「東清鉄道汽船会社」
旧東清鉄道汽船会社社屋」である。
明治35年(1902年)築であったが、現在のものは平成8年(1996年)に建て替えられたレプリカである。東清鉄道汽船会社は東清鉄道の子会社であり、大連-北京間などに航路を有していた。
日露戦争では大連軍政署として使われ、日本統治時代は大連民政署、大連倶楽部、満鉄日本橋図書館として使われた。
現在は全国重点文物保護単位に指定され、大連藝術展覧館となっている。
大連藝術展覧館のすぐ右手側には「旧東清鉄道汽船会社の別棟」がある。
同じくダーリニー時代にロシアによって建てられた。
日露戦争時には野戦鉄道提理部が使っていた。その後満鉄本社が大連に移転してきたとき、本社に収まらなかった満鉄工務課がここに入居した。大連工事事務所を経て、現在は勝利酒店となっている。
「東清鉄道汽船会社」の歩き方
「中山広場」からは北西に伸びる上海路を行く。800mほどで鉄道の上を通る陸橋がある。
この陸橋を渡ったところの正面が「旧東清鉄道汽船会社社屋」、その右手が「別棟」である。
「サハロフの官邸」
東清鉄道の技師長「サハロフの官邸」である。
サハロフはその後市長となり、ダーリニーの開発を任された。ドイツ人技師を使ってパリの街に似た市街地を設計し、湾を埋め立てて港を拡張した。
日本統治時代は満鉄総裁公邸となった。
現在はバーになっているようである。
「中山広場」からは北西に伸びる上海路を行く。800mほどで鉄道の上を通る陸橋がある。陸橋を渡ったところに「旧東清鉄道汽船会社」がある。
「旧東清鉄道汽船会社」の左側は縁日の屋台のような店が両側に出ている道がある。
この道を400mほど行ったところの左手側の明るい赤と白のコントラストの建物が「サハロフ官邸」である。
左手にある大学を少し超えたところである。
「ダーリニー市役所」
「旧ダーリニー市役所」である。
当初は東清鉄道の事務所として建てられたが、明治35年(1902年)の特別市制度施行の際に市役所となった。日本統治時代の明治40年(1907年)に東京から移転した「満鉄本社」となったが、翌年には同じく大連市内の「中山広場東側」に移転していった。
「建物」の裏側に回ると、一部が屋根瓦の日本風の建物が建っている。
日本統治時代に増設された部分であろうか。
「建物」は北欧風ルネサンス様式である。 「満鉄本社」移転後は「大連ヤマトホテル」となった。「大連ヤマトホテル」も 「中山広場」に移転し、昭和元年(1926年)に満州物資参考館となった。これは満州の農産物や資源を展示する博物館であり、後に満蒙資源館、満州資源館と改称した。戦後も大連自然博物館としてその展示を引き継いでいた。
大連自然博物館は平成10年(1998年)に移転し、それ以降は使用されていない。1階の窓は目張りされている。
「建物」は一部取り壊されている。
歴史的な建築物であり、ぜひ保存してもらいたいところである。
「ダーリニー市役所」の歩き方
「中山広場」からは北西に伸びる上海路を行く。800mほどで鉄道の上を通る陸橋がある。陸橋を渡ったところに「旧東清鉄道汽船会社」がある。
「旧東清鉄道汽船会社」の左側は縁日の屋台のような店が両側に出ている道がある。この道は600mほどで大きな噴水の広場に出る。
広場の向こう側のひときわ大きな建物が「ダーリニー市役所」である。
「通信省の官舎」
「旧通信省の官舎」である。
ここは日本人が最初に大連に住み着いた場所と言われている。
現在は各部屋ごとに住民が住んでいるようである。
「建物」は比較的形状が保たれているようであるが、洗濯物が干してあったり生活感が滲み出ている。
「通信省の官舎」の歩き方
「中山広場」からは北西に伸びる上海路を行く。800mほどで鉄道の上を通る陸橋がある。陸橋を渡ったところに「旧東清鉄道汽船会社」がある。
ここで引き続き右斜め前の上海路を行く。「旧東清鉄道汽船会社」から600mほどで左手に公園がある。
この公園と道を挟んですぐ北側が「通信省の官舎」である。