大東亜戦争における春島(ウエノ島・モエン島)の歴史

春島は、トラック諸島(チューク諸島)の北東に位置し、現地の言葉では、ウエノ(Ueno)島又はモエン(Moen)島である。日本統治時代は春島と呼ばれていた。面積は約20平方km、現在はミクロネシア連邦チューク州の州都で、チューク州の人口約54000人の1/3程が春島に集中している。

日本統治時代は直ぐ南にある夏島が行政上の中心地であり、平野の少ない春島はそれほど開発されていなかった。その後、トラック諸島が海軍根拠地として整備されていくと、それまであまり開発されていなかった春島に海軍施設が多数建設された。結果、行政や司令部の機能が集まっていた夏島に対し、春島は航空基地機能が集中した。即ち、春島北西端には陸上攻撃機が発着可能な「春島第一飛行場」が、春島南端には「春島水上機基地」が設営された。また、春島東部には「通信所」や「無線塔」が建設され、南洋群島に於ける通信網の一翼を担った。

昭和16年(1941年)12月8日に大東亜戦争が開戦、トラック諸島は日本海軍の重要な拠点として機能した。昭和17年(1942年)以降、ソロモン諸島方面や東部ニューギニア方面に於ける航空戦が激化するに従い、トラック諸島には続々と兵員・機材・物資が送り込まれた。特に、「春島第一飛行場」や「竹島飛行場」は中継基地となり、内地から飛来する航空機や、艦船で輸送されてくる補充機がその翼を並べ、そして最前線へと飛び立っていった。

しかし、昭和18年(1943年)以降、戦局は悪化の一途を辿り、遂に昭和19年(1944年)2月17日・18日、トラック諸島は米海軍の大規模な空襲を受けてその機能を喪失した。春島に於いても、「春島第一飛行場」や「水上機基地」が大きな損害を受けた。その後、ニューブリテン島ラバウルから後退した航空隊による航空戦力の建て直しや、「春島第二飛行場」「防空砲台」「電探見張所」の設営などが行われたものの、同年4月30日・5月1日には再び大規模な空襲を受けた。更には7月~8月にマリアナ諸島が米軍に占領され、トラック諸島は周囲の制空権・制海権を奪われた状態で、敵中に孤立してしまった。内地からの補給が殆ど途絶えたトラック諸島に於いて、現地の陸海軍部隊や在留邦人は自給自足の生活を強いられる事になった。春島には、陸海軍部隊約2万名と報国隊(囚人で編成された設営部隊)約1000名の他に軍属や在留邦人がおり、これら大勢を養うために島中に芋畑が作られた。しかし、平地の少ない春島での開墾作業は難しく、食糧不足から多数の餓死者や栄養失調者がでた。

昭和20年(1945年)8月15日に大東亜戦争が終戦すると、10月から内地への復員が開始された。その後、米軍が進駐、整備し直した「春島第一飛行場」を使用した。以後、春島がトラック諸島の中心地となっていった。
現在、「チューク国際空港」や「チューク港」の周辺は市街地として栄えているが、少し奥地に入ると当時の艦砲や高角砲など多数の戦跡が遺されている。しかし、維持管理は不十分であり、州政府による管理が望まれる。