「葛城」について
航空母艦「葛城(かつらぎ)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である。
大東亜戦争中に日本海軍が竣工させた最後の航空母艦であった。
「葛城」は、昭和17年(1942年)9月に策定された改⑤計画に於いて計画された雲龍型航空母艦の三番艦であった。昭和17年(1942年)12月8日、広島県の呉海軍工廠で起工され、昭和19年(1944年)1月19日に進水、昭和19年(1944年)10月15日に竣工した。
昭和16年(1941年)11月、日本海軍は、昭和十六年度戦時建造計画(○急計画)を策定した。この中で、中型航空母艦1隻(後の「雲龍」)が計画されていたが、昭和17年(1942年)と昭和18年(1943年)に竣工予定の正規空母は1隻も無かった。そして、同年12月8日に大東亜戦争が開戦し、半年後の昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に於いて、日本海軍は主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)を喪失、これを補う為の空母の増産が急務となった。そこで、昭和16年(1941年)に策定された第五次海軍軍備充実計画(⑤計画)を、昭和17年(1942年)9月に改⑤計画として改定、新たに雲龍型空母15隻の建造を計画した。雲龍型航空母は、比較的建造しやすく性能的にも充分であった中型空母「飛龍」を原型とし、小改良を加え、構造の一部を簡略して量産性を高めた戦時急増型空母であった。
ミッドウェー海戦から2ヶ月後の昭和17年(1942年)8月、一番艦「雲龍」と二番艦「天城」が起工、その4ヶ月後の12月8日、改⑤計画の第5003号艦であった三番艦「葛城」も起工した。そして、「雲龍」「天城」は約2年で、「葛城」は約1年10ヶ月で竣工した。これは、当時の日本の国力を考えると驚異的な速さであった。
「葛城」の建造に於いては、「雲龍」「天城」では半円形であった機銃座(スポンソン)の形状を半六角形にする等、更に工程の簡素化が図られた。また、兵装は強化されて対空用の連装噴進砲を装備していた。また、当初搭載予定の機関の生産が滞り、その調達が困難になった為、急遽、陽炎型駆逐艦の機関(52000馬力)を2基搭載する事になった。その為、計画出力の15万2000馬力から10万4000馬力に減少した為、最高速力も計画値の34ノットから32ノットに低下した。
併しながら、「葛城」が竣工した昭和19年(1944年)10月時点では、6月のマリアナ沖海戦と10月のレイテ沖海戦によって日本海軍連合艦隊は事実上壊滅しており、以後、組織的な艦隊行動が行われる見込みは無かった。「葛城」は、ほぼ同時に竣工した同型艦「雲龍」「天城」と共に第三艦隊第一航空戦隊を編成したが、12月、「雲龍」はフィリピン諸島への緊急輸送の途中で撃沈された。
また、航空機や搭乗員の不足によって母艦飛行隊再建の目処もたたず、空母はあっても載せる飛行機が無い状況とあっては、「葛城」が空母として活躍する場無かった。更には、燃料事情の逼迫によって艦を動かす燃料にすら事欠く状態だった。結果、竣工したばかりの新鋭空母「葛城」は、僚艦「天城」と共に、虚しく呉軍港外に繋留されたままであった。
尚、「葛城」の後に起工された、雲龍型航空母艦3隻(「笠置」「阿蘇」「生駒」)は、竣工する事無く工事が中止された。結果、「葛城」は、日本海軍で最後に竣工した航空母艦となった。
昭和20年(1945年)3月19日、日本海軍最大の根拠地である広島県の呉軍港に対して、米軍艦載機による空襲が行われ、「葛城」は爆弾1発を被弾した。その後、「天城」と共に呉軍港外の三ツ子島に繋留されるが、艦体に擬装網を被せたり、飛行甲板に家屋や樹木を設置して島の一部に見せ掛けるなど、その身の置き所にさえ苦慮する有様だった。7月24日・28日、再び大規模な空襲によって爆弾3発を被弾して中破した。この時、付近に繋留されていた「天城」は浸水によって横転・着底してしまったが、「葛城」は、艦体には大きな被害は無く、航行には支障の無い状態であった。しかし、被弾した飛行甲板は大きくめくれ上がり、空母としての機能を喪失した。
昭和20年(1945年)8月15日、「葛城」は中破したままの状態で終戦を迎えた。呉軍港では多くの艦艇が無残に破壊され、生き残った艦艇も次々と処分されていく中、「葛城」には重要な任務が待っていた。特別輸送艦(復員輸送船)となって、海外に取り残された将兵や邦人を内地に帰還させる復員輸送任務に就く事になったのである。「葛城」は、復員輸送船の中では最大の艦であり、空母としての広い格納庫や飛行甲板を活用し、海外に残留する多くの将兵や邦人を収容した。そして8回に渡る航海の後、実に49390名の復員者を輸送、無事に内地に送り届けた。そして、この復員輸送任務が、「葛城」にとっての最初で最後の任務となった。
全ての復員輸送任務を終えた「葛城」は、昭和21年(1946年)12月21日に大阪府の日立造船桜島工場で解体が開始され、昭和22年(1947年)11月30日に解体が完了、その短い生涯を終えた。この時、日立造船桜島工場では、日本海軍初の空母「鳳翔」の解体も行われており、奇しくも、日本海軍の最初の空母と最後の空母が同じ場所で最期を迎えたのである。
「葛城」の要目
<竣工時:昭和19年(1944年)>
基準排水量:17260トン
公試排水量:19880トン
満載排水量:22534トン
全長227.4m 水線長:223m 全幅:22m 喫水:7.76m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:10万4000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:32.ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機51機・補用2機(計画)
艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
偵察 常用6機 (艦上偵察機「彩雲」)
艦攻 常用27機 (艦上攻撃機機「流星」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾72発・250キロ爆弾240発
60キロ爆弾260発・30キロ爆弾144発・魚雷36本
着艦制動装置:空廠式三年式一〇型4基12索
着艦制止装置:空廠式三年式一〇型3基
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ三連装機銃21基63挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
二号一型電探2基・一号三型電探1基
乗員:1500名
<終戦時:昭和20年(1945年)>
基準排水量:17260トン
公試排水量:19880トン
満載排水量:22534トン
全長227.4m 水線長:223m 全幅:22m 喫水:7.76m
飛行甲板全長:216.9m 飛行甲板全幅:27m
主機:艦本式オールギヤードタービン4基
缶:ロ号艦本式重油専燃缶8基
出力:10万4000馬力
燃料:3670トン(重油)
最大速力:32.ノット
航続距離:18ノット・8000海里
搭載機数:常用機51機・補用2機(計画)
艦戦 常用18機・補用2機 (艦上戦闘機「烈風」)
偵察 常用6機 (艦上偵察機「彩雲」)
艦攻 常用27機 (艦上攻撃機機「流星」)
搭載航空兵装:800キロ爆弾72発・250キロ爆弾240発
60キロ爆弾260発・30キロ爆弾144発・魚雷36本
着艦制動装置:空廠式三年式一〇型4基12索
着艦制止装置:空廠式三年式一〇型3基
兵装:12.7センチ連装高角砲6基12門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ三連装機銃21基63挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ単装機銃30基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
12センチ28連装噴進砲6基168門
二号一型電探1基・二号二型電探1基・一号三型電探1基
乗員:1500名
参考文献
「日本空母と艦載機のすべて」
「葛城」の艦歴
昭和17年(1942年)12月8日:呉海軍工廠(広島県)で起工。
昭和19年(1944年)1月19日:呉海軍工廠(広島県)で進水。
昭和19年(1944年)8月15日:艤装員長として川畑正治大佐が着任。
昭和19年(1944年)10月15日:呉海軍工廠(広島県)で竣工。
佐世保鎮守府籍に編入。
初代艦長として川畑正治大佐が着任。
第三艦隊第一航空艦隊に編入。
昭和20年(1945年)2月4日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和20年(1945年)3月18日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和20年(1945年)3月19日:呉軍港外(広島県)で米軍機の空襲を受け爆弾1発命中。
昭和20年(1945年)4月1日:2代目艦長として平塚四郎大佐が着任。
昭和20年(1945年)4月20日:3代目艦長として宮崎俊男大佐が着任。
昭和20年(1945年)7月24日:呉軍港外(広島県)で米軍機の空襲を受け爆弾1発命中。
昭和20年(1945年)7月28日:呉軍港外(広島県)で米軍機の空襲を受け爆弾2発命中。
昭和20年(1945年)8月15日:中破したまま終戦を迎える。
昭和20年(1945年)10月20日:艦籍から除籍される。
昭和20年(1945年)12月1日~:特別輸送艦(復員輸送船)となる。復員輸送任務に従事。
昭和21年(1946年)12月21日:日立造船桜島工場(大阪府)で解体開始。
昭和22年(1947年)11月30日:日立造船桜島工場(大阪府)で解体完了。