「香港侵攻時資料」
昭和16年(1941)年12月8日の開戦と同時に日本陸軍第二三軍の各部隊は国境を突破して進撃を開始した。国境を越えて進軍する日本軍兵士である。
英軍のエンフィールド(Enfield)No.4ライフルである。エンフィールドは1895年から1958年まで改良を続けながら60年以上ものあいだ英陸軍の制式小銃であった。前級のタイプから大量生産向きに改良されたのがNo.4である。ボルトアクション方式で、先端には銃剣が付いている。
昭和時代前期、それまで拳銃は外国製のものなどからばらばらに調達していたが、国産拳銃に統一しようとして開発されたのがこの南部九四式自動拳銃である。当時の日本技術陣には小型自動拳銃のノウハウが全くなかったが、他国の技術を全く無視した日本独自の設計であった。なお、車両部隊等の兵卒や下士官には装備品として拳銃が支給された。
拳銃や軍刀は将校には支給されず、自費調達であった。
出征する兵士の家族が武運長久を願ったものであろうか。
九龍半島を占領した日本軍は、昭和16年(1941年)12月19日に香港島へ上陸して島北東部を確保した。しかし、香港島内の複雑な地形と堅固なトーチカ軍にはばまれ、戦闘は膠着状態なった。しかし、21日に日本軍は香港島のニコルソン山中に貯水池を発見し、香港市街への給水を停止したことがきっかけとなり、ついに25日にヤング香港総督とマルトビイ少将は白旗を掲げた。降伏交渉は日本軍が司令部を置いていた「ザ・ペニンシュラ香港」の3階で行われた。
「占領・撤退時資料」
香港から英軍を駆逐した日本軍は昭和17年(1942年)2月20日に香港占領地総督部を設置した。この木製の看板は総督部として使われた香港上海匯豊銀行の建物(九龍半島の中環)に設置されていたものである。この建物は既に取り壊され、現在はモダンな銀行本店ビルに建て替えられている。
日本軍による香港の占領後、中国軍はレジスタンス部隊を組織した。日本軍は、捕虜の救出やインフラの破壊、将校の暗殺などのレジスタンス活動に悩まされた。レジスタンス部隊が使用したドイツ製拳銃(ミリタリーモーゼル)と小銃の弾丸である。
昭和20年(1945年)8月15日、日本は連合国に無条件降伏し戦争は終結した。
同日、イギリスは香港統治の回復を宣言し、8月30日に英軍は再進駐した。9月16日、日本の代表とイギリス、中国の代表は、香港総督府において降伏文書の調印式を行った。
「INSTRUMENT OF SURRENDER」と題された降伏文書である。
日本軍の代表である陸軍少将岡田梅吉、海軍中将藤田類太郎と英軍の代表である海軍少将ハーコートの署名が読み取れる。