1930年)には1日1200tの原料処理能力を持つ製糖工場が操業を開始した。それ以外にも綿花・コーヒーも栽培された。また、カツオ漁が行われ、鰹節工場も建設された。当時、日本国内でテニアン島は「天寧島」と呼称され、製糖業に於ける砂糖の生産量は台湾についで東洋第2位にまでなった。昭和19年(1944年)6月、米軍上陸前のテニアン島の人口は日本人18400人、チャモロ人26人であった。

大東亜戦争開戦当初、テニアン島を含むマリアナ諸島は日本軍の後方基地として機能し、最前線からは縁遠い場所であった。併しながら、昭和18年以降、米軍の反撃が本格化し、日本軍の戦線は次第に後退した。そして、マリアナ諸島は日米双方から重要な戦略拠点として注目され始めた。何故なら、マリアナ諸島は日本本土爆撃が可能な距離に位置していたのである。日本軍はマリアナ諸島を含む「絶対国防圏」を策定して防備を固めようとした。

果たして、昭和19年6月11日、米軍機によるサイパン島空襲が開始された。13日、艦砲射撃も加わり、ここに米軍によるマリアナ諸島侵攻が開始された。15日、米軍はサイパン島に上陸を開始、19日~20日、日本軍は 「マリアナ沖海戦」の敗退によってマリアナ諸島周辺の制海権・制空権を完全に喪失、マリアナ諸島は孤立した。7月7日、サイパン島の日本軍守備隊と一般邦人多数が玉砕、サイパン島を占領した米軍はテニアン島の攻略を開始する。

そして、7月24日07時、米軍はテニアン島北部の「チュルビーチ」に上陸を開始する。米軍は海岸を守備する日本軍部隊を壊滅させ、南下を開始する。24日夜半、テニアン島の日本軍は米軍に対して反撃を試みるも、圧倒的な兵力・火力を擁する米軍の攻撃の前に、日本軍は成す術がなかった。30日、テニアン町が米軍に占領され、日本軍将兵、日本人住民は南部のカロリナス台地周辺に追い詰められていった。日本軍は必死の反撃を試みるも、最早テニアン島の運命は風前の灯であった。8月2日夜半、日本軍部隊は米軍に最後の総攻撃を実施して玉砕。ここにテニアン島に於ける日本軍の組織的抵抗は終わった。米軍に追い詰められた一般邦人の多くも自ら断崖から海に身を投じた。

テニアン島は現在では、戦前あった製糖業も無く、観光産業もサイパン島や グアム島ほど栄えていない。 サン・ホセ市街(San Jose)周辺に2~3千人が住むが、島の2/3近くの土地が米軍管理下にあり、殆どは人の住んでいない土地である。その為、島の殆どは緑に覆われ、戦後も殆ど人の手が入っていない。

結果、かつてテニアン島で行われた戦闘の痕跡、そこで暮らしていた人々の営みの跡が数多く手付かずで遺されている。一部は観光地化されているものの、多くは殆どの人に知られることも無く、ひっそりと密林の中に眠っている。これらの戦争遺跡は祖国を護る為に戦って果てた日本軍将兵の想いや、南洋開拓に希望をもってこの地に生きた大勢の人々の想いを現在に伝えている。

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