ハワイ空襲(開戦劈頭に於ける海軍作戦)

ハワイ作戦(真珠湾攻撃):昭和16年(1941年)12月8日

作戦構想

米国領ハワイ諸島オアフ島真珠湾には明治41年以降米海基地が建設され、同基地を母港とする米海軍太平洋艦隊は日本にとって大きな脅威であった。明治時代以降日本海軍の仮想敵国は米国であり、その基本戦略は漸減撃滅作戦であった。即ち、ハワイ諸島より侵攻してくるであろう米艦隊を潜水艦・航空機で攻撃して漸次その戦力を弱めた後、日本近海で主力艦による艦隊決戦を行って雌雄を決するというものであった。日本海軍はこの戦略にしたがって軍備・訓練を重ねていた。

併しながら、昭和14年8月連合艦隊司令長官に就任した山本五十六大将は対米開戦となった場合、開戦劈頭、航空機によって真珠湾の米海軍太平洋艦隊を空襲し、主力艦を無力化できないかと考えた。これには「開戦劈頭に米海軍太平洋艦隊の主力を撃滅、太平洋方面の脅威を取り除いて南方作戦を円滑に進める」「米国民の戦意を挫いて早期の講和による戦争終結に繋げる」という狙いがあったと言われている。

作戦の問題点・訓練と新技術

昭和16年1月、山本長官は第十一航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に作戦構想を伝え、作戦立案を依頼。大西少将は第一航空艦隊航空参謀であった源田実中佐に詳細な研究を命じた。その結果、いくつかの問題点が明らかになった。

①艦船攻撃には魚雷が最も効果的である。しかし当時の航空魚雷は航空機から投下後、一旦50メートル以上沈んでから調定深度に浮上して自走し始める。また目標から1000メートル以上手前から投下するのが一般的であった。これに対し真珠湾の水深は12メートル。従来の雷撃では魚雷は全て海底に突き刺さってしまう。更に真珠湾は狭い為、目標の500メートル前後から雷撃する必要があった。
②当時日本海軍の保有空母は正規空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)・軽空母2隻(龍驤・鳳翔)であり、ハワイ空襲に空母をさいた場合、開戦と同時に実施される予定の南方作戦が手薄になる。
③日本本土からハワイ諸島まで3500海里(6000㌔)あり、途中第三国の船舶との遭遇や北太平洋の荒天の為、行動の秘匿・燃料の補給等が困難である。
④当時、大規模な航空作戦の実施例は無く、航空機による艦船攻撃の成否も未知数であり、作戦自体が非常に投機的である。

上記問題点に関し、

①投下後の走行安定性を安定させた愛甲魚雷を航空技術廠が改良、木製の安定版の装着やジャイロによって空中姿勢の安定させた九一式航空魚雷改二型及び改三型を開発した。更に、鹿児島県鹿児島湾を真珠湾に見立てた猛烈な雷撃訓練を行い、これにより浅深度雷撃の目処がついた。
②昭和16年8月空母「翔鶴」、9月空母「翔鶴」が相次いで就役。日本海軍の保有する正規空母は6隻になった。
③④作戦自体の投機性に関しては如何ともし難く、昭和16年9月、海軍大学校で行われた軍令部図上演習では攻撃側の日本機動部隊が大損害を被る結果となり、作戦反対を唱える軍令部と作戦推進を唱える山本長官以下連合艦隊司令部との対立は深まった。

結局、軍令部の主張と連合艦隊司令部の主張とは平行線を辿り、ハワイ作戦実施は頓挫するかに見えた。これに対し山本長官は「本作戦が採用されなければ連合艦隊司令長官の職を辞する」と迫り、これを受けた軍令部総長、永野修身大将は渋々作戦実施を認可したと言われている。またハワイ作戦には日本海軍が保有する全空母6隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・翔鶴)が参加することが決定した。

機動部隊の集結と移動

昭和16年11月22日、択捉島単冠湾にハワイ作戦参加艦艇が集結。26日、艦隊は一斉にハワイ諸島に向けて出航した。参加艦艇は空母6隻・戦艦2隻・巡洋艦3隻・駆逐艦9隻・艦載機350機であった。
ハワイ諸島までのは片道3500海里(6000㌔)。しかも太平洋北方航路はこの時期時化がひどく、途中の補給が危ぶまれた。11月22日、択捉島を出撃したハワイ作戦参加の機動部隊は12月1日、東経180度を超えて西半球に入った。2日、第三国の船舶と遭遇したが通報されることも無く、無事に行程の半分を過ぎようとしていた。

12月2日、遂に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文を受信。これは日米開戦決定を意味する電文であり、開戦決定の場合には12月8日が開戦日と予め決められていた。機動部隊は更に進撃を続け、7日、最後の燃料補給を行い、油槽船団を切り離した。機動部隊は増速し、8日、北緯26度1分・西経157度1分、ハワイ諸島北方230海里(460㌔)地点に到達。各空母艦内では艦載機の燃弾搭載が済み、発艦準備が整いつつあった。旗艦「赤城」のマストには信号旗「Z旗」が翻る。その意味は「皇国の荒廃、係りて此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。」

攻撃隊の発進

航空母艦「赤城」から発艦する「零式艦上戦闘機二一型」(昭和16年12月8日)

12月8日午前1時30分(現地7日午前6時)、機動部隊各空母から第一次攻撃隊が発艦を開始。気温22度、日の出26分前の東の空はようやく白んでいた。波は高く、各空母とも激しく揺れていたが15分間で183機が発艦を完了。艦隊上空で編隊を組むと一路オアフ島を目指した。第一次攻撃隊発艦後、機動部隊は更に南下し、午前2時45分(現地午前7時15分)ハワイ諸島北方200海里地点に於いて、第二次攻撃隊167機が発艦した。

真珠湾を空襲

第一次攻撃隊(攻撃隊指揮官淵田美津雄中佐)は183機、水平爆撃隊49機・雷撃隊40機・急降下爆撃隊51機・制空隊43機。第二次攻撃隊(攻撃隊指揮官島崎重和中少佐)は167機、水平爆撃隊54機・急降下爆撃隊78機・制空隊35機。攻撃隊総指揮官は淵田中佐。現地午前7時45分(以下現地時間)、第一次攻撃隊先頭の淵田総指揮官機はオアフ島北端から西海岸沿いに飛行。淵田中佐は同乗の電信員水木徳信一飛曹に「ト」連送のモールス信号発進を命じた。「全軍突撃せよ」の信号である。午前7時52分、真珠湾を目視した淵田中佐は水木一飛曹に「トラ」連送を命令。「トラ・トラ・トラ・・」(われ奇襲に成功せり)の信号は広島湾柱島泊地に停泊する戦艦「長門」艦上の連合艦隊司令部、東京の軍令部でも受信された。

午前7時55分、急降下爆撃隊によって真珠湾内フォード島水上基地に日米開戦第一弾が投弾された。雷撃隊の発射した魚雷は真珠湾内に停泊する米海軍太平洋艦隊の戦艦群に次々と命中。さらに水平爆撃隊の投下した八〇番五号爆弾(800㎏)は戦艦群に次々と命中。特に弾薬庫に命中弾を受けた戦艦「アリゾナ」は大爆発を起こして船体が二つに断裂、わずか9分間で沈没した。オアフ島各地の飛行場も次々に爆撃を受け、殆どの米軍機は地上で破壊された。僅かに迎撃に上がった米軍戦闘機も、制空隊によって撃墜された。第一次攻撃隊の攻撃は午前8時25分頃終了。更に午前8時49分、オアフ島東海岸から侵入した第二次攻撃隊が攻撃を開始し、午前9時45分に終了した。

日本軍の戦果と損害

攻撃隊総指揮官の淵田中佐は最後まで真珠湾上空を旋回して攻撃を見守り、第二次攻撃隊と共に帰還した。午前9時56分から第一次攻撃隊が、午前11時30分から第二次攻撃隊が各空母に着艦を開始し、午後1時には攻撃隊の収容を完了した。日本攻撃隊の被害は戦闘機9機・艦上爆撃機15機・艦上攻撃機5機が未帰還となり、搭乗員55人が戦死した。また、特殊潜航艇は5隻全部がが未帰還、乗組員9人が戦死(1名は人事不承で捕虜)した。

米軍の損害

米海軍太平洋艦隊は戦艦5隻・軽巡洋艦1隻・その他2隻が沈没。戦艦2隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦1隻・その他2隻が大中破。戦艦1隻・重巡洋艦1隻・軽巡洋艦1隻・その他1隻が小破した。また、海軍機・陸軍機合計479機の航空機が破壊された。人的損害は戦死・行方不明者2404人・負傷者1627人にのぼった。