シンガポール攻略

(昭和17年2月9日~15日)

シンガポールへの道(昭和16年12月8日~昭和17年1月31日)

昭和16年12月8日深夜、大東亜戦争開戦に伴い、日本軍がコタバル(英領マレー)、シンゴラ・パタニ(タイ)に上陸する。マレー半島に上陸した日本軍には多数の戦車・装甲車・トラックが配備されていた。更に歩兵も自転車を使用して進撃した(「銀輪部隊」)。これら機械化された部隊により、一日数10キロから100キロという進撃速度で南進を開始、マレー半島南端のシンガポールを目指した。

クアラルンプールに突入する日本軍

12月11日~12日、日本軍は英領マレー北部の英軍陣地(ジットラライン)を突破。昭和17年1月3日、日本軍はマレー半島中部の要衝カンパルを占領。6日~8日、日本軍が戦車によってトロラク~スリム~スリムリバーを急襲、スリム周辺の英軍陣地が突破され、守備の英軍が壊滅。結果、英軍はクアラルンプールの放棄を決定。12日、日本軍がマレー半島の要衝クアラルンプールを占領した。

マレー半島を守備する英軍は、半島各地に陣地を構築していた。これに対して、日本軍は機械化された部隊が電撃的な攻撃によって次々と英軍陣地を突破していった。英軍は橋梁や道路を破壊しながら後退したが、日本軍は工兵による橋梁や道路の修理と、速やかな進撃にって英軍を次々と捕捉・撃滅していった。

英軍が橋を爆破したジョホール水道

1月中旬、英軍は半島南部ジョホール州に後退し、南下する日本軍との間に激戦が展開された。一部英軍は善戦するが、日本軍は次第に英軍を圧迫、27日、英軍はシンガポールへの後退を決定。戦線はマレー半島最南端のジョホールバルに迫った。31日、遂に日本軍がマレー半島最南端のジョホールバルに突入、英軍はジョホール水道橋を爆破してシンガポールに撤退した。

ジョホールバルに集結した日本軍は陸軍第二五軍(第五師団・近衛師団・第十八師団)約50000人、マレー半島上陸からジョホールバルまでの1100キロを55日間で突破したのである。この間英軍は4個旅団が壊滅していた。

シンガポールの英軍守備状況

守備兵力 約85000人(戦闘員約70000人)
    インド第三軍(戦力化可能はインド1個大隊)
    豪第8師団(戦力化可能は豪4個大隊、機関銃2個中隊)
    英第18師団(中近東方面から1月31日到着、砂漠戦の訓練のみ、長期の海上輸送により休養必要)
       第53旅団(H・スミス少将)・第135連隊・第85対戦車連隊・第6対空砲中隊・第35対空砲中隊       
       ハリケーン戦闘機51機(パイロット24人、2月5日までに空襲により大部分破壊)
   
    火砲 合計600門以上
        要塞砲 15インチ砲:5門 9.2インチ砲:6門 6インチ砲:16門
        高射砲 150門 その他(75ミリ歩平砲・25ポンド山砲・4.5センチ曲射砲・対戦車砲・野砲)

守備配置
   シンガポール北東部:英第18師団・インド第11師団
   シンガポール北西部:豪第8師団・インド第44旅団

日本軍の上陸準備(昭和17年2月3日~8日)

昭和17年1月31日、クルアンの第二五軍司令部(山下奉文中将)は各師団長(第五師団・近衛師団・第十八師団)にを示達した。山下中将は、正面突破よる正攻法によってシンガポール攻略を実施したいと考えていた。併しながら、第二五軍は後続の第十八師団が到着しつつあったものの、主力の第五師団・近衛師団の一部は既にマレー半島攻略で疲れ果てており、また、上陸支援に必要な砲弾の輸送も十分ではなかった。更に、シンガポール攻略後、近衛師団はスマトラ方面(蘭印)、第十八師団はビルマ方面への転用が予定されており、第二五軍の航空支援兵力である陸軍第三飛行集団は2月14日からパレンバン(蘭印)攻撃への転用が決定していた。

そこで、第二五軍の上陸準備は慎重を極め、「シンガポール攻略計画」では上陸準備期間は行動・企図の隠蔽に努めて、上陸地点を英軍に悟られないようにする事が強調された。シンガポール北西岸へ主力(第五師団・第十八師団)が上陸を予定していた為、シンガポール北西岸では部隊の行動を秘匿し、シンガポール北東岸では英軍の注意をひきつける陽動を実施する事になった。

尚、シンガポール攻略に於ける日本軍の参加兵力は以下の通りであった。

   第二五軍
      第五師団
      第十八師団(シンガポール攻撃直前に全兵力が揃う)
      近衛師団(第三連隊は第三大隊以外未着、1月18日にジョホールバル到着)
      野戦重砲兵第三連隊(1月下旬到着)
        火砲 440門(大、中口径 168門)
        砲弾 各砲1500~2000発を用意、平均2/3を集積可能
            予定消費数(各砲) ①上陸準備期間:300発 ②渡河準備:800発 ③ブキテマ高地奪取:500発 ④その後の戦闘:300発
      上陸用舟艇:折畳舟艇300・門橋32・小発30         
      (フィリピン方面第十四軍に増援)
      24センチ榴弾砲一個連隊(野戦重砲兵第十八連隊?)、独立山砲兵第三連隊  
   第三飛行集団(一部は2月14日からのパレンバン攻撃に転用)
         戦闘機・爆撃機・偵察機 162機

日本陸軍九九式襲撃機

昭和17年2月3日、日本軍の航空隊・砲兵がシンガポールの飛行場・主要施設への砲爆撃を開始する。ジョホールバルの砲兵隊はシンガポール島北部と北西部を守備する英軍に対し上陸前の準備砲撃開始。

九九式襲撃機発動機欧州でドイツとの戦いに手一杯だった英軍は少数の旧式機しか配備しておらず、日本軍が常に制空権を取っていた。

2月7日夜、近衛師団の小部隊400人がジョホール水道東部のウビン島に上陸。8日、近衛師団の砲兵52門(野砲36門・連隊砲12・重砲4門)がウビン島対岸の英軍チャンギー要塞への砲撃を開始した。これら一連の動きは英軍の注意をシンガポール北東岸にひきつける為の陽動であった。

日本軍の上陸(昭和17年2月9日~11日)

昭和17年2月9日0時(現地8日22時30分)、ジョホール水道北側高地の日本軍砲兵(440門)が砲撃を開始。日本軍の第一次上陸部隊4000人(第五師団・第十八師団)が舟艇300隻に分乗し、対岸のシンガポール北西部サリンブン海岸を目指して発進した。9日0時10分(現地8日22時40分)、日本軍の第一次上陸部隊が上陸に成功。直ちに内陸への進撃を開始した。シンガポール北西部は豪第22旅団(豪第8師団)が守備しており、日本軍上陸地点には豪第22旅団の2個大隊(第18連隊第2大隊・第19連隊第2大隊)が展開していたが、9日1時30分(現地9日0時)、これら2個大隊はテンガー飛行場まで後退する。9日朝までに第五師団・第十八師団は三次に渡って揚陸を実施、テンガー飛行場を占領した。豪第22旅団はクランジ・ジュロン戦線まで後退する。

2月9日夜、近衛師団が豪第27旅団の守備するシンガポール島北西部クランジ海岸に上陸した。豪軍は重油をジョホール水道に流し、近衛師団は混乱に陥った。防衛戦は成功していたが、「やむを得ない場合のみ後退せよ」という英軍パーシバル司令官の命令を誤って解釈した豪第27旅団はクランジから撤退し、英軍はクランジ・ジュロン戦線を突破される。日本軍はクランジを占領したことにより、戦車の揚陸が可能になった。日本軍戦車がブキパンジャンの英軍の防御陣地を突破した。

島内での戦闘(昭和17年2月12日~15日)

2月10日、第五師団が北側、第十八師団が南側からシンガポール島中央部ブキテマ高地に進出、ブキテマ高地を守備するインド第15旅団・豪第22旅団と激戦が展開された。10日夜、第五師団・第十八師団は夜襲によってブキテマ高地に突入、日本軍・英軍入り乱れての激戦が終日繰り返された。英軍は北部の英第18師団の2個大隊(第5ベッドフォードシャー大隊・第5ハートフォードシャー大隊)をブキテマ高地に増援。インド第44旅団、第1マレー旅団と共同してブキテマ高地東南から日本軍に反撃を実施した。戦線はマンダイ、ブキパジャン付近まで移動し、11日夜、遂に第五師団・第十八師団がブキテマ高地を占領した。インド第15旅団・豪第22旅団は多数の死傷者を出して撤退した。更に、ブキテマ高地北側から前進した近衛師団がピアス・マクリッチー両貯水池(ブキテマ高地東方)に迫っていた。

2月12日、第十八師団は市街地西側のパシルパンジャンまで進出し、インド第44旅団・第1マレー旅団との間で激戦となった。英軍パーシバル司令官は保有戦力の全てを28マイル防衛線より後方まで後退させることを決定する。

2月12日以降、日本軍がシンガポール市街に迫っていた。第十八師団は南西のパシルパンジャン方面からケッペル港を目指し、第五師団は中央からブキテマ街道を南下していた。更に、近衛師団が北から貯水池を制圧し、シンガポール市街地郊外に前進していた。シンガポール市街は三方から日本軍が迫っていた。14日、修復されたジョホール水道橋から日本軍の重砲が進出してきていた。

英軍の降伏(昭和17年2月15日)

昭和17年2月15日11時(現地9時30分)、英軍パーシバル司令官はカニング兵営内の会議で降伏を決定した。
2月15日15時30分過ぎ(現地14時過ぎ)、ブキテマ街道の第五師団正面に英軍軍使(C・ニュービギン少将他)が到着。英軍パーシバル司令官はシンガポール市庁舎での停戦交渉を提案したが、これに対して山下中将は杉田一次少佐(第二五軍情報参謀)を英軍に派遣し、英軍パーシバル司令官の出頭を求めた。

2月15日19時(現地17時30分)、ブキテマ三叉路北方フォード自動車工場に於いて、日本軍・英軍首脳による停戦交渉が開始された。

停戦交渉の様子(当時)

停戦交渉参加者

日本軍
第二五軍軍司令官 山下奉文中将
第二五軍参謀長 鈴木宗作少将
第二五軍参謀副 長馬奈木敬信少将
第二五軍参謀(第一課長)池谷半二郎大佐
第二五軍参謀(第二課長)山津舟部助大佐
第二五軍参謀(情報主任)杉田一次中佐
大本営参謀 岡村誠文中佐
海軍参謀 永井太郎中佐
南方軍参謀 藤原岩市少佐
南方軍参謀 鹿見島隆少佐
参謀 林忠彦少佐

英軍
司令官 パーシバル中将
参謀 トランス少将
参謀 ニュービギン少将
通訳 ワイルド少佐

停戦交渉では以下のようなやり取りが行われた。

山下        先に軍使に渡した要求事項を見たか。
パーシバル   見た
山下        それを詳しくしたものがここにある。実行してもらいたい。
パーシバル   (別紙に目を通し)市内は混乱しているので1000名の武装兵を残置願いたい。
山下        日本軍が進駐して治安は維持するから心配ない。
パーシバル   英軍はシンガポールの事情をしっているから1000名の武装兵を有したい。
           非戦闘員もいるし、市内では略奪が起こる。
山下        武士道精神をもって日本軍が保護するので安心願いたい。
パーシバル   (時間的)空白ができると混乱が生じる。英・日両軍のために好ましくない。
山下        日本軍は目下攻撃を続行中である。夜に入っても攻撃するようにしている。
パーシバル   夜間攻撃は待って欲しい。
山下        話し合いがつかなければ攻撃は続行される。
パーシバル   1000名の武装兵はそのままにしたい。
山下        (池谷作戦参謀に向かって)夜襲の時刻は?
池谷参謀     2000(20時)の予定です。
パーシバル   夜襲は困る。
山下        貴軍は降伏するつもりか?
パーシバル   (しばらく考えて)停戦したい。
山下        貴軍は降伏するのかどうか、「イエス」か「ノー」で返答せよ。(Yes or No ?)
パーシバル    「イエス」 1000名の武装兵は認めてもらいたい。
山下        (あっさりと)それはよろしい。
杉田参謀     武装兵の配置は「当分の間」と了解されたい。

この後、英軍パーシバル司令官は降伏文書に調印した。2月15日22時(現地20時30分)、シンガポールの英軍は降伏し、日本軍はシンガポール占領をしたのである。尚、後にこの停戦交渉に於いて山下中将が英軍パーシバル司令官に対して威圧的な態度で接し、「Yes or No ?」と恫喝して降伏を迫ったかの様に報道された。併しながら、実際は山下中将には相手を恫喝する意図はなく、日本軍も疲労や弾薬不足で危機的な状況にあった為、自軍の窮状を知る身として少しでも早く停戦して損害を抑えたいという意向があった。結果として威圧的な態度もとったが、それは寧ろ交渉に於ける芝居であり、勝者が敗者をなぶる様な意図は全くなかったのである。
後に山下中将自身もかつての副官であった山内俊太郎大尉に次の様に語っている。

(以下、山内俊太郎大尉談)
「閣下(山下中将)に、水師営(日露戦争当時の203高地での停戦交渉)のように、もうちっとおとなしゅうやれんかったとですかと質問すると、閣下は、いやあ、新聞は勝手なことを書きおるとおっしゃったあとで、あのときはこっちの歩兵砲はタマが3発しかなかった。このさい、なんとか降伏させにゃならんと思って、最後は威圧でやった、とおっしゃとりました。」

「シンガポール攻略の戦果」
日本軍の損害 
    戦死1714人・戦傷3378人
    (マレー半島攻略全体)
    戦死3507人・戦傷6150人

英軍の損害 
    死傷者8000人以下・捕虜130000人以上
      (英軍38496人・豪軍18490人・インド軍67340人・マレー義勇軍14382人)

日本軍の捕獲兵器 
    各種火砲740門
    乗用車・トラック:約10000輌
    機関車・貨車:約1000輌
    戦車・装甲車:約200輌
    飛行機:10機
    重軽機関銃:2500挺以上
    小銃:約60000挺
    小銃弾:3360000発

日本軍占領後のシンガポール(昭和17年2月17日~)

昭和17年2月17日、日本占領下のシンガポールは昭南島と改名され、以降皇民化政策がとられる。

昭和20年9月5日、日本の敗戦を受け、英軍が再びシンガポール島を占領する。

1957年にマラヤ連邦がイギリスより独立し、1965年にシンガポールはマレーシアから独立する。