零式艦上戦闘機二一型(零戦21型)
昭和17年(1942年)2月19日のダーウィン空襲のあと、ダーウィン北約100kmのメルビル島に不時着した「零式艦上戦闘機二一型(零戦21型)」である。
たびたび行われたオーストラリア北部への空襲の中でも、2月19日のダーウィン空襲は最初にして最大の規模であった。チモール海上の4隻の空母から発進した188機の艦載機とスウェラシ島から発進した54機の陸上攻撃機がダーウィンを空襲した。日本側の損失はわずか4機であった。
この「零戦」はダーウィン空襲ののち、エンジントラブルのためメルビル島に不時着を試みた。不時着前に木々をなぎ倒したあと、機体はあまり損傷なく接地した。後の調査でエンジンオイルのタンクを7.7mm弾が貫通しているのが発見され、これがエンジントラブルを起こしたと考えられている。
この機体を操縦していた豊島一一飛曹は負傷していたものの生存しており、現地住民に発見された。不時着の翌日、住民の通報を受けたオーストラリア軍によって捕虜とされた。
豊島一飛曹はオーストラリア本土での初の捕虜であり、その後東海岸内陸のカウラ収容所に移送された。
機体は調査のため、オーストラリア軍によっていくつかの部品が回収された。コックピット部分には計器類は残されていない。
残りの部分は永らく放置されていたが、その後回収されてこの博物館に寄贈された。機首部分である。
エンジンとプロペラである。これらは展示機のものではなく、17年(1942年)4月4日にダーウィンの南西約50kmのBynoe港で撃墜された「零戦」のものである。
「零戦」の増槽(ドロップタンク)である。
豊島一飛曹はカウラ収容所で昭和19年(1944年)8月5日に起きた脱走事件を指導した一人であった。事件では日本兵234名が死亡し、豊島一飛曹は事件後に自決した。享年25歳であった。
一〇〇式司令部偵察機二型(百式司偵2型)
ダーウィンの約800km北西のチモール島を基地とした陸軍の第三航空軍第三飛行団第七飛行師団独立飛行第七〇中隊所属の「一〇〇式司令部偵察機二型(百式司偵2型)」のエンジンとプロペラである。
「百式司偵」は昭和15年(1940年)から生産が開始され、終戦まで陸軍の主力偵察機として使われた。スマートな外観が特徴的な双発機であり、優秀な高速性と高高度性能、航続距離を有していた。
この機体は昭和18年(1943年)7月17日、偵察行動中にダーウィンから100kmほど南西のアンソン湾付近にて第457飛行隊所属の「スピットファイア」に撃墜されたものである。この機に乗っていた第七〇戦隊隊長の佐々木シュンジ大尉とエグチアキラ中尉は墜落時に戦死した。
戦死の報を受けた佐々木大尉の母は息子が機を損失させたお詫びとして機の新造のために三千円を寄付した。当時の新聞は息子を失った上に寄付をした母の愛国的な行動を報道した。
当時の貨幣価値で「零式艦上戦闘機(零戦)」一機の値段は約七万円であり、個人の寄付としてはかなりの高額であったことが伺える。
計器パネルである。
燃料圧力計であろうか。
偵察写真を撮るための携帯用写真機である。
銘板には「手持式航空写真機」「25cm F-8型」「昭和17年2月」「六桜社」と読み取れる。六桜社は明治35年(1902年)に設立された写真機メーカーであり、現在のコニカミノルタである。
ランディングライトの部品である。
1990年に独立飛行第七〇中隊の生き残りの隊員たちがダーウィンを訪れた際に残した寄せ書きである。中央の写真は戦時中に発行された「百式司偵」のポストカードである。
一式陸上攻撃機のプロペラ
ダーウィン北側の海中から引き揚げられた「一式陸上攻撃機一一型(1式陸攻11型)」のプロペラである。1988年に漁船により発見された。2枚のプロペラブレードと軸部分が遺されている。
プロペラには弾痕が残っており、その位置を示す絵がある。
右側のプロペラブレードには20mm弾が貫通した跡がある。
左側のプロペラブレードにも20mm弾がかすめてできた損傷が見られる。
艦載機を動員した初回の空襲のあとは、陸上攻撃機が中心となって空襲が行われた。アメリカ・イギリスがオーストラリア北部に戦闘機隊を派遣したあとは陸上攻撃機に少なからず損害が出たようである。
一式陸攻に採用されていたのは住友金属工業のハミルトン可変ピッチプロペラである。可変ピッチプロペラとは、プロペラブレードの角度(ピッチ)を変えることができる機構を備えたものである。ギア搭載による重量増加を嫌う航空機の場合は、プロペラブレードの角度を調整して負荷を変えることによって適正な回転数を保つのである。
アメリカのハミルトン社が開発したこの機構は優秀であり、各国に普及していった。日本でも昭和9年(1934年)にサンプル機が輸入され、その後住友金属工業が製作権を手に入れた。
九九式艦上爆撃機の尾翼
昭和17年(1942年)2月19日の最初のダーウィン空襲時にダーウィンに居合わせた米第33飛行大隊に関する展示である。第33飛行大隊の10機の「P-40(ウォーフォーク)」は蘭印方面への移動の途中でダーウィンに寄ったところで日本軍の空襲と遭遇した。右側の飛行服はロバート・F・マクマホン中尉のものである。マクマホン中尉は「九七式艦上攻撃機」を射撃したあと撃墜されたが、パラシュートで脱出して後に救出された。
この空襲で撃墜された「九九式艦上爆撃機」の尾翼部である。撃墜が敵戦闘機によるものか対空砲火によるものかは不明である。
同じく第33飛行大隊のロバート・オストレイチャー中尉は2機の「九九式艦上爆撃機」の撃墜を報告したが、多くの「零式艦上戦闘機(零戦)」に護衛された爆撃機を実際に撃墜できたとは考えづらい。戦果確認が困難な空戦の報告では過大に報告されることが多い。
連合軍の教本に記載された「九九式艦上爆撃機」のスペックである。サイズのほか速度や航続距離などが解析されて記されている。連合軍は「九九式艦上爆撃機」を「Val(ヴァル)」と呼んでいた。
ダーウィン空襲時の爆弾の破片
ダーウィン空襲に関する資料である。オーストラリア軍は開戦から1ヶ月弱でダーウィンから住民を避難させ始めていた。昭和17年(1942年)2月19日の最初の空襲が最大規模であり、艦載機と陸上攻撃機の計242機が攻撃に参加した。オーストラリア側の人的損害は連合国水兵を中心に251名であった。
空襲で投下された60kg爆弾の破片である。
主な攻撃目標は湾内の艦船や飛行場、港湾施設、燃料タンクであったが、市街地に落ちた爆弾もあったようである。誤爆された郵便局の写真である。日本軍機が市街地を狙ったとするような表現のところもあるが、日本軍の目的は基地の使用を防ぐことであった。誤爆の事実はあったようであるが、戦略都市爆撃とは異なる点に注意が必要である。
誤爆された郵便局のがれきである。(→)
日本軍その他展示物
残骸から回収された部品類である。日本軍のものと連合軍のものがある。
「一式陸上攻撃機(1式陸攻)」の部品である。
「1式陸攻」のコンパスである。
日本軍機の弾倉である。ダーウィンの約200km南のフェントン飛行場付近で発見されたものである。「ルイス軽機関銃」を日本海軍が制式採用した「九二式七粍七機銃(留式7.7mm機銃)」の弾倉に見える。
日本軍機の胴体のようである。(←)
日本軍爆撃手の膝当てである。
P-40(ウォーホーク)のエンジンカウル、主翼、アリソンエンジン
アメリカのカーチス・ライト社の陸上戦闘機「P-40(ウォーフォーク)」のエンジンカウルである。この機は昭和17年(1942年)8月にダーウィン地域に派遣された最初のオーストラリア軍の戦闘機隊(第77飛行中隊)のものであり、同年11月23日にこの隊による初の撃墜を記録した。
撃墜されたのはチモール島から発進した高雄航空隊所属機の「一式陸上攻撃機(1式陸攻)」であった。
アメリカ陸軍航空隊、第33飛行大隊の「ウォーフォーク」の主翼である。この機は訓練中に別の機と上空で接触し、主翼が切断された。この事故で一人は死亡し、もう一人はパラシュートで脱出した。
「ウォーフォーク」は12.7mm機銃を6挺装備していた(N-20型)。翼内の弾倉部分の機構が見える。
第33飛行大隊の「ウォーフォーク」の「アリソンV-1710 V-12エンジン」である。これはウォーカー中尉が最初のダーウィン空襲の際に乗っていた機体のエンジンであり、当時ダーウィンにいた10機の「ウォーフォーク」は全て破壊された。ウォーカー中尉は肩を負傷したものの生還した。
排気量は26リッターで1200馬力の出力があった。液冷式で加圧した70%の水と30%のエチレングリコールの混合冷却材を使用した。
この型はアリソンエンジンの中でも最もよく知られるものである。第二次世界大戦中のアメリカにおいて唯一の液冷式高出力エンジンであり、7万基以上が製造された。「ウォーフォーク」のほか、「P-38(ライトニング)」など多くの機種に搭載された。
このエンジンは飛行場の近くに爆撃でできた穴に埋められていたが、1955年のダーウィン空港拡張の際に発見された。
スピットファイア(レプリカ)
イギリスのスーパーマリーン社の陸上戦闘機「スピットファイア」のレプリカである。「スピットファイア」部隊は昭和17年(1942年)3月2日から翌年11月23日までダーウィンに配備され、日本軍機の空襲を迎撃した。
こちらは実機から切り取ったもののようである。レプリカの「ZP」のマーキングはこれを模したものであろうか。
B-25D(ミッチェル)、B-24(リベレーター)の尾翼
アメリカのノースアメリカン社の陸上爆撃機「B-25(ミッチェル)」である。陸上爆撃機ながら極限まで軽量化して空母から発艦させ、東京を空襲した昭和17年(1942年)4月18日のドーリットル空襲が有名である。
展示スペースのためか、尾部は切り離されて本体の横に置かれている。
爆弾倉である。
アメリカのコンソリデーテッド・エアクラフト社の陸上爆撃機「B-24(リベレーター)」の尾翼である。ダーウィンから約200km南のフェントン飛行場を基地としていた機体のものである。
戦後の航空機
アメリカのボーイング社の戦略爆撃機「B-52(ストラトフォートレス)」である。戦略核攻撃に使用するために作られたが、ベトナム戦争では通常爆弾で絨毯爆撃を行い「死の鳥」と呼ばれた。
機首の横に階段が取り付けられており、コックピットを見ることができる。運用開始は1955年であり、計器類はアナログに見える。現代の航空機はディスプレイ式の計器が主流である。米空軍では2045年までの運用を予定しているそうである。
全長48.5m、全幅56.4m、全高12.4m(H型)の巨人機である。最大離陸重量は219.6トン、最大ペイロード31.5トンである。
推力17000lbfのエンジンを8基搭載している。
主翼である。航続距離は約16000kmである。
尾部には20mmガトリング砲を装備している。文字通りストラトフォートレス、成層圏の要塞である。
オーストラリアのコモンウェルス社のジェット戦闘機「CA-27(セイバー)」である。アメリカのノースアメリカン社の「F-86F(セイバー)」を元にしてオーストラリアで生産された機体である。
アメリカのベル社の攻撃ヘリコプター「AH-1S-BF(ヒューイコブラ)」である。世界初の本格的攻撃ヘリコプターであり、20mm機関砲や対戦車ミサイルを主武装とした。