「香港海防博物館 」の展示内容

大東亜戦争における香港の歴史
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香港市街
香港市街の戦跡・見どころ一覧「香港歴史博物館」4000点の展示品と750枚のパネルにより、自然、民族文化、歴史が解説されている。400万年前の有史以前から平成9年(1997年)の返還まで香港の移り変わりを順に追うことができる。博物館の2階分...

「鯉魚門要塞概略」

カポニエールと呼ばれるタイプの防塁である。銃眼の開いたコンクリート壁の前に堀があり、ここに進入した敵兵を射撃できるように設計されている。

海岸から要塞に続く上り坂がある。坂を上りきったところには銃眼の開いたトーチカがあり、要塞への侵入を防ぐようになっているようである。

この建物跡は1910年に兵舎として建てられたものである。九龍半島を占領した日本軍は、鯉魚門海峡を渡りこの建物のある高台の下あたりに上陸を行った。この兵舎も防御陣地として利用された。

壁面にところどころ開いている穴はそのときの小銃や機銃弾、手榴弾の破片の跡である。

砲床が複数残されているが、その脇には地下に続く階段があり、弾薬庫が設けられている。

1894年に海岸沿いの崖をくりぬいて作られた魚雷発射所である。

世界初の魚雷はオーストリア海軍に1866年に開発され、当時はまだ黎明期であった。しかし、日露戦争における1905年の日本海海戦の夜戦において、日本水雷戦隊の魚雷がロシアの戦艦を撃沈するなど、急速に性能が上がっていた。ここは魚雷を格納するスペースであり、奥には石炭庫やボイラー室があった。

魚雷はこのスリットから海峡に向けて発射される仕組みとなっていた。この魚雷発射所は実戦で使われることはなかった。

「日本軍装備品」

「九九式短小銃」である。明治時代より日本軍では口径6.5mmの「三八式歩兵銃」を主力小銃として使用していた。しかし、6.5mm弾では致命傷を与えられず敵兵の戦列復帰が早いことが問題視され、日露戦争終結時あたりより口径7.7mmの本銃が開発された。

銃剣には、「三八式歩兵銃」に引き続いて 「三十年式銃剣」を採用している。

三十式銃剣
「三十式銃剣(30式銃剣)」とは「三十式銃剣(30式銃剣)」は明治後半(日露戦争)から第一次世界戦、支那事変、大東亜戦争全期間を通じて使用さた日本陸軍の銃剣である。銃剣とは銃剣とは、小銃などの小火器に装着して使用する刀剣を指す。主として、歩...

「十一年式軽機関銃」である。日本陸軍初の軽機関銃として大正11年(1922年)に制式採用された。攻撃的兵器として機関銃を運用するために、従来のものよりも大幅に小型化する必要があり、本銃が開発された。銃床が銃把部に連結しているスタイルが特徴的である。

十一年式軽機関銃
「十一年式軽機関銃 (11年式軽機関銃)」とは「十一年式軽機関銃」は支那事変から大東亜戦争にかけて使用され、日本陸軍が初めて制式採用した軽機関銃である。「軽機関銃」の登場所謂「機関銃」とは弾丸を連続発射する事が可能な銃器である。日露戦争(明...

十四年式拳銃である。大正14年(1925年)に陸軍に制式採用された。俗に南部十四年式拳銃と呼ばれる事もある。8mm南部弾を使用する自動式拳銃である。左側はホルスターである。重量は890gである。

二十六年式拳銃である。日本陸軍が明治26年(1893年)に制式とした国産回転式拳銃であり、日本で最初に無煙火薬を採用した火器でもある。口径は9mmで装弾数は6発である。回転式で故障も少ない二十六年式拳銃は1930年代後半に生産が終了したあとも、操作が容易で扱い易かったため大東亜戦争終結時まで使用された。

九四式拳銃である。昭和11年(1934年)に陸軍によって準制式化された。口径8mmで重量720gであり、小型であるのが特徴である。その小ささから将校、戦車兵、航空隊のほか落下傘部隊まで広く使用された。

陶器容器が使用された三式地雷である。大東亜戦争終の中期に連合国軍が磁気探知器を使用して金属を探知し、地雷除去を行っていることへの対策として開発された地雷である。当時、土管を作る際に一般で使用されていた素焼きの陶器を使用し、この陶製容器の上部にゴム被帽を取り付け、その内部に信管があった。直径27cm。およそ3kgの爆薬を内蔵していた。

日本陸軍大尉の制服である。

「英軍機関銃」

英軍のブレン軽機関銃(Bren Light Machine Gun)、通称ブレンガンである。1930年代から広く使用され、特に第二次世界大戦中、英軍とその同盟国軍で、歩兵部隊に欠かせない軽機関銃として作戦に多用された。その後も、朝鮮戦争、フォークランド戦争、湾岸戦争に至るまで使用され続けた。

英軍のステン短機関銃Mk.II型である。極限まで簡易化された単純設計の廉価なサブマシンガンであり、大量に生産されて連合国軍やレジスタンスの主力小火器として、第二次世界大戦を通じて用いられた。

「英軍重火器」

英軍のQF 25ポンド砲(Ordnance QF 25 Pounder)Mk.IIである。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期にイギリスが開発した野砲/榴弾砲兼用の野戦砲であり、一般には25ポンド野砲とも呼ばれる。口径は87.6mmである。徹甲弾を使用すれば対戦車砲としても使えたが、多くは歩兵や戦車部隊の火力支援として使用された。

砲架は射撃時にターンテーブルに乗せてワイヤーで接続すれば、手動で360°全周囲旋回を行うことが可能であった。

英軍コメット巡航戦車Mk.Ⅰである。

北アフリカ戦線でドイツのティーガーI重戦車に遭遇し、またIV号戦車の火力も強化されて苦戦した英軍は、従来の巡航戦車やアメリカからレンドリースされていたM4シャーマン戦車の力不足を痛感し、国産戦車の開発を進めた。主砲の口径は77mmであり、装甲は実に102mmの厚さを誇る。

量産型が軍に引き渡されたのは1944年9月であり、実戦投入は終戦も間近い1945年3月であった。

副武装の7.92mm Besa機関銃2丁が主砲の左右に配置されている。

クリスティー式サスペンションという大型の接地転輪の一つ一つを、二重構造の車体側面に収納したコイルスプリングで独立懸架させたものを装備しており、路外機動性に優れていた。
上部支持用の小型転輪も見ることができる。

英軍のサラセン装甲車Mk.IIである。6輪式装甲兵員輸送車であり、1952年から量産が開始された。

英軍のフェレット装甲車Mk.IIである。偵察用に設計しされた装輪装甲車である。1952年から製造が開始されている。

英軍のボフォース40mm機関砲である。

1930年代初頭にスウェーデンのボフォース社が開発した対空機関砲。盛んに各国に輸出され、イギリスやアメリカでもライセンス生産された。

仰角は-5度から90度であり、最大射程は7200mである。

大東亜戦争遺跡
「大東亜戦争遺跡」について「大東亜戦争全史」と並び、本サイトのメインコンテンツです。日本国内や東アジア・中部太平洋方面には、大東亜戦争に関する遺跡・遺物が多数遺されています。それらは、かつて戦闘が行われた場所であったり、当時の兵器類であった...
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中華人民共和国は世界1位の人口13億3630万人(2008年)を擁する。漢民族が92%と大多数を占め、55の少数民族が残りの8%を占める。面積は約960万平方キロメートルとロシア、カナダについで第3位であり、日本の約25倍である。国土が広く...
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