ガダルカナル島攻防戦

(昭和17年7月~昭和18年2月)

背景

「ミッドウェー海戦」の1ヵ月後、昭和17年7月6日、日本軍の設営隊がソロモン諸島ガダルカナル島に上陸、ジャングルを切り開いて飛行場建設を開始した。日本軍は「ミッドウェー海戦」で正規空母4隻を失ったが、第二段作戦の目的である米豪遮断構想は放棄されていなかった。日本軍はガダルカナル島に建設中の飛行場を中継基地としてフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島を攻略しようとしたのである。飛行場完成を8月と見込み、9月中旬からフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島攻略を実施する予定であった。同様に東部ニューギニアに於いても「珊瑚海海戦」(昭和17年5月7日~8日)によって海路からのポートモレスビー攻略は断念したものの、東部ニューギニアの山間部(オーエンスタンレー山脈)を越える陸路からのポートモレスビー攻略が計画された。

この頃米国の目下の主目的は欧州戦線であり、兵力・資材とも欧州に優先的に配分されていたが、太平洋戦線に於ける米国の戦争指導は俄かに活発化していた。米軍は「ミッドウェー海戦」で正規空母1隻を失ったもののも、東太平洋方面の脅威を取り除く事が出来たのである。併しながら、南太平洋方面では日本軍が東部ニューギニアのポートモレスビーに迫り、ソロモン諸島を窺っていた。そこで米軍はソロモン諸島方面での反攻作戦(「ウオッチタワー作戦」)を計画した。ソロモン諸島を確保することで豪州との連絡線を保持し、今後の日本に対する攻勢の足掛かりにしようとしたのである。さらに東部ニューギニアに於いても航空兵力を強化、豪州軍と協力して日本軍と対峙していた。こうして大東亜戦争は南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)を舞台にして日米が真っ向から激突する事となった。

ガダルカナル島の飛行場建設(昭和17年7月)

第二段作戦の目的は米豪遮断であり、ミッドウェー島・アリューシャン列島攻略後の次なる目標はフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島攻略であった。その為の中継基地として日本軍が注目したのがソロモン諸島ガダルカナル島である。ガダルカナル島はラバウル南東約600海里(1100㌔)に位置し、大きさは東西160㌔・南北55㌔、北部のルンガ川の辺には平地があり、ソロモン諸島で飛行場建設可能な数少ない島である。ところが、日本軍は「ミッドウェー海戦」(昭和17年6月5日~7日)によって正規空母4隻沈没・航空機多数喪失という大敗北を喫した。この結果、日本軍はこれまでのような空母を中心とした艦隊(機動部隊)による積極攻勢が困難になり、以後の作戦計画も延期せざるを得なかった。併しながら、米豪遮断構想が放棄されることは無く、引き続きソロモン諸島ガダルカナル島に飛行場を建設し、基地航空隊の支援の元にフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島攻略を目指す事になった。

昭和17年7月6日、日本海軍の設営隊がガダルカナル島に上陸。飛行場の建設を開始した。当時の日本軍の土木能力は低く、人海戦術によってジャングルを切り開いていた。飛行場の完成予定は8月、9月中旬からフィジー・サモア・ニューカレドニア諸島攻略を開始する予定であった。ところが、早くも日本軍の飛行場建設は米軍に察知されていた。米軍にとってもソロモン諸島の確保は重要であり、航空偵察やガダルカナル島に潜伏する沿岸監視員から日本軍の作業状況は逐一報告されていたのである。

また、日本陸軍も南太平洋方面(東部ニューギニア・ソロモン諸島)を担当する陸軍第十七軍を編成。当時連合軍の拠点として航空基地のあった東部ニューギニア南岸の要衝ポートモレスビーの攻略を計画する。「珊瑚海海戦」によって海路からのポートモレスビー攻略は断念されたが、陸路によるポートモレスビー攻略を決定。陸軍第十七軍の指揮下に入った陸軍南海支隊がポートモレスビー攻略作戦(「レ号作戦」)を担当する事になった。7月21日、陸軍南海支隊の先遣隊が東部ニューギニア北岸ギルワに上陸、一路ポートモレスビー目指して山間部(オーエンスタンレー山脈)の進撃を開始する。

7月31日、正規空母3隻を含む60隻の米・豪海軍艦艇に護衛された31隻の米軍輸送船がフィジー諸島を一斉に出航、一路ガダルカナル島に向かっていた。米軍輸送船にはガダルカナル島攻略を目的とする米海兵隊19000人が乗っていた。

米軍のガダルカナル島上陸と日本軍の反撃(昭和17年8月)

昭和17年8月7日早朝、米軍は艦砲射撃と空爆の後、ガダルカナル島と対岸のツラギ島に上陸を開始した。日本軍にとっては完全に奇襲となった。武器を持たない設営隊が殆どのガダルカナル島では米軍海兵隊が瞬く間に飛行場を占領。日本軍は辛うじてジャングルに退避した。ツラギ島の日本軍は頑強に抵抗したが衆寡敵せず全滅、米軍はツラギ島も占領した。

米軍のガダルカナル島上陸の報に接した日本軍は直ちに反撃を開始。8月7日~8日、ラバウルの日本海軍航空隊は戦闘機・攻撃機でガダルカナル島近海の米軍艦船を攻撃した。併しながら、日本軍機の多くが未帰還となり、米軍艦艇に大きな損害を与えることは出来なかった。ラバウルからガダルカナル島までの600海里(1100㌔)はあまりにも遠く、日本軍は護衛の戦闘機がやっと往復できるだけで、効果的な攻撃を行う事が出来なかった。また途中の島には連合軍の沿岸監視員が潜んでおり、日本軍機の攻撃は事前にガダルカナル島の米軍に通報されていたのである。しかし米軍もまた多くの不安を抱えていた。特に7日~8日の日本軍機攻撃の結果、正規空母3隻を含む米軍艦隊は更なる日本軍機の攻撃を警戒し、8日午後、ガダルカナル島近海から撤収してしまったのである。ガダルカナル島近海には少数の米軍艦隊と未揚陸物資を搭載した輸送船多数が残っていた。この時、日本軍艦隊が一路ガダルカナル島目指して南下しつつあった。8日深夜、夜襲を得意とする日本軍艦隊は米軍艦隊を奇襲し「第一次ソロモン沖海戦」が発生した。海戦は日本軍の一方的な勝利に終わり米軍は多数の艦艇を喪失した。しかし、日本軍艦隊は海戦後直ちに反転、米軍輸送船は日本軍の攻撃を免れる事が出来た。

ガダルカナル島に近いラバウルの日本軍は米軍に対して速やかな反撃を行ったが、依然としてガダルカナル島の飛行場は米軍に占領されたままであった。連合艦隊(海軍)はこの事態を重視し、直ちに飛行場を奪還すべく艦隊主力をトラック諸島に向かわせた。併しながら日本の参謀本部(陸軍)・軍令部(海軍)は事態をあまり重視していなかった。当初の見込「連合国の国力は強大だが、戦争の準備は出来ておらず、反攻は昭和18年以降である」に基づき、今回の米軍のガダルカナル島上陸は強行偵察程度であり、初期の空襲と「第一次ソロモン沖海戦」によって上陸支援の米軍艦隊は撃退され、ガダルカナル島の米軍は残敵に過ぎないと判断したのである。特に陸軍にとって南太平洋方面は副次的な戦線であり、南太平洋方面を担当する陸軍第十七軍の主目的は東部ニューギニア南岸のポートモレスビー攻略であった。またソロモン諸島は海軍の担当であるという見方が強かった。採りあえずガダルカナル島奪還の為に小兵力の派遣が決定された。ガダルカナル島に派遣されることになったのは「ミッドウェー海戦」後グアム島に足止めされていた一木清直大佐率いる陸軍一木支隊(2200人)であった。参謀本部(陸軍)の判断に基づき、陸軍一木支隊には「米軍兵力は約2000人」「飛行場破壊が目的であり、現在ガダルカナル島から撤退中」であるという情報が与えられていた。しかし、実際に上陸した米軍は約19000人、十分な火砲をもち防御陣地を敷いて日本軍の攻撃に備えていたのである。

一木大佐は部隊を二つに分けた。第一梯団(916人)を駆逐艦で急速輸送して先行上陸させ、第二梯団(約1300人)は低速の輸送船で海軍陸戦隊と共にガダルカナル島に上陸する計画であった。これはガダルカナル島の米軍を残敵と判断し、兎に角急いで上陸して攻撃を開始しようという判断に基づいていた。8月18日夜、駆逐艦6隻に分乗した陸軍一木支隊第一梯団(916人)はガダルカナル島タイポ岬に上陸。ここは飛行場東方35㌔の地点であった。陸軍一木支隊は直ちに前進を開始したが、8月21日夜半、飛行場手前で米軍防衛線に遭遇、攻撃を開始した。軽火器のみの一木支隊に対して米軍は多数の重火器を装備していた。米軍の圧倒的火力の前に陸軍一木支隊は前進不能となり、未明までに殆ど全滅。攻撃は完全に失敗した。

陸軍一木支隊第一梯団全滅の報を受けた参謀本部(陸軍)は、引き続き川口清健少将率いる陸軍川口支隊(4000人)をガダルカナル島に送ると決めた。併しながら、ガダルカナル島付近の制海権・制空権は米軍の手中にあり、ラバウルの日本軍基地からも遠い為、日本軍の輸送は困難を極めた。低速の輸送船による輸送は殆ど不可能であり、もっぱら高速の駆逐艦による夜間輸送を行うしかなかった。この場合、兵員・軽火器の輸送は出来るが車両・重火器の輸送は不可能であった。8月20日、日本軍偵察機が正規空母を含む米軍艦隊ガダルカナル島に近づきつつあるを発見。日本軍艦隊は直ちにガダルカナル島近海に向かった。24日、「ミッドウェー海戦」以来となる日米海軍の航空母艦同士の海戦「第二次ソロモン沖海戦」が行われた。日本軍は正規空母2隻・軽空母1隻を含む計31隻、米軍は正規空母3隻を含む計27隻である。その結果、日本軍が軽空母1隻喪失、米軍が正規空母1隻中破であった。双方相当数の航空機を喪失た。この海戦中、輸送船によるガダルカナル島への輸送が行われたが、米軍飛行場からの米軍機の攻撃により不成功に終わった。

この頃、東部ニューギニアでは、8月18日、ポートモレスビー攻略作戦(「レ号作戦」)を担当する陸軍南海支隊主力が東部ニューギニア北岸ブナに上陸、先に上陸していた先遣隊と合流して進撃を開始した。しかし山間部(オーエンスタンレー山脈)での行動は困難を極めた。日本軍はポートモレスビーまでの中間にあるココダを占領したが、米・豪州軍の反撃と山間部での輸送困難による弾薬・食料不足から苦戦を強いられ、次第に進撃が困難になりつつあった。ここで日本軍はニューギニア東端のラビ攻略を決定する。ラビには連合軍の港湾と航空基地が整備されつつあった。連合軍がこの航空基地を本格使用し始めると日本軍は東部ニューギニアの制海権・制空権を脅かされ、日本軍のポートモレスビー攻略はもとより、南太平洋方面の日本軍拠点ラバウルに対しても脅威になり得ると考えられた。8月25日、海軍陸戦隊(1930人)がラビ東部に上陸したが、ラビの連合軍の反撃は激しく、上陸した海軍陸戦隊はたちまち苦戦に陥った。ソロモン諸島同様、東部ニューギニアに於いても連合軍の航空兵力が強化されつつあったが、日本軍はソロモン諸島に戦力・物資を優先せざるを得ず、東部ニューギニアには十分な航空兵力を展開できずにいた。東部ニューギニアの日本軍は制海権・制空権を失いつつあった。結果、物資の輸送が困難になり、東部ニューギニアで戦う日本軍はたちまち弾薬・食料が不足しだしたのである。

日本軍の第一次総攻撃(昭和17年9月)

昭和17年8月29日~9月7日、駆逐艦の夜間輸送によって陸軍一木支隊第二梯団・陸軍川口支隊合計5000人がガダルカナル島に上陸。日本軍はこの兵力によって米軍飛行場を夜襲して一挙に奪還しようとしたのである。先の陸軍一木支隊第一梯団の攻撃は失敗したものの、依然として日本軍はガダルカナル島の米軍兵力を約2000人、若干の重火器を装備している程度と見積もっていた。ジャングルを迂回して米軍飛行場南側に達した陸軍川口支隊は、9月12日夜、3方向から攻撃を開始した。戦闘は未明まで続き、一部の日本軍が飛行場に侵入したものの、飛行場を占領するには至らず、陸軍川口支隊の総攻撃も失敗した。

先の陸軍一木支隊は小兵力であったが、陸軍川口支隊による総攻撃失敗の報を受けた日本軍は事の重大さを認識せざるを得なくなった。ガダルカナル島の米軍は対日反攻という明確な目的を持って攻め寄せて来たのである。この時、ラバウルから600海里(1100㌔)という距離やガダルカナル島米軍飛行場の存在は今後の日本軍の作戦に大きな負担となっていく。詰まり、制海権・制空権が米軍の手中にあるガダルカナル島への輸送・補給は困難を極め、ガダルカナル島の日本軍はたちまち食料をはじめとする物資不足に陥ったのである。特に食料・医薬品の不足は致命的であり、ガダルカナル島の日本軍は戦闘よりも飢えと病によって次々と斃れていった。

東部ニューギニア東端ラビに上陸して米・豪州軍の反撃によって苦戦していた海軍陸戦隊(1930人)はたちまち兵力の3割以上を失い、9月5日、ラビから撤退した。更に、9月16日、東部ニューギニアの山間部(オーエンスタンレー山脈)では陸軍南海支隊がポートモレスビーまで直線距離50㌔のイオリバイワまで迫ったものの弾薬・食料が途絶えてしまった。東部ニューギニアの山間部(オーエンスタンレー山脈)は標高4000㍍あり、車両による補給は不可能、馬匹・人力による補給も必要量を補うことは出来なかった。さらに制空権を米・豪州軍に押さえられており、日本陸海軍機による空中投下による補給も必要量には程遠い状態であった。ガダルカナル島同様、東部ニューギニアに於いても日本軍は飢餓に陥りつつあった。24日、物資欠乏から戦線維持が困難になった陸軍南海支隊はイオリバイワの放棄を決定。後方のココダに撤退を開始する。

日本軍の第二次総攻撃(昭和17年10月)

補給困難を鑑み、ガダルカナル島の放棄も含めた議論が参謀本部(陸軍)・軍令部(海軍)では行われた。しかしガダルカナル島の喪失はソロモン諸島の制海権・制空権の喪失を意味する。結果、米国と豪州の連絡線が確立され、南太平洋方面の日本軍拠点ラバウル、更には南方資源地帯も連合軍の攻撃にさらされる事となる。日本軍はガダルカナル島の奪還を決意した。併しながら、ソロモン諸島に於ける日本陸海軍の連携は不十分であり、日本軍はガダルカナル島奪還に十分な兵力を集中出来ずにいた。特にこの方面で重要であった航空兵力は海軍航空隊のみが米軍機と対峙しており、この時点では陸軍航空隊は南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)には配備されていなかった。参謀本部(陸軍)の主な関心は中国奥地や南アジア(インド)・中近東方面への侵攻作戦や満州方面(対ソ連)であり、初期の南方作戦終了に伴い太平洋方面に展開していた兵力を引揚初めていたのである。南太平洋方面を担当する陸軍第十七軍は東部ニューギニア・ソロモン諸島(ガダルカナル島)の二正面を実施していた。また連合艦隊(海軍)は「ミッドウェー海戦」によって正規空母4隻を喪失し、積極的な攻勢を取れずにいた。ラバウルの海軍航空隊は連日ガダルカナル島を空襲したが600海里(1100㌔)という距離に阻まれて攻撃の効果はあがらず、未帰還機ばかりが増加していった。結果、日本軍はガダルカナル島周辺の制海権・制空権を米軍から奪うことが出来ずにいた。これに対して米軍はガダルカナル島を絶対確保すべく飛行場に陸海軍の航空機と陸軍・海兵隊を投入、更に正規空母全てを含む艦隊を投入していた。

陸軍川口支隊の第一次総攻撃失敗を受けて参謀本部(陸軍)は第二次総攻撃を計画した。これは蘭印攻略後現地に駐留していた陸軍第二師団を主力とする兵力と重火器をガダルカナル島に上陸させて一挙に飛行場を奪還しようとしたのである。しかし、大兵力・重火器・大量の資材を輸送する為には駆逐艦や舟艇による夜間輸送では不十分であり、輸送船を用いた輸送が不可欠であった。しかし低速な輸送船による輸送を成功させるにはガダルカナル島周辺の制海権・制空権を確保する必要がある。そこで連合艦隊(海軍)艦艇によるガダルカナル島米軍飛行場の砲撃が計画された。米軍飛行場を砲撃によって一時的に使用不能にし、その間に大兵力と物資をガダルカナル島輸送しようとしたのである。

昭和17年10月1日~10日、駆逐艦による夜間輸送の結果、陸軍第二師団主力・陸軍第十七軍司令部がガダルカナル島に上陸した。そして11日、海軍水上機母艦による重火器の輸送を援護する為、日本軍艦隊はガダルカナル島の米軍飛行場砲撃に向かった。11日夜、ガダルカナル島北側のサボ島付近で日本軍艦隊と米軍艦隊が不意に遭遇、「サボ島沖海戦」が発生した。こればで夜戦を得意としていた日本海軍であったが、米海軍はレーダー射撃を行い日本軍艦隊に大きな損害を与えた。しかし、この夜の日本軍によるガダルカナル島への重火器輸送は成功した。更に日本軍は戦艦の艦砲射撃によるガダルカナル島米軍飛行場の破壊を意図する。13日夜、戦艦2隻を含む日本軍艦隊がガダルカナル島に接近、約一時間に渡って米軍飛行場を砲撃した。これは史上初の戦艦の艦砲射撃による陸上施設への攻撃であった。米軍飛行場の米軍機の大半が破壊され、地上施設は大きな被害を受けた。しかし、この時点で米軍は新たな滑走路を建設しており、日本軍はその存在を知らなかった。更に14日夜、日本軍艦隊は再度飛行場の砲撃を実施した。この支援の元、輸送船によるガダルカナル島への輸送が行われた。輸送船は15日夜ガダルカナル島に到着、直ちに物資の揚陸を開始した。朝になると飛行場砲撃を免れた米軍機が日本軍輸送船を攻撃したが、物資の揚陸はほぼ完了しており、日本軍はガダルカナル島への大規模輸送に成功した。

これまでにガダルカナル島に上陸した日本軍は陸軍第二師団と陸軍一木支隊・陸軍川口支隊の残部を合わせて約20000人に達した。日本軍の第二次総攻撃は10月22日と予定され、今回もジャングルを迂回して飛行場南側から夜襲する事になっていた。しかし、この時点で飛行場を守る米軍には海兵隊のほかに陸軍部隊も増強され、飛行場南側には強力な防御陣地が構築されていた。日本軍のジャングルを切り開きながらによる行軍は困難を極め、22日の総攻撃は度々延期された。24日夜、攻撃配置が完了しないまま日本軍の各部隊は各個に攻撃を開始した。併しながら以前にも増して強化された米軍の防御陣地に対して白兵の銃剣突撃を以てする日本軍の攻撃は阻まれた。翌25日夜、日本軍は再度攻撃を行ったが米軍の猛烈な銃砲火によって再び日本軍の攻撃は頓挫、多大な死傷者を出す結果となった。日本軍の第二次総攻撃も失敗に終わったのである。日本軍はジャングル中を攻撃発起点まで撤退せざるを得なかった。

連合艦隊(海軍)は陸軍第二師団による第二次総攻撃を支援すべく、正規空母2隻。軽空母1隻を含む日本軍艦隊はガダルカナル島近海に進出させた。これに対して正規空母2隻を含む米軍艦隊も積極攻勢を決意。10月26日、日米海軍による「南太平洋海戦」が行われた。この海戦も航空母艦同士の海戦であり、日本軍は正規空母1隻大破・軽空母1隻大破、米軍は正規空母1隻喪失という被害を受けた。日本軍に沈没艦艇は無く、米軍は正規空母1隻を失う結果となったが、双方航空機及び搭乗員多数を喪失した。海戦の結果は日本軍の勝利ではあったが、ガダルカナル島米軍飛行場は健在であり、陸上兵力・航空兵力共に増強されつつあった。陸軍による第二次総攻撃の失敗、海軍による正規空母を投入した「南太平洋海戦」の結果、日本軍は米軍に対して決定的打撃を与えるには至らず、ガダルカナル島周辺の制海権・制空権は依然として米軍の手中にあった。

この時点で米軍のガダルカナル島上陸から約3ヶ月、陸軍は約20000人をガダルカナル島に投入していたが、2回の総攻撃失敗と補給困難によってその戦力は日に日に低下していた。特に武器弾薬はもとより食料医薬品の不足によって兵士の多くは飢餓に苦しめられ、ガダルカナル島(ガ島)は何時しか「餓島」と呼ばれるほど悲惨な状況を呈しだした。

東部ニューギニアでは、9月にココダまで撤退した陸軍南海支隊は米・豪州軍の攻撃と物資の欠乏によって戦線の維持すら困難な状況になっていた。10月5日、米・豪州軍は東部ニューギニア北岸ブナの南西にあるワニゲラに進出、東部ニューギニア北岸ブナ周辺(ブナ・バサブア・ギルナ)は日本軍のポートモレスビー攻略作戦(「レ号作戦」)の策源地であり、この一帯が米・豪州軍の手に落ちるとココダの陸軍南海支隊は退路を絶たれる。ブナ周辺(ブナ・バサブア・ギルナ)の日本軍は守備を固めるが、兵力・装備は不足し満足な戦闘は出来ない状態であった。ブナ周辺(ブナ・バサブア・ギルナ)では日本軍と米・豪州軍が入り乱れる状態となった。10月26日、ポートモレスビーを目指していた陸軍南海支隊はココダからも撤退を開始し、東部ニューギニア北岸バサブアを目指していた。しかし、バサブアには米・豪州軍が迫っていた。

第三次ソロモン沖海戦と輸送船団壊滅(昭和17年11月)

ガダルカナル島に於ける陸軍第二師団の第二次総攻撃失敗を受けて、参謀本部(陸軍)は更なる兵力投入を決めた。兵員・重火器・弾薬・食料等をガダルカナル島に輸送する為、輸送船11隻による輸送船団が編成された。大兵力と大量の物資を揚陸して一挙にガダルカナル島を奪回しようとしたのである。しかしガダルカナル島米軍飛行場が健在である限り、低速な輸送船による輸送が成功する見込みは少ない。そこで連合艦隊(海軍)は再び戦艦の艦砲射撃による米軍飛行場砲撃を行う事になった。日本軍は今回こそはガダルカナル島を奪回すべく陸海軍共に投入可能な兵力を動員したのである。併しながら、米軍もまたガダルカナル島飛行場に新たな兵力(第8海兵連隊・陸軍第182歩兵連隊)を増強していた。更に完成したばかりの新鋭戦艦や修理の終わった正規空母をソロモン諸島に投入し、日本軍に対して一歩も引かぬ構えを見せていた。ソロモン諸島ガダルカナル島の攻防戦はいよいよ日米両国の国力を賭けた戦いの様相を呈していく。

ガダルカナル島への陸軍第三十八師団・陸軍第五十一師団・陸軍独立混成第二十一旅団の投入が決定され、これに十分な数の重火器を上陸させ12月中旬を目処に第三次総攻撃が予定された。昭和17年11月12日午後、陸軍第三十八師団主力(14000人)・重火器(57門)・食料(20000人の20日分)・弾薬(75000発)を搭載した日本軍の輸送船11隻と護衛艦隊がショートランド泊地を出航した。また戦艦2隻を含む日本軍艦隊もガダルカナル島米軍飛行場砲撃を目指して一路南下してた。これに対して、日本軍の動きを察知した米軍は新鋭戦艦2隻・正規空母1隻を含む動員可能な艦艇をガダルカナル島近海に出動させた。

果たして11月13日午前1時40分過ぎ、ガダルカナル島北方海上サボ島南水道に於いて日本軍艦隊と米軍艦隊の海戦が発生した。米軍艦隊は新鋭戦艦が間に合わず、巡洋艦・駆逐艦計12隻、これに対して日本軍は戦艦2隻を含む計14隻。夜間の為に互いに敵発見が遅れ、至近距離での撃合いとなった。結果、米軍艦隊は殆ど全滅したが、日本軍艦隊も戦艦1隻・駆逐艦2隻を喪失。目的であるガダルカナル島米軍飛行場砲撃は果たせなかった。翌13日深夜~14日、巡洋艦・駆逐艦からなる日本軍艦隊がガダルカナル島米軍飛行場を砲撃したが効果は不十分であった。遂に14日昼、ガダルカナル島目指して南下していた輸送船11隻を含む日本軍船団上空にガダルカナル島飛行場からの米軍攻撃機が飛来、午後には米空母艦載機も加わって日本軍船団を攻撃した。護衛艦隊は対空砲で応戦したが低速な輸送船は次々と被弾していく。米軍機の攻撃は終日続き、輸送船6隻沈没・1隻が被弾によって引き返すという大きな損害を被った。沈没した輸送船の兵員・乗組員の多くは護衛艦隊に救助されたが多数の重火器・弾薬・食料は悉く海没した。残った輸送船4隻と護衛艦隊はガダルカナル島へ向かって南下を続けていた。残存の日本軍船団のガダルカナル島への輸送を支援すべく、14日夜、戦艦1隻を含む日本軍艦隊は再度ガダルカナル島北方海域に突入、米軍飛行場砲撃を目指した。14日午後10時、ガダルカナル島北方海域で再び日本軍艦隊と米軍艦隊による海戦が発生した。米軍は新鋭戦艦2隻を投入、大東亜戦争開戦以来初めての戦艦同士の海戦となった。結果、米軍は戦艦1隻が大破したが、日本軍は13日に続いてまたもや戦艦1隻を喪失、米軍飛行場砲撃を断念せざるを得なかった。これら13日深夜~15日深夜にかけてガダルカナル島北方海域で行われた一連の海戦は「第三次ソロモン沖海戦」と呼ばれる。米軍はこれらの海戦で巡洋艦・駆逐艦計9隻を喪失したが、日本軍は戦艦2隻を含む計6隻を喪失、主目的であるガダルカナル島米軍飛行場への艦砲射撃を行うことが出来なかった。

日本軍によるガダルカナル島米軍飛行場への砲撃が失敗したことは、ガダルカナル島周辺の制海権・制空権が依然として米軍の手中にある事を意味する。ガダルカナル島へ増援する兵力(陸軍第三十八師団主力)と大量の物資を搭載していた日本軍船団(輸送船11隻)は11月14日、既に空襲を受けて輸送船11隻中7隻を失っていた。残る輸送船4隻と護衛艦隊は14日夜~15日未明にかけて一路ガダルカナル島に向かっていたが、夜が明ければ再び空襲を受ける事は明白であった。そこで15日朝、残る輸送船4隻はガダルカナル島の海岸にのし上げ、直ちに物資の揚陸を開始した。併しながら夜明けと共にガダルカナル島米軍飛行場から米軍攻撃機が飛来、揚陸中の物資は次々と炎上していく。辛うじて兵員2000人が上陸、弾薬の一部・食料4日分を揚陸したに過ぎなかった。上陸した兵員殆どは丸腰であり、重火器は全て失われた。ガダルカナル島奪回の為の日本軍船団は殆ど壊滅し、輸送は完全に失敗に終わった。既に上陸している兵員と合わせてガダルカナル島の日本軍は20000人以上であったが、武器弾薬はもとより食料は底をつき、輸送も儘ならない状況では最早ガダルカナル島の奪回は絶望的な状況になりつつあった。更に連合艦隊(海軍)も戦艦2隻を含む多くの艦艇・船舶・航空機を喪失していた。

一方、東部ニューギニアでも日本軍の苦戦が続いていた。ポートモレスビーを目指していた陸軍南海支隊はブナに向けて撤退中であったが、ブナ周辺(ブナ・バサブア・ギルナ)は海路・空路侵攻してきた米・豪州軍によって圧迫されていた。ラバウルの海軍航空隊はソロモン諸島(ガダルカナル島)に兵力を集中させざるを得ず、東部ニューギニアの制空権は連合軍の手中にあった。11月16日、日本陸軍はそれまで南太平洋方面(東部ニューギニア・ソロモン諸島)を担当していた陸軍第十七軍をソロモン諸島に専念させ、東部ニューギニアは陸軍第十八軍に担当させることとした。これら陸軍第十七軍、陸軍第十八軍を新たに編成した陸軍第八方面軍(司令官今村均中将)の指揮下置くという戦闘序列を下命。陸軍第八方面軍に南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)を担当させる事とした。更に、18日、東部ニューギニアの状況急変を受けてこの方面への陸軍航空隊の派遣を決定する陸海軍中央協定が成された。それまでは南太平洋方面(ソロモン諸島・東部ニューギニア)は海軍航空隊のみが米・豪州軍の航空兵力と対峙していた。米・豪州軍はそれ以前から陸軍機・海軍機ともこの方面に配備されていたのである。

ガダルカナル島を巡る消耗戦(昭和17年12月)

日本軍にとっていよいよ自体は深刻であった。ガダルカナル島に於ける二回の総攻撃失敗を受けて参謀本部(陸軍)では更に陸軍第五十一師団・陸軍第六師団の投入を計画する。併しながら、ガダルカナル島米軍飛行場が健在である限り輸送船による輸送はほぼ不可能、駆逐艦や舟艇による輸送も大兵力や重火器の輸送は不可能である。それどころか既にガダルカナル島に既に上陸していた約30000人の日本軍は食料・医薬品の不足による飢餓によって次々と斃れ、ガダルカナル島の日本軍は増強されるどころか日に日に戦力が低下していった。連合艦隊(海軍)もガダルカナル島周辺の海戦で戦艦2隻・軽空母1隻を含む多数の艦船を失い、連日ラバウルから出撃する海軍航空隊の戦闘機・攻撃機はその多くが未帰還となっていた。米軍もガダルカナル島周辺海域で正規空母2隻を含む多くの艦艇を失いガダルカナル島の飛行場を守る為に次々と兵員・物資・航空機を送り込んでいた。ガダルカナル島の攻防戦はいつの間にか日米の果てしない消耗戦となっていたのである。

資源・国力の乏しい日本にとってこれまでに喪失した艦船・航空機の補充は容易ではなく、消耗戦に陥ることは致命的であった。戦地に於ける物資の輸送に用いた輸送船の多くは民間船舶を徴用していたが、ソロモン諸島方面・東部ニューギニア方面では膨大な量のこれら船舶を失っていたのである。新造船舶量は喪失船舶量を補うことが出来ず、日本から遠く離れたソロモン諸島方面・東部ニューギニア方面での攻防戦は日本国内の船舶需要を圧迫し始めていた。民間船舶の不足によって南方資源地帯からの資源輸送は滞り、日本国内の海運にも影響が出た。結果、日本国内の工業生産量は低下し始め、消耗した兵器の補充はますます困難になりつつあった。これに対して米国は開戦当初こそ戦争準備が整っていなかったが、開戦1年近くを経て工業生産は急速に戦時体制に移行し、工業生産量が増加しつつあった。

昭和17年12月にはいると参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)の間でガダルカナル島からの撤退是非に関する議論が何度も交わされた。当初は撤退に関して否定的な意見もあったが、如何にしても米軍の制海権・制空権下にあるガダルカナル島への有効な輸送手段は無く、これ以上の船舶・航空機等の喪失は大東亜戦争の遂行其のものを不可能にする事になる。これ以上戦力を投入してもガダルカナル島の奪回は不可能であると判断せざるを得なかった。12月18日、かねてから要望されていた陸軍航空隊がトラック諸島を経由してラバウルに到着したが、最早完全に時戦機を逸していたと言わざるを得なかった。31日、日本で御前会議が開かれ、正式にガダルカナル島からの撤退が決定された。

東部ニューギニアに於いても状況は悪化していた。ブナ周辺(ブナ・バサブア・ギルナ)の日本軍陣地に対する米・豪州軍の攻撃によって、12月8日、バサブアの日本軍全滅、昭和18年1月2日、ブナの日本軍が全滅する。ギルナの日本軍も14日に撤退を決定する。1月末までにブナ周辺(ブナ・バサブア・ギルナ)は米・豪州軍に制圧された。結果、日本軍のポートモレスビー攻略作戦(「レ号作戦」)はその策源地を失い、作戦続行は不可能となった。この地域(ブナ周辺・ココダ周辺)に於ける残存の日本軍は海路及び陸路で撤退、ポートモレスビーを目指していた陸軍南海支隊は当初ギルワに上陸した11000人中7600人が戦死・戦病死するという損害を被った。

日本軍のガダルカナル島撤退(昭和18年1月~2月)

昭和18年1月4日、正式にソロモン諸島ガダルカナル島からの撤退が現地の日本軍に命令され、ガダルカナル島から日本軍を撤退させる作戦は「ケ」号作戦と命名された。実に半年に渡る日米の攻防戦の末、日本軍はガダルカナル島を放棄して戦線を後退させる事になったのである。ガダルカナル島からの撤退に備えて日本軍は連日ガダルカナル島周辺の索敵を強化していた。29日、日本軍の索敵機がガダルカナル島南方レンネル島付近に米軍艦隊を発見。ラバウルの海軍航空隊は29日、30日にかけてこれら米軍艦隊を攻撃、「レンネル島沖海戦」が発生した。この海戦で日本軍は航空機10機が未帰還、米軍は巡洋艦1隻沈没・駆逐艦1隻大破であった。

ガダルカナル島撤退作戦(「ケ」号作戦)は3回に分け、夜間に駆逐艦による輸送で実施される事になった。2月1日(第一次撤退)、4日(第二次撤退)、7日(第三次撤退)の3日間、第一次撤退では陸軍第三十八師団・陸軍第十七軍司令部の一部・海軍部隊・患者の大部が、第二次撤退では陸軍第二師団・陸軍第十七軍司令部の大部が、第三次撤退では残余の部隊がガダルカナル島から撤退した。日本軍は作戦を秘匿する為に各種の偽装工作を行った。結果、米軍は日本軍の撤退に気が付かず、ガダルカナル島撤退作戦(「ケ」号作戦)は大きな損害を出すこと無く成功した。これによりガダルカナル島から撤退した日本軍は約13000人であった。これまでにガダルカナル島に上陸した日本軍は約33000人、即ち約20000人がガダルカナル島で斃れた。戦闘による戦死者は約8000人、戦病死・餓死が11000人であった。

東部ニューギニアでは、昭和17年12月中旬~昭和18年1月末、ブナ周辺(ブナ・バサブア・ギルナ)が米・豪州軍に制圧され、守備する日本軍は全滅或いは北西のギルナに撤退していた。この時期はソロモン諸島ガダルカナル島からの撤退が決定されており、東部ニューギニアでもラエ・サラモア・マダン・ウエワクなどの防備を強化してブナからの米・豪州軍の侵攻に備える事が決定した。この決定を受けて東部ニューギニア方面を担当する陸軍第十八軍はラエ・サラモア・マダン・ウエワクへの兵力派遣(陸軍第二十師団・陸軍第四十一師団・陸軍第五十一師団)を決定する。昭和18年1月5日~9日、ラエへの輸送(「第十八号作戦」)が成功、1月18日~20日、マダン・ウエワクへの輸送(「ム号作戦」)も成功する。