旅順郊外の日露戦争の戦跡

日露戦争と大東亜戦争における大連・旅順の歴史
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「203高地」

「旅順港閉塞作戦」に失敗した海軍は陸軍に大連から陸路での旅順攻略を強く要請した。旅順艦隊と欧州のバルチック艦隊が合流すると日本海軍連合艦隊の倍近い戦力となるため、バルチック艦隊が回航される前に沿岸砲で守られた旅順港内の旅順艦隊を壊滅させる必要があったのである。

「203高地」に観光に来れば、この高地から旅順港が良く見渡せる。

当初陸軍は満州での決戦を想定していたが、第三軍を編成して遼東半島を南下し、明治37年(1904年)7月26日に旅順外延部まで進出した。

8月7日、海軍陸戦重砲隊が大弧山に観測所を設けて旅順港への砲撃を開始した。

大弧山から旅順までは遠く効果は十分ではなかったが、旅順港がもはや安全ではないと感じた旅順艦隊はウラジオストックに向けて出航した。連合艦隊はこれを捕捉して旅順艦隊に打撃を与えたが、旅順艦隊は旅順港に戻り、以降ほとんど出撃しなかった。

この「黄海海戦」で旅順艦隊は戦闘能力を失っていたが、当時の日本海軍は旅順艦隊は未だ健在であると考えていたため、引き続き陸軍に旅順攻略を要請した。

観光用に再現されたロシア軍塹壕である。

旅順要塞守備隊は約44000名、旅順艦隊の水兵約12000人、市街地の義勇兵約7000人であった。

対する第三軍の総兵力は約60000人であった。8月19日に第一次総攻撃が行われた。第一師団は北西方面の高地に、第九師団と第十一師団は東方面の堡塁に白兵突撃をかけた。

いくつかの要所を占領するものの、ロシア軍は要塞に機関銃を装備して待ち構えており、第三軍は戦死5017名、戦傷10843名を出した。ほぼ一個師団に相当する大損害を受けて8月24日に総攻撃は中止された。

第三軍は白兵突撃による占領は不可能と判断し、要塞前面まで塹壕を掘り進んで進撃路を確保する準備を始めた。

また、「二十八糎砲(28cm砲)」の投入が決定された。

塹壕掘削をほぼ終えた10月26日、第二回総攻撃が行われた。「東鶏冠山北堡塁」などの永久堡塁の外壁の一部爆破には成功するものの攻撃は頓挫した。

日本軍は戦死1092名、戦傷2782名を出すが、ロシア軍も戦死616名、戦傷4453名を出した。

11月26日、第三次総攻撃が開始された。第三軍は東の要塞群を攻撃するがことごとく撃退された。11月28日、攻撃目標を「203高地」に変更し、総攻撃が開始された。11月30日に高地の一角を占領したが、すぐにロシア軍に奪還された。

この日に「203高地」で戦死した乃木将軍の次男、保典の碑である。

第三軍は塹壕程度で堅固な防御施設のない「203高地」で消耗戦に持ち込んだ。日本軍戦死5052名、負傷11884名、ロシア軍戦死5308名、戦傷12000名近くを出す激戦のすえ、日本軍はついに12月5日に高地を占領した。

「203高地」にはすぐに観測所が設けられ、旅順港内の旅順艦隊を砲撃し壊滅させた。

ロシア軍は「203高地」で予備戦力を使い果たし、以降、「東鶏冠山北堡塁」などの各地の堡塁が総崩れとなって次々と陥落した。翌年1月1日、旅順要塞守備隊は降伏を申し入れ、ついに戦いに決着が付けられた。

日露多くの戦死者を出した場所であり、観光に際しては厳粛な気持ちにさせられる場所である。

見どころ一覧
・慰霊塔
・重砲兵観測所
・乃木保典戦死之所

「203高地」の詳細
「慰霊塔」「203高地」は旅順港の北側にある丘陵である。現在は日露戦争の有名な激戦地として観光地化されている。日露戦争当時、この丘を巡って激しい争奪戦が繰り広げられた。この丘が両軍にとって重要視されたのは、旅順港に立てこもるロシアの旅順艦隊...

「203高地」の歩き方

旅順市街中心地から片道約20分、20元。

周辺には流しのタクシーがほとんどいないので、土地勘のない観光客は駐車場でタクシーに待っていてもらうのがよいだろう。

入場料:30元
  タクシーを駐車場に待機させる場合はさらに駐車場代10元 休館日:無休
開館時間:08:00-17:00
(2010年現在)

「東鶏冠山北堡塁」

旅順を守るべく旅順周辺の丘陵地帯にはロシア軍の近代要塞が築かれていた。「東鶏冠山北堡塁」もその一つである。現在は要塞全体が観光地となっており、近代要塞の概要をうかがい知ることができる。

「旅順攻囲戦」で第三軍は「東鶏冠山北堡塁」に三度に渡って総攻撃を行うが、いずれも多数の死傷者を出して攻略は失敗した。

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の舞台にもなったこれらの堡塁では、激しい戦闘が行われた。

城壁にはおびただしい数の弾痕が残っているのを観光できる。

日本軍は「二十八糎砲(28cm砲)」を投入して要塞を砲撃した。「二十八糎砲(28cm砲)」の威力は凄まじく、要塞内の火薬庫を爆発させるなどの損害を与えた。ロシア軍のコンドラチェンコ少将も司令部で榴弾の直撃を受けて戦死した。

ロシア軍は「203高地」の攻防で予備戦力を消耗し、最後は日本軍工兵が2トンの爆薬で城壁を爆破して白兵戦に持ち込み占領した。

要塞内には資料館が併設されており、「二十八糎砲(28cm砲)」やロシア軍の「マキシム機関銃」が観光客に公開されている。

見どころ一覧
・トーチカ
・石碑
・兵舎
・旅順日露戦争陳列館
・銃砲類
・土産物屋
・望台山砲台

「東鶏冠山北堡塁」の詳細
「トーチカ」「東鶏冠山北堡塁」は旅順の要塞群の中でも堅固なトーチカで固められた永久陣地であった。かつては立ち入りが制限される場所であったようだが、現在は観光客に開放されている。治37年(1904年)8月19日からの第一次総攻撃において、日本...

「東鶏冠山北堡塁」の歩き方

旅順市街中心地から片道約20分、20元。
周辺には流しのタクシーがほとんどいないので、土地勘のない観光客は駐車場でタクシーに待っていてもらうのがよいだろう。

入場料:20元
  タクシーを駐車場に待機させる場合はさらに駐車場代10元
休館日:無休
開館時間:08:30-16:30
(2010年現在)

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