九二式重機関銃
日本軍の銃器がガラスケースの中に展示されている。
右下の最も大きいものは、昭和14年(1939年)に制式採用された「九二式重機関銃」である。支那事変から大東亜戦争終戦まで各戦線で広く使用された。生産数は約45000丁と多く、東南アジア・太平洋地域を中心として多く遺されている。
当時陸軍は口径6.5mmの「三年式機関銃」を使用していたが、各国の重機関銃と比べて威力不足が目立ってきていた。「九二式重機関銃」は口径を拡大し、7.7mmとされた。
銃把は折りたたみ式ハ字型銃把であり、押金式である。満州などの極寒地においてもミトンの厚手手袋を装着したまま射撃できる工夫がされていた。
30発入りの保弾板を機関部に差し込んで給弾した。安定性を重視したために発射速度が450発/分と機関銃としては遅めであったが、命中精度が高いのが特徴であった。
九六式軽機関銃
昭和13年(1938年)に制式採用された「九六式軽機関銃」である。当時、チェコスロバキア製の「ブルーノZB26軽機関銃」が高性能かつ安価と評価され各国へ輸出されており、これを参考として開発された。
口径は6.5mmである。また、銃口には「三十年式銃剣」が取り付けられるようになっていた。しかし、「軽」機関銃と言っても重量は10.2kgあり、銃剣突撃は非実用的であったと思われる。
前式の「十一年式軽機関銃」は給弾機構が複雑で故障が多かったため、装弾数30発のバナナ型の箱型弾倉を採用して故障率は大きく下がった。昭和18年(1943年)に後式の「九九式軽機関銃」に生産が全面的に切り替わるまでに約41000挺が製造された。
銃身部には「ブルーノZB26軽機関銃」にはなかった放熱用のひだ(フィン)が取り付けられた。しかし、それでも連続発射直後は銃身が過熱してしまうため、持ち運び用の取っ手が取り付けられていた。
三八式歩兵銃、九四式拳銃
明治38年(1905年)に制式採用された「三八式歩兵銃」である。開発された日露戦争当時は騎兵への対抗を考慮する必要があったため、銃剣を付けて馬上へ届く槍としての長さが必要とされた。そのため、全長は1276mm、「三十年式銃剣」を装着した状態では1663mmと長いのが特徴である。
昭和9年(1934年)に準制式採用された「九四式拳銃」である。南部銃製造所によって設計され、その小ささから将校、戦車兵、航空隊などの特殊兵科で盛んに使用された。口径は8mmである。
装備品等
軍刀である。20世紀の兵器の進化により、第二次世界大戦時には軍刀を運用していたのは少数国であった。さらに常勤時も軍刀を常に佩用していた日本の陸海軍は更に異端であった。
左側は軍靴である。泥地でも歩きやすいように足袋のような形状となっている。右側はニューギニア島で戦死した日本兵が持っていたラッパである。
日の丸に寄せ書きと「武運長久」の文字が読み取れる。欧米人にとって珍しく感じたのか、戦利品として持ち去られたものが博物館に展示されているのが良く見かけられる。
昭和17年(1942年)にダーウィン付近で撃墜された日本軍機から発見された聖書である。当時は一応宗教は自由であったが、キリスト教は多少風当たりが強かったようである。
艦隊模型と水兵帽子、服、搭乗員制服
昭和17年(1942年)2月19日のダーウィン空襲に向かう機動部隊が再現されている。ダーウィン北西のチモール海において、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母から計188機の艦載機が発進した。
再現では分かりやすいイメージで表現されているが、実際の艦隊行動は各艦が衝突しないようにもっと間隔を空けていた。
水兵の制服と制帽である。制服は舞鶴、制帽は呉で製造されたものである。制帽には「大日本帝国海軍」と刺繍が入っている。
右側は日本軍搭乗員の飛行服、ヘルメット、ゴーグル、軍靴である。飛行服は多少の上空の寒さを防げるようになっていた。5000m上空の気温は地上より約30度低くなる。熱帯のダーウィンであっても上空は零度前後であったであろう。左側はオーストラリア軍の軍服である。熱帯の気候に合わせて半袖、半ズボンである。
九二式二十五番航空爆弾
昭和8年(1933年)に制式採用された「九二式二五番航空爆弾」である。「九九式艦上爆撃機」に装備され、ダーウィン空襲にも使用された。
二五番は250kg爆弾であることを表している。炸薬量は98kgであり、炸薬は黄色薬または茶褐薬で、前者の場合パラフィン1.0kgが含まれる。
連合軍重火器
博物館の建物を裏口から出たところに連合軍の重火器が並べられている。
「25ポンド野砲」である。この砲は昭和17年(1942年)に製造されたものである。
スウェーデンのボフォース社の「40mm Mk12/1 対空砲」である。
「6インチ艦砲」である。この砲は元々豪巡洋艦「ブリスベン」のために製造されたが、イーストポイント岬に沿岸砲として設置された。
「17ポンド対戦車砲」である。ドイツ軍の新型戦車に対抗するために製造された。
イギリスのビッカース社の「2ポンド対空速射砲」である。1分間に22発の発射が可能であり、欧州戦線や太平洋戦線で広く使われた。対空砲としてだけでなく、「九五式軽戦車」の撃破記録もある。
イギリスのビッカースアームストロング社の「3.7インチ対空砲」である。昭和17年(1942年)2月19日のダーウィン空襲では約800発を発射した。
「25ポンド野砲」である。博物館建物の上に置かれており、来訪者を出迎える。
連合軍重火器連合軍重火器「81mm迫撃砲」である。
水陸両用トラック「LVT(バッファロー)」である。
連合軍機関銃、小銃、銃剣
連合軍の小銃である。それぞれの銃の横にその銃で使用する弾丸が展示されている。
右端のものはアメリカの「M1カービン」である。歩兵用小銃より軽量に作られており、将校の自衛用として使われた。昭和16年(1941年)から配備が始まった。
下から2番目のものは「スナイドル・エンフィールド銃」である。1866年のモデルであり、幕末の日本に大量に輸出され、戊辰戦争での新政府軍の主力小銃となった。
連合軍の銃剣である。
P-40(ウォーフォーク)の残骸、アリソンエンジン、B-24(リベレータ)の機銃座
アメリカのカーチス社の「P-40(ウォーフォーク)」である。この機体は米陸軍航空隊第49航空隊の所属機であり、第49航空隊は昭和17年(1942年)4月からダーウィンに展開した。この機は同年6月12日の飛行訓練において墜落した。
アリソンエンジンである。
テイラー中尉機とソウバー中尉機は空中で接触し、両機は墜落した。この事故でソウバー中尉は死亡し、テイラー中尉はパラシュートで脱出し無事であった。
機体の残骸は一部が1960年代に回収されたが、その後放置されていた。これらは2001年に回収されたものである。残骸の一部はダーウィン空港近くの「オーストラリア航空歴史センター」にも展示されている。
昭和17年(1942年)6月15日にダーウィンの20kmほど西で不時着した「P-40(ウォーフォーク)」のエンジンである。プロペラは3枚とも残っている。
「B-24(リベレータ)」の下部銃座である。「リベレータ」は地面と胴体下面の間隔が狭かったため、離陸後に胴体内からせり出してくるようになっていた。
No.2 砲台
ダーウィン防衛のために設置された砲台である。イーストポイント岬には2つの9.2インチ(約23cm)砲が設置された。2つのうちこのNo.2砲台は博物館の敷地内にあり、昭和20年(1945年)3月23日に完成した。
1959年、ダーウィン空襲で沈んだ艦船が引き揚げられて鉄スクラップとされた際、9.2インチ砲も鉄スクラップとして売却された。現在展示されているのはレプリカである。
砲台の射界のイメージである。頑丈なコンクリートに守られ、地面に固定されているために艦砲よりも命中率も高く、艦隊でこの要塞を攻め落とすのは困難であったであろう。しかし、時代の主役は戦艦から航空機へと移り、沿岸砲台は時代遅れとなりつつあった。結局この砲台は完成時に3発の砲弾を試射したのみであった。
サーチライトである。気象状態にもよるが、25km先の敵艦を照らし出し、距離を測定して砲台に射撃指示を出した。マグネシウムを燃焼させて光源とし、鏡で反射することによって強い光線を得ていた。
砲台の床下部分である。砲を回転させるための機構のようである。
砲弾である。
砲台の後ろ側には階段が設置されており、屋根部分に登ることができる。
屋根からは海が見渡せる。
No.1 砲台
イーストポイント岬に設置された2つの9.2インチ(約23cm)砲のもう一つは博物館の敷地外にある。こちらは昭和19年(1944年)4月10日に完成した。砲自体はなく、砲台の分厚い防護壁のみが残る。
無料で自由に入れるが、18:30になると施錠される。
そもそもこの砲台が建設されたのは、大正13年(1924年)に建設が始まった燃料貯蔵庫を防衛するためであった。9.2インチ砲の設置は翌年の大正14年(1925年)に決定されたが、当時はまだ脅威を感じていなかったのか着工は先延ばしにされた。実際に建設が始まったのは昭和16年(1941年)の大東亜戦争開戦直前であった。
砲台の下の部分は銃架があった。小さな部屋がいくつか並んでいる。
要塞施設
要塞には2門の9.2インチ砲のほか、4門の6インチMk.XI砲が設置された。砲は巡洋艦から取り降ろされたものが用いられた。最初の砲は昭和7年(1932年)の9月に届けられた。こちらは広場のものである。
遊歩道を少しあるいたところにも砲台跡が遺されている。こちらは草が生い茂っている。
要塞にはこれらの砲台のほか、各種付属施設も建設された。これは地下発電所である。
海岸沿いにはトーチカが遺されている。損傷は激しい。
建物跡である。火災発生時に消火の指揮所となるものであったようである。
ポート・ダーウィンへの潜水艦の侵入を防ぐ防潜網を固定するためのワイヤーである。昭和15年(1940年)に3.1kmの長さの防潜網の建設が始まった。しかし第二次世界大戦が始まり潜水艦の脅威が高まると、防潜網は5.59kmに延長され、当時世界一の長さとなった。