「高埼」「瑞鳳」について
潜水母艦「高埼(たかさき)」は、大東亜戦争に於ける日本海軍の潜水母艦である。
その後、小型航空母艦(軽空母)への改造工事を受けて航空母艦「瑞鳳(ずいほう)」となった。
「高埼」は、昭和10年(1935年)6月20日に神奈川県の横須賀海軍工廠で高速給油艦として起工され、途中で潜水母艦に変更された。潜水母艦「高埼」は、戦時には空母への改造が可能な設計が成されており、建造途中に航空母艦への改造が決定、潜水母艦「高埼」として竣工する事無く、昭和15年(1940年)12月27日、航空母艦「瑞鳳」として竣工した。
日本海軍は、昭和5年(1930年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約によって空母の保有量に制限を受けていた為、平時は別艦種であるが、戦時には短期間で空母に改造出来る艦を整備する事になった。これに則り、昭和8年(1933年)に策定された第二次海軍軍備補充計画(②計画)に於いて、高速給油艦2隻(「剣埼」「高埼」)が計画され、後に潜水母艦へと艦種が変更された。
この剣埼型潜水母艦は空母への改造を前提とていた。即ち、艦体の上部構造物は、改造時に空母の格納庫になり、その平らな天井は飛行甲板として利用できる様になっていた。更に、予め昇降機(エレベーター)を装備し、艦橋の一部はそのまま空母の艦橋として使用する事を想定していた。そして、これらを秘匿する為、艦中央に偽(ダミー)煙突が設けられた。尚、同様の構想によって昭和8年(1933年)に起工した潜水母艦「大鯨」は、条約の制限を受けぬよう排水量10000トン以下としていたが、条約失効を見越して計画・設計された剣埼型潜水母艦では、排水量10000トンを越えていた。
「高埼」は、昭和10年(1935年)6月20日、神奈川県の横須賀海軍工廠で高速給油艦として起工された。その後、潜水母艦に艦種変更され、昭和11年(1936年)6月19日に進水、剣埼型潜水母艦の二番艦として艤装工事が行われていたが、その途中で航空母艦への改造が決定した為、潜水母艦「高埼」として竣工する間も無く、艦名も変更し、昭和15年(1940年)12月27日に航空母艦「瑞鳳」として竣工した。
尚、剣埼型潜水母艦の一番艦「剣埼」は、潜水母艦として竣工した後に空母に改造されて空母「祥鳳」となった。その為、竣工前に空母への改造工事が開始された二番艦「高埼」(後の「瑞鳳」)の方が空母として竣工するのが先であった。結果、祥鳳型軽空母二番艦「瑞鳳」が、一番艦「祥鳳」より先に竣工した。
航空母艦「瑞鳳」は、日本海軍で最初に竣工した改造空母となった。
竣工後の「瑞鳳」は、訓練及び南方と内地との航空機輸送任務に従事していたが、昭和17年(1942年)6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力正規空母4隻(「赤城」「加賀」 「蒼龍」「飛龍」)を喪失、軽空母「瑞鳳」も第一線の空母戦力としての役割が期待されるようになった。そして、昭和17年(1942年)10月には、僚艦「翔鶴」「瑞鶴」と共に南太平洋海戦に参加、米海軍の空母「ホーネット」を撃沈したものの飛行甲板に被弾して中破した。その後は、飛行隊を陸上基地に派遣して航空作戦を支援したが、その多くは再び還らなかった。この時期、日本海軍の航空戦力は日を追って減少していった。
昭和19年(1944年)6月、米海軍機動部隊は、日本が絶対国防圏と定めた中部太平洋の要衝マリアナ諸島に来襲、日本海軍は、米海軍機動部隊の撃滅を目指し、乾坤一擲の「あ」号作戦を発動、マリアナ諸島近海に於いて米海軍機動部隊を撃破して、一挙に戦局の打開を図ろうとした。この決戦に際し、日本海軍は新鋭の重装甲空母「大鳳」以下空母9隻・艦載機約450機を擁する第一機動艦隊を投入、「瑞鳳」も、「隼鷹」「飛鷹」と共に第一機動艦隊第二航空戦隊を編成し、一路決戦の海に馳せ参じた。
6月19日~20日、日米機動部隊最後の決戦となるマリアナ沖海戦が行われた。併しながら、圧倒的な兵力を誇る米海軍機動部隊に対し、数的にも技量的にも劣勢な日本海軍機動部隊は苦戦、空母3隻(「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」)と航空機多数を失い、2日間に渡る海戦によって日本海軍機動部隊は事実上壊滅した。
昭和19年(1944年)10月17日、米軍はフィリピン諸島に来襲、日本海軍はこれを迎撃する為に捷一号作戦を発動した。しかし、マリアナ沖海戦で機動部隊の壊滅した日本海軍連合艦隊は、既に有機的な戦闘能力を喪失、最早残された手段は残存艦艇の突入と航空機による体当たり攻撃(特別攻撃)しかなかった。
10月20日、航空母艦「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の4隻を主力とする第一機動艦隊は、日本海軍最後の機動部隊として内地を出撃した。しかし、搭載する艦載機は合計108機しかなく、実質的には米海軍機動部隊をひきつける為の囮艦隊であった。24日、第一機動艦隊から攻撃隊合計56機が発進、「瑞鳳」も 機を発進させたが、これが日本海軍機動部隊最後の攻撃隊となった。翌25日、第一機動艦隊は、フィリピン諸島北東に於いて米海軍機動部隊の猛攻を受けた。
「瑞鳳」は、旗艦「瑞鶴」に寄り添う様にして奮戦したが、6時間に渡る死闘の後、爆弾2発・魚雷2本を受けて満身創痍となった。右舷に大きく傾斜し、行き足も止まり、最期の時は刻一刻と迫っていた。遂に艦長の杉浦矩郎大佐は軍艦旗降下と総員退艦を下令、その後、艦体が切断して沈没していった。
時に昭和19年(1944年)10月25日15時27分、場所はフィリピン諸島北東の北緯 度 分・東経 度 分、「瑞鳳」と運命を共にしたのは 名(士官 名・下士官兵 名)であった。
「高埼」「瑞鳳」の要目
<計画時(潜水母艦「高埼」):昭和10年(1935年)>
基準排水量:トン
公試排水量:13350トン
満載排水量:トン
全長:205.5m 水線長:185.5m 全幅:m 喫水:6.68m
主機:艦本式一一号一〇型ディーゼルエンジン4基
艦本式一一号一二型ディーゼルエンジン4基
出力:56000馬力
燃料:1620トン(重油)・1870トン(補給用重油)
最大速力:28.7ノット
航続距離:18ノット・10000海里
搭載機数:常用機3機 (九四式水上偵察機)
射出機:呉式二号五型射出機1基
兵装:12.7センチ連装高角砲2基4門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
乗員:名
<竣工時(航空母艦「瑞鳳」):昭和16年(1941年)>
基準排水量:11200トン
公試排水量:13100トン
満載排水量:トン
全長:205.5m 水線長:212m 全幅:18.14m 喫水:6.64m(公試)
飛行甲板全長:180m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専焼水管缶4基
補助缶:ロ号艦本式重油専燃缶2基
出力:52000馬力
燃料:2320トン(重油)
最大速力:28ノット(計画)
航続距離:18ノット・7800海里
搭載機数:常用機28機(計画)
艦戦 常用10機 (九六式艦上戦闘機)
常用6機 (零式艦上戦闘機)
艦攻 常用12機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾 発・250キロ爆弾 発・60キロ爆弾 発・魚雷 本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ連装機銃4基8挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:792名
<改造時(航空母艦「瑞鳳」):昭和17年(1942年)>
基準排水量:11200トン
公試排水量:13100トン
満載排水量:トン
全長:205.5m 水線長:212m 全幅:18.14m 喫水:6.64m(公試)
飛行甲板全長:180m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専焼水管缶4基
補助缶:ロ号艦本式重油専燃缶2基
出力:52000馬力
燃料:2320トン(重油)
最大速力:28ノット
航続距離:18ノット・7800海里
搭載機数:常用機27機・補用3機
艦戦 常用18機・補用3機 (零式艦上戦闘機)
艦攻 常用9機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾 発・250キロ爆弾 発・60キロ爆弾 発・魚雷 本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ三連装機銃8基24挺 (九六式二十五粍高角機銃)
25ミリ連装機銃2基4挺 (九六式二十五粍高角機銃)
乗員:792名
<最終時(航空母艦「瑞鳳」):昭和19年(1944年)>
基準排水量:11200トン
公試排水量:13100トン
満載排水量:トン
全長:205.5m 水線長:212m 全幅:18.14m 喫水:6.64m(公試)
飛行甲板全長:195m 飛行甲板全幅:23m
主機:艦本式オールギヤードタービン2基
缶:ロ号艦本式重油専焼水管缶4基
補助缶:ロ号艦本式重油専燃缶2基
出力:52000馬力
燃料:2320トン(重油)
最大速力:28ノット
航続距離:18ノット・7800海里
搭載機数:常用機27機・補用3機
艦戦 常用18機・補用3機 (零式艦上戦闘機)
艦攻 常用9機 (九七式艦上攻撃機)
搭載航空兵装:800キロ爆弾 発・250キロ爆弾 発・60キロ爆弾 発・魚雷 本
兵装:12.7センチ連装高角砲4基8門 (四十口径八九式十二糎七高角砲)
25ミリ三連装機銃10基30挺 (九六式二十五粍高角機銃)
12センチ28連装噴進砲6基168門
乗員:909名
参考文献
「機動部隊」
「激闘マリアナ沖海戦 日米戦争・最後の大海空戦」
「空母瑞鶴 日米機動部隊最後の戦い」
「帝国海軍 空母大全」
「日本空母と艦載機のすべて」
「潜水艦入門 海底の王者徹底研究」
「高埼」「瑞鳳」の艦歴
昭和10年(1935年)06月20日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で高速給油艦として起工。
昭和11年(1936年)06月19日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で進水。
昭和13年(1938年)09月15日:潜水母艦への改造決定。艦種変更。
昭和15年(1940年)01月:横須賀海軍工廠(神奈川県)で空母への改造工事開始。
昭和15年(1940年)04月24日:初代艤装員長として江口松郎大佐が着任。
昭和15年(1940年)10月15日:2代目艤装員長として野元為輝大佐が着任。
昭和15年(1940年)11月15日:初代艦長として野元為輝大佐が着任。
昭和15年(1940年)12月15日:軍艦「瑞鳳」と命名。
昭和15年(1940年)12月27日:横須賀海軍工廠(神奈川県)で航空母艦として竣工。
佐世保鎮守府籍に編入。警備艦となる。
昭和15年(1940年)12月29日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和15年(1940年)12月31日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)03月11日:佐世保軍港(長崎県)を出港。以後、訓練に従事。
昭和16年(1941年)03月22日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)04月10日:第一艦隊第三航空戦隊に編入。
昭和16年(1941年)04月21日:佐世保軍港(長崎県)を出港。大分県佐伯湾で訓練に従事。
昭和16年(1941年)08月22日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)09月20日:2代目艦長として大林末雄大佐が着任。
昭和16年(1941年)10月12日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和16年(1941年)10月14日:高雄(台湾)に入港。
昭和16年(1941年)11月06日:高雄(台湾)を出港。
昭和16年(1941年)11月09日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和16年(1941年)11月15日:佐世保海軍工廠(長崎県)に入渠。
昭和16年(1941年)11月25日:佐世保海軍工廠(長崎県)を出渠。
昭和16年(1941年)11月28日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和16年(1941年)11月29日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和16年(1941年)12月08日:瀬戸内海西部柱島泊地を出港。ハワイ空襲部隊を支援。
昭和16年(1941年)12月13日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)02月13日:瀬戸内海西部柱島泊地を出港。
昭和17年(1942年)02月17日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和17年(1942年)02月17日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。航空機輸送任務に従事。
昭和17年(1942年)02月22日:フィリピン諸島南部ダバオに入港。
昭和17年(1942年)02月25日:フィリピン諸島南部ダバオを出港。
昭和17年(1942年)03月02日:瀬戸内海西部柱島泊地に入港。
昭和17年(1942年)04月01日:第一艦隊付属となる。
昭和17年(1942年)04月19日:呉軍港(広島県)を出港。
日本近海に接近した米軍艦隊を追跡。
昭和17年(1942年)04月23日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和17年(1942年)05月29日:瀬戸内海西部柱島泊地を出港。ミッドウェー環礁に向かう。
昭和17年(1942年)06月20日:第一艦隊第五航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)07月14日:第三艦隊第五航空戦隊に編入。
昭和17年(1942年)08月25日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和17年(1942年)08月26日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和17年(1942年)09月01日:呉軍港(広島県)を出港。トラック泊地に向かう。
昭和17年(1942年)09月06日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)09月10日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)09月23日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)09月25日:トラック泊地を出航。横須賀軍港(神奈川県)に向かう。
昭和17年(1942年)10月01日:横須賀軍港(神奈川県)を出航。
航空機輸送任務に従事。
ビスマルク諸島ラバウルに向かう。
昭和17年(1942年)10月11日:トラック泊地を出航。
ソロモン諸島ガダルカナル島北方に向かう。
昭和17年(1942年)10月26日:南太平洋海戦に参加。
米空母「ホーネット」を撃沈。
爆弾1発被弾、飛行甲板等を損傷。
昭和17年(1942年)10月28日:トラック泊地に入港。
昭和17年(1942年)11月02日:トラック泊地を出航。
昭和17年(1942年)11月02日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和17年(1942年)11月29日:佐世保海軍工廠(長崎県)に入渠。
昭和17年(1942年)12月05日:3代目艦長として山口文次郎大佐が着任。
昭和17年(1942年)12月16日:佐世保海軍工廠(長崎県)を出渠。
昭和17年(1942年)12月21日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和18年(1943年)01月18日:岩国沖(山口県)を出航。
昭和18年(1943年)01月23日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)01月31日:トラック泊地を出航。
ソロモン諸島ガダルカナル島の陸軍部隊撤退を支援。
昭和18年(1943年)02月09日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)02月18日~28日:飛行隊をウエワク(東部ニューギニア)に派遣。
昭和18年(1943年)03月02日~13日:飛行隊をビスマルク諸島カビエンに派遣。
昭和18年(1943年)04月01日~17日:「い」号作戦に参加。
飛行隊をビスマルク諸島ラバウルに派遣。
昭和18年(1943年)05月03日:トラック泊地を出航。
昭和18年(1943年)05月09日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和18年(1943年)05月16日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
昭和18年(1943年)05月21日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)06月02日:佐世保軍港(長崎県)に入港。
昭和18年(1943年)07月05日:4代目艦長として服部勝二大佐が着任。
昭和18年(1943年)07月09日:佐世保軍港(長崎県)を出港。
トラック泊地へ輸送任務に従事。
昭和18年(1943年)07月15日:トラック泊地に入港。
昭和18年(1943年)11月01日:「ろ」号作戦に参加。
飛行隊をビスマルク諸島ラバウルに派遣。
昭和18年(1943年)11月30日:トラック泊地を出港。
同行した艦艇は以下の通り。
空母「雲鷹」「冲鷹」・重巡「摩耶」
駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」
昭和18年(1943年)12月04日:同行していた空母「冲鷹」が米潜水艦の雷撃で撃沈される。
横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和18年(1943年)12月12日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和18年(1943年)12月17日:トラック泊地に入港。
昭和19年(1944年)01月14日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)01月09日:トラック泊地に入港。
昭和19年(1944年)02月01日:第三艦隊第三航空戦隊に編入。
昭和19年(1944年)02月10日:トラック泊地を出航。
昭和19年(1944年)02月15日:5代目艦長として杉浦矩郎大佐が着任。
昭和19年(1944年)02月16日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)03月11日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)03月22日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和19年(1944年)03月29日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
昭和19年(1944年)04月01日:グアム島に入港。
昭和19年(1944年)05月11日:大分県佐伯湾を出航。
昭和19年(1944年)05月16日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地に入港。
昭和19年(1944年)06月13日:フィリピン諸島南西部タウイタウイ泊地を出航。
「あ」号作戦発動により、マリアナ諸島西方に向かう。
昭和19年(1944年)06月14日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地に入港。
昭和19年(1944年)06月15日:フィリピン諸島中部ギマラス泊地を出航。
昭和19年(1944年)06月19日~20日:マリアナ沖海戦に参加
昭和19年(1944年)06月22日:沖縄本島中城湾に入港。
昭和19年(1944年)06月23日:沖縄本島中城湾を出航。
昭和19年(1944年)06月24日:瀬戸内海西部柱島泊地に回航。
昭和19年(1944年)07月22日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
昭和19年(1944年)07月26日:横須賀軍港(神奈川県)に入港。
昭和19年(1944年)07月29日:横須賀軍港(神奈川県)を出港。
東京都父島への輸送船団護衛任務に従事。
昭和19年(1944年)08月04日:呉軍港(広島県)に入港。
昭和19年(1944年)08月19日:呉海軍工廠(広島県)に入渠。
昭和19年(1944年)08月28日:呉海軍工廠(広島県)を出渠。
昭和19年(1944年)08月30日:呉軍港(広島県)を出港。
以後、瀬戸内海西部で訓練に従事。
昭和19年(1944年)10月20日:瀬戸内海西部柱島泊地を出航。
捷一号作戦発動により、フィリピン諸島東方に向かう。
昭和19年(1944年)10月24日:エンガノ岬沖海戦に参加。
昭和19年(1944年)10月25日:米軍艦載機の攻撃により魚雷2本・爆弾2発が命中。
フィリピン諸島東方で沈没。
昭和19年(1944年)12月20日:艦籍から除籍される。