大東亜戦争におけるシンガポール(街)の歴史

シンガポール北部
・サリンブン海岸
・クランジ海岸
・クランジ英連邦戦没者墓地
 (Kranji Commonwealth War Cemetery)

シンガポール中部
・フォード自動車工場(OLD FORD FACTORY)

シンガポール南西部
・パシルバンジャンのトーチカ(PASIR PANJANG)
・ケントリッジパーク(KENT RIDGE PARK)
・ラブラドール砲台(LABRADOR BATTERY)
・シロソ砦(FORT SILOSO)

シンガポール南東部
・バトルボックス(The Battle Box)

シンガポールは赤道直下に位置する都市国家である。マレー半島とはジョホール水道で隔てられているが、コーズウェイと呼ばれる埋め立てられて作られた橋で結ばれている。シンガポール島の最高地点は中央部のブキッ・ティマであるが、標高わずか163mであり島全体になだらかな沖積平野が広がっている。

島内は東端にチャンギ国際空港が、島の南に隣接するセントーサ島はリゾート地としての開発が進んでいる。中心地は島南部のオーチャード・ロードであり、高級ブランドショップが立ち並び観光客も多い。すっかり都会化したこの地は、かつてナツメグや胡椒の大農園がこの通りに並んでいたことからオーチャード(大農園)と名づけられた。

昭和16年(1941年)12月8日1時30分(日本時間)、日本軍はマレー半島のコタバルに上陸した。これは真珠湾攻撃の1時間20分前のことであった。ほぼ同時にタイ領のシンゴラとパタニにも上陸した。コタバルはシンガポールから約600km、シンゴラは約1000kmも離れていた。当時シンガポールは強固な沿岸砲台で守られており、直接の上陸が不可能であったからである。マレー半島東岸は断崖地形が続き、上陸に適した場所が近くになかった。マレー半島にはジャングルの中の一本道しかなく、大小250の川にかかる橋があった。英軍側はこれを爆破しながら後退して時間を稼ぎ、イギリス本国からの援軍を待つ戦略であった。

日本軍上陸の報を受け、イギリス東洋艦隊はシンガポールのセレター軍港から日本軍輸送船団を目指して出撃した。この動きは日本軍潜水艦によって察知されており、南仏印に展開していた海軍基地航空隊の陸上攻撃機84機が攻撃に向かった。12月10日11時45分(日本時間)、攻撃機は多数の魚雷を英戦艦2隻に命中させて撃沈した。この「マレー沖海戦」でイギリス東洋艦隊は主力艦を失い、日本海軍はマレー半島周辺の制海権を奪取したのである。

一方、マレー半島に上陸した日本軍は、進撃速度向上のため戦車のほかトラックや乗用車で機械化されていた。歩兵も自転車によって移動速度向上が図られ、当時の新聞はこれを銀輪部隊と呼んだ。また、橋梁の修復のため、独立工兵連隊が投入された。日本軍は連戦連勝を重ね、上陸からわずか55日間でマレー半島先端のジョホールバルに到達した。

昭和17年(1942年)2月9日未明、ジョホール水道北側高地から一斉に砲撃が開始された。支援砲撃のもと、部隊はジョホール水道を渡り、シンガポール島北西部に上陸した。上陸した部隊は10日にはブキッ・ティマ高地に前進したが、英軍は砲兵の支援の下に増援部隊を送った。高地を巡って激戦が繰り広げられたが、11日夜、ついに日本軍はブキッ・ティマ高地を占領し、高地東側の貯水池も占領した。12日、日本軍は三方からシンガポール島南東部の市街地に迫ったが、英軍は南東部の狭い範囲に防衛線を構築し、頑強に抵抗を続けた。

しかし、このとき英軍は食料・弾薬が底を尽きかけていた。さらに、弾薬不足に加えて水源を奪われて給水が停止したことが抗戦を断念させる大きな要因となった。15日夕方、フォード自動車工場において交渉が行われ、英軍パーシヴァル司令官は山下司令官に降伏した。日本軍も弾薬が不足し始めて攻撃続行が危ぶまれている状態であったが、山下司令官はそれを悟られぬよう、「YesかNoか」となかばハッタリの強気の姿勢で降伏を迫った。

英軍降伏により約8万人が捕虜となった。日本軍は捕虜の中のインド人兵士を説得し、インド独立を志す「インド国民軍」を編成した。インド国民軍は独立運動家スバス・チャンドラ・ボースの指揮下でインドやビルマなどで英軍と戦った。シンガポールは昭南島と改名され、以後終戦まで軍政が敷かれた。

現在もシンガポールには当時の英軍司令部や要塞、「トーチカ」が遺されている。英軍司令部の「フォートカニングパーク」や「シロソ砦」は観光地として整備され、蝋人形による当時の再現や火砲類が展示されている。「ラブラドール砲台」などでは「東洋のジブラルタル」と呼ばれた堅固な要塞を見ることができる。また、降伏交渉が行われた「フォード自動車工場」は昭和55年(1980年)に閉鎖されたが、現在は博物館として再オープンしている。

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