航空母艦「隼鷹(じゅんよう)」

「隼鷹」について

航空母艦「隼鷹(じゅんよう)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の航空母艦である。
日本郵船の豪華客船「橿原丸」を改造した特設航空母艦(商船改造空母・特空母)であったが、後に航空母艦に類別されて「隼鷹」と命名された。

「隼鷹」は、昭和14年(1939年)3月20日、長崎県の三菱重工長崎造船所で日本郵船の豪華客船「橿原丸」として起工され、その後、建造途中で空母への改造が決定、昭和17年(1941年)5月3日、日本海軍の航空母艦「隼鷹」として竣工した。

「隼鷹」は、当初は民間商船として起工され、純粋な航空母艦として建造された艦ではなかった。しかし、戦時には空母への改造が可能な設計が成されていた。これは以下のような事情による。
昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約によって、日本海軍は空母の保有量に制限を受けた。そこで、建造費用の一部を海軍が負担する代わりに、戦時になった場合は海軍が買収して空母へ改造する事を前提とした民間の優秀商船を整備する事になった。これは、「優秀船舶建造助成法」として昭和12年(1937年)4月に施行された。
この「優秀船舶建造助成法」を適応し、逓信省は日本郵船の豪華客船「出雲丸」「橿原丸」の建造を計画、昭和14年(1939年)3月20日、「橿原丸」は長崎県の三菱重工長崎造船所で起工された。しかし、建造途中の昭和15年(1940年)10月、日本海軍はこれら商船の空母への改造を決定した。そして、翌昭和16年(1941年)2月10日、建造中の「橿原丸」は第1002号艦として空母への改造が開始された。尚、姉妹船「出雲丸」も第1001号艦(後の「飛鷹」)として空母への改造が開始された。

昭和17年(1942年)5月3日、第1002号艦は航空母艦「隼鷹」として竣工した。
「隼鷹」は、商船を改造した特設航空母艦であったが、基となったのは優秀商船であった為、中型正規空母に匹敵する性能を備えていた。即ち、搭載可能な艦載機数や航空兵装(爆弾・魚雷)は正規空母であった「蒼龍」「飛龍」とほぼ同等、最大速力25.68ノットは正規空母にはやや劣るものの、艦隊に随伴して航空作戦を行う事が可能であった。これは、急速な空母増産が困難な日本海軍にとっては貴重な戦力となり、同様の改造を受けた姉妹艦「飛鷹」と共に、日本海軍機動部隊の一部を担っていく事になる。
「隼鷹」と同型艦「飛鷹」には、日本海軍の航空母艦としては初めて艦橋と一体化した煙突が装備された。これは、艦橋構造物の上に設けた斜め外側に傾斜した煙突によって排煙するものであった。この形式の煙突は、「隼鷹」「飛鷹」で実際に運用してみると非常に良好な結果が得られた。そこで、後に竣工する重装甲空母「大鳳」「信濃」では、乾舷(海面から飛行甲板までの高さ)の低さによって舷側に下向きの煙突を装備する事が難しかった為、この艦橋と一体化した煙突が装備された。
「隼鷹」は、一般的には飛鷹型航空母艦の二番艦とされ、竣工前は「飛鷹」が第1001号艦、「隼鷹」が第1002号艦と呼称されていた。しかし、実際に竣工したのは、「隼鷹」が昭和17年(1941年)5月3日で、「飛鷹」が昭和17年(1941年)7月31日であり、二番艦である「隼鷹」が先であった。

大東亜戦争に於いては、昭和17年(1942年)6月に実施されたアリューシャン作戦(ミッドウェー作戦の支作戦)が「隼鷹」の初陣であった。
この時、第一航空艦隊第四戦隊の僚艦である軽空母「龍驤」と共に、第二機動部隊(指揮官:角田覚治中将)に編入され、アリューシャン列島ダッチハーバーを空襲した。併しながら、主目的であるミッドウェー作戦は失敗し、日本海軍はミッドウェー海戦によって「主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失した。
更に、同年10月にソロモン諸島北方に於いて行われた南太平洋海戦に参加。
この時は僚艦「飛鷹」と第三艦隊第二航空戦隊を編成、同第一航空戦隊の「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」と共に米海軍機動部隊に対して熾烈な航空戦を展開した。僚艦「飛鷹」は機関の故障によってトラック泊地への後退を余儀なくされたが、「隼鷹」は奮戦し、米海軍の空母「ホーネット」を撃沈、同「エンタープライズ」を撃破する戦果を挙げた。
その後は、ソロモン諸島に於ける航空戦を支援する為に搭載する飛行隊を陸上基地に派遣したり、内地と南方との輸送任務に従事した。

昭和19年(1944年)6月、米海軍機動部隊は、日本が絶対国防圏と定めた中部太平洋の要衝マリアナ諸島に来襲した。これに対し、日本海軍は「あ」号作戦を発動、マリアナ諸島の基地航空隊と機動部隊によって米海軍機動部隊を撃破して、一挙に戦局の打開を図ろうとした。この決戦に際し、日本海軍は新鋭の重装甲空母「大鳳」以下空母9隻・艦載機約450機を擁する第一機動艦隊を投入、「隼鷹」も、「飛鷹」「龍鳳」と共に第一機動艦隊第二航空戦隊を編成し、一路決戦の海に馳せ参じた。
6月19日、日米機動部隊最後の決戦となるマリアナ沖海戦が開始されたが、日本海軍は「大鳳」「翔鶴」を失い、発進した航空機の多くも戻らなかった。翌20日には米海軍の追撃が開始され、「隼鷹」には爆弾2発が命中するも沈没には至らなかった。しかし、姉妹艦「飛鷹」は撃沈され、2日間に渡る海戦によって日本海軍機動部隊は事実上壊滅した。

マリアナ沖海戦を生き延びた「隼鷹」は、その後、内地と南方との輸送任務に従事していたが、搭載する航空機は最早無く、空母として活躍する機会は巡って来なかった。
そして昭和20年(1945年)8月15日、長崎県の佐世保軍港付近に係留されたまま終戦を迎えた。戦後は、機関の損傷によって復員船としては使用されず、昭和21年(1946年)6月1日に解体が開始され、翌昭和22(1947年)8月1日に解体が終了した。

「隼鷹」は、平和な時代であれば北米航路の豪華客船「橿原丸」として活躍するはずであったが、国家の危機に際してその姿を航空母艦へと変えた。大東亜戦争に於いては、正規空母に遜色の無い働き振りをみせ、日本海軍の航空戦力の一翼を担い続けた。そして、幾多の戦いを潜り抜けた後に役目を終え、解体されてその生涯に幕を下ろした。

「隼鷹」の要目

<計画時(「橿原丸」):昭和14年(1939年)>

総トン数:28950トン
満載排水量:31915トン
全長206.m 全幅:26.7m 喫水:9.175m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶6基
出力:5万6350馬力
最大速力:25.5ノット
積載重量:10415トン
貨物艙容量:5824立法メートル
旅客定員:890名(一等320名・二等120名・三等550名)

<竣工時:昭和17年(1942年)>

基準排水量:24140トン
公試排水量:27500トン
満載排水量:トン
全長219.32m 水線長:215.3m 全幅:26.7m 喫水:8.15m
飛行甲板全長:210.3m 飛行甲板全幅27.3m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶6基
出力:5万6250馬力
燃料:4118トン(重油)
最大速力:25.68ノット
航続距離:18ノット・12251海里
搭載機数:常用機48機・補用5機
       艦戦 常用12機・補用3機 (零式艦上戦闘機)
       艦爆 常用18機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用18機・補用3機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾54発・250キロ爆弾198発・60キロ爆弾348発・魚雷27本
兵装:12.7センチ連装砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃8基24挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    二号一型電探1基
乗員:1187名

<最終時:昭和20年(1945年)>

基準排水量:24140トン
公試排水量:27500トン
満載排水量:トン
全長219.32m 水線長:215.3m 全幅:26.7m 喫水:8.15m
飛行甲板全長:210.3m 飛行甲板全幅27.3m
主機:三菱ツェリー式オールギヤードタービン2基
缶:三菱三胴型水管式缶6基
出力:5万6250馬力
燃料:4118トン(重油)
最大速力:25.68ノット
航続距離:18ノット・12251海里
搭載機数:常用機48機・補用5機
       艦戦 常用12機・補用3機 (零式艦上戦闘機)
       艦爆 常用18機 (九九式艦上爆撃機)
       艦攻 常用18機・補用3機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾54発・250キロ爆弾198発・60キロ爆弾348発・魚雷27本
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
    25ミリ三連装機銃24基72挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ連装機銃2基4挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
    12センチ28連装噴進砲6基168門
    二号一型電探1基・一号三型電探1基
乗員:1187名

参考文献

「機動部隊」
「激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦」

「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」

「隼鷹」の艦歴

昭和14年(1939年)3月20日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で豪華客船として起工。
昭和15年(1940年)10月:航空母艦への改造決定。
昭和16年(1941年)2月10日:豪華客船としての建造中止。逓信省から海軍省へ買収。
昭和16年(1941年)6月26日:三菱重工長崎造船所(長崎県)で進水。
昭和16年(1941年)10月1日:初代艤装員長として石井芸江大佐が着任。
昭和17年(1942年)5月3日:航空母艦として竣工。
                  初代艦長として石井芸江大佐が着任。
                  第一航空艦隊第四航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)5月22日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)5月25日:大湊港(青森県)に入港。
昭和17年(1942年)5月26日:大湊港(青森県)を出港。アリューシャン列島に向かう。
                  ミッドウェー作戦発動に伴うアリューシャン攻略作戦に参加。
昭和17年(1942年)6月3日~5日:アリューシャン列島ダッチハーバーを空襲。
昭和17年(1942年)6月24日:大湊港(青森県)に入港。
昭和17年(1942年)7月3日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)7月14日:第三艦隊第二航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)7月20日:2代目艦長として岡田為次大佐が着任。
昭和17年(1942年)10月3日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和17年(1942年)10月9日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)10月11日:トラック泊地を出航。
                   ソロモン諸島ガダルカナル島北方に向かう。
昭和17年(1942年)10月26日:南太平洋海戦に参加。
                   米空母「ホーネット」を撃沈。
昭和17年(1942年)10月30日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月9日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)12月26日:ウエワク攻略作戦に参加。
昭和18年(1943年)1月15日:トラック泊地を出航。
                  陸軍のウエワク輸送(丙一号輸送)を支援。
昭和18年(1943年)1月17日:飛行隊をウエワク(東部ニューギニア)に派遣。
昭和18年(1943年)1月19日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)1月31日:トラック泊地を出航。
                  ソロモン諸島ガダルカナル島の陸軍部隊撤退を支援。
昭和18年(1943年)2月9日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)2月12日:3代目艦長として長井満大佐が着任。
昭和18年(1943年)2月16日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)2月21日:大分県佐伯湾に回航。同日出航。
昭和18年(1943年)2月22日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)3月22日:大分県佐伯湾を出航。
昭和18年(1943年)3月27日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)4月1日~17日:「い」号作戦に参加。
                      飛行隊をビスマルク諸島ラバウルに派遣。
昭和18年(1943年)6月19日~22日:飛行隊をクェゼリン環礁ルオット島に派遣。
昭和18年(1943年)7月15日:飛行隊をビスマルク諸島ラバウル・カビエンに派遣。
昭和18年(1943年)7月19日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)7月25日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)7月26日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和18年(1943年)7月31日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和18年(1943年)8月9日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)8月15日:大分県佐伯湾を出航。
                  スマトラ島北部(インドネシア)サバンへの輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)8月28日:セレター軍港(シンガポール)に入港。
昭和18年(1943年)9月4日:セレター軍港(シンガポール)を出港。
昭和18年(1943年)9月11日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)9月19日:岩国港(山口県)を出港。
                  陸軍部隊の輸送作戦(丁一号輸送)に参加。
昭和18年(1943年)9月24日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)10月13日:呉軍港(広島県)を出港。
昭和18年(1943年)10月31日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)11月5日:福岡県沖ノ島沖で米海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷。
昭和18年(1943年)11月6日:重巡「利根」に曳航されて呉軍港(広島県)に入港。
昭和18年(1943年)11月19日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和18年(1943年)12月25日:4代目艦長として大藤正直大佐が着任。
                   (給糧艦「間宮」艦長兼任)
昭和19年(1944年)2月21日:5代目艦長として渋谷清見大佐が着任。
昭和19年(1944年)5月11日:大分県佐伯湾を出航。
昭和19年(1944年)5月16日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月13日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地を出航。
                  「あ」号作戦発動により、マリアナ諸島西方に向かう。
昭和19年(1944年)6月14日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地に入港。
昭和19年(1944年)6月15日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地を出航。
昭和19年(1944年)6月19日~20日:マリアナ沖海戦に参加
                       煙突付近に爆弾2発命中。発着艦不能・航行可能。
昭和19年(1944年)6月24日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)7月3日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)7月6日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和19年(1944年)7月10日:第三艦隊第四航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)7月14日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
                  瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)10月30日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
                   マニラ(フィリピン諸島)への輸送任務に従事。
昭和19年(1944年)11月1日:馬公(台湾)に入港。
昭和19年(1944年)11月15日:第二艦隊第一航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)11月17日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)11月23日:呉軍港(広島県)を出港。
                   マニラ(フィリピン諸島)への輸送任務に従事。
昭和19年(1944年)11月30日:マニラ港(フィリピン諸島)に入港。
昭和19年(1944年)12月1日:マニラ港(フィリピン諸島)を出港。
昭和19年(1944年)12月3日:馬公(台湾)に入港。
昭和19年(1944年)12月6日:馬公(台湾)を出航。
昭和19年(1944年)12月9日:長崎県女島付近で米海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷。
昭和20年(1945年)2月11日:第二艦隊第一航空戦隊から外される。
昭和20年(1945年)4月1日:佐世保軍港外(長崎県)恵美須湾で偽装の後繋留。
昭和20年(1945年)4月20日:第四予備艦となる。
昭和20年(1945年)5月12日:6代目艦長として前原富義大佐が着任。
昭和20年(1945年)6月20日:警備艦となる。
昭和20年(1945年)11月30日:艦籍から除籍される。
昭和21年(1946年)6月1日:佐世保海軍工廠(長崎県)で解体開始。
昭和22年(1947年)8月1日:佐世保海軍工廠(長崎県)で解体完了。