「東鶏冠山北堡塁」の詳細

日露戦争と大東亜戦争における大連・旅順の歴史
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旅順郊外の日露戦争の戦跡
「203高地」「旅順港閉塞作戦」に失敗した海軍は陸軍に大連から陸路での旅順攻略を強く要請した。旅順艦隊と欧州のバルチック艦隊が合流すると日本海軍連合艦隊の倍近い戦力となるため、バルチック艦隊が回航される前に沿岸砲で守られた旅順港内の旅順艦隊...

「トーチカ」

「東鶏冠山北堡塁」は旅順の要塞群の中でも堅固なトーチカで固められた永久陣地であった。

かつては立ち入りが制限される場所であったようだが、現在は観光客に開放されている。

治37年(1904年)8月19日からの第一次総攻撃において、日本軍第十一師団はこの堡塁に歩兵による突撃を行ったが、結果は大惨敗に終わった。

堡塁は堀で囲まれ、堀に降りた日本軍兵士は堀外側の隠しトーチカの銃眼と堀内側の陣地から十字砲火を浴びてしまったのである。

隠しトーチカの左側の出っ張り部分である。

ここからも堀に向けて射撃できる仕組みとなっていた。

隠しトーチカの壁面である。

残されたおびただしい弾痕が観光客に激戦の爪痕を見せつける。

トーチカは堡塁のその他施設と地下道で連結されている。

現場に立つと、近代要塞というものの構造が良く分かる観光スポットである。

隠しトーチカの断面図である。

斜面下側から攻める日本軍からは直接トーチカが見えず、攻撃できない。突撃してきて堀に落ちたが最後、お陀仏である。

堀からトーチカを見たところである。銃眼が開いている。

このトーチカの向こう側の斜面から日本軍が突撃を行った。

歩兵の突撃で大きな損害を出した第十一師団は、堡塁に向けて坑道の掘削を開始した。

坑道が堡塁に到達し、10月26日から第二次総攻撃が行われた。

隠しトーチカの左側の出っ張り部分を4ヶ所程度爆破したが、爆破の規模が小さくトーチカへの侵入はできなかった。

多方面の各部隊の損害も多く総攻撃は中止された。

11月26日からの第三次総攻撃でも攻略は難航した。しかし、12月5日の「203高地」陥落でロシア軍は予備兵力を使い果たして防御力が急速に低下していった。

12月18日、日本軍工兵はトーチカ壁に2.3トンもの爆薬を取り付け、大爆発させて大穴を空けた。日本軍兵士はこの穴からトーチカ内部に斬り込み、白兵戦ののち同日夜半ついに堡塁を占領した。

「石碑」

日露戦争終結後の大正5年(1916年)、日本の「満州戦跡保存会」によって堡塁の中央部に「東鶏冠山北堡塁の碑」が建てられた。

石碑の高さは6m、青いみかげ石で造られている。

石碑の台座部分に石板がはめこまれている。

「第十一師団(中略)之ヲ攻略シ占領ス」と刻まれている。

石碑のそばにロシア軍機関銃陣地が再現されている。

トーチカ部分と中央部分の陣地と間の堀に進入した日本軍兵士を挟撃する仕組みであった。

機関銃は観光客向けのレプリカというか鉄の筒の向きが変えられるだけの簡単なものである。

また、中央部分にはロシア軍の砲兵陣地が築かれた。

主に旅順の北西方向に対する火力網を担っていたようである。

4門の砲は観光客向けのレプリカである。

「兵舎」

東側、すなわち日本軍進攻方向から見て裏側は兵舎となっており、中央部分と大きな地下通路でつながれている。

兵舎は堀の間に建っており、東側に向けて窓が開いている。

裏側に回りこまれて攻められた場合も窓を銃眼として使えるようにしてあったのであろうか。

兵舎は元々2階建てであった。現在では床が完全に崩落している。

兵舎の近くには指揮所がある。

旅順要塞の司令官はステッセル中将であったが、コンドラチェンコ少将が実質的な司令官であった。彼は旅順着任以来要塞築城の陣頭指揮にあたり、短期間で近代要塞を構築した。

12月12日、この指揮所に「東鶏冠山北堡塁」の将兵を激励するために訪れたコンドラチェンコに日本軍の砲撃が直撃し、即死した。

戦場では自ら陣頭指揮を取る勇猛さと将兵一人ひとりに気を配るコンドラチェンコは、ロシア軍将兵達からの評価、信頼が高かった。彼の戦死は将兵たちに衝撃を与え、士気が大きく低下したと言われている。

日本側もロシア軍の名将と高く評価しており、日露戦争後この場所に記念碑を建てた。

碑には「露国コンドラチェンコ少将戦死之所」と刻まれている。

「旅順日露戦争陳列館」

駐車場から左手の階段を降りると旅順日露戦争陳列館がある。

写真展示のほか、当時の遺物が観光客に公開されている。

陳列館には映写室が併設されており、多くの観光客が日露戦争を解説する映像を見ている。

第三軍司令官乃木希典である。乃木は旅順攻囲戦を成功させたが日本軍兵士に多くの戦傷者を出した。そのため、後世の評価は名将論、愚将論など分かれている。また、乃木は無骨で飾らない性格であったようである。

旅順要塞司令官ステッセリが降伏し、水師営の会見が行われたが、乃木は彼らの武人としての名誉を重んじて会見写真を一枚しか撮影させなかったという。

日本艦隊の司令官東郷平八郎である。

日本海海戦でバルチック艦隊に対し、敵前大回頭戦法で一方的勝利を収め、世界を驚かせた。

旅順口閉塞作戦での日本軍沈船位置図である。作戦は三次に渡って行われたが、沿岸砲に阻まれて成功しなかった。

旅順港は湾の入口が狭くこれを閉塞しようとしたが、どの船も入口に辿り着く前に撃沈・自沈しているのが分かる。

当時の写真である。

海面から沈んだ船のマスト部分が見えている。

陳列館中央には旅順周辺の大きいジオラマが置かれている。

地形の起伏が付けられており、旅順港と「203高地」や「東鶏冠山北堡塁」などの主要要塞との位置関係が、場所の細かいイメージを持たない観光客にも分かりやすい。

「203高地」争奪戦の写真である。

兵士の遺体が斜面を埋め尽くしており、激戦を物語る。

「銃砲類」

日露戦争当時の砲弾の破片である。

平成8年(1996年)に清理北堡塁から発掘された。

同じく清理北堡塁から発掘された「三十年式歩兵銃実包」である。

日露戦争時代のものであるようだが、詳細不明である。

「二十八糎砲(28cm砲)」の砲弾である。「二十八糎砲」は「イタリア式28cm榴弾砲」を原型としていた。一方ロシア軍はドイツのクルップ社の「28cm砲」を使用していたが、この砲は「イタリア式28cm榴弾砲」の原型となったものである。

そのため、日露双方でほとんど同じ規格の大砲を使う状態となり、日本軍が撃ち込んで不発となった砲弾にロシア軍が「47mm速射砲」用の信管を付けて撃ち返すという珍事が発生した。

ロシア軍の「マキシム機関銃」である。

アメリカ人マキシムにより設計されたこの機関銃は射撃時の反動を薬莢の排出と再装填に利用して毎分600発の発射速度があり、それまでの外部動力による連発銃から飛躍的に発射速度が上がった。

一方日本軍も機関銃を装備していたが、この時代の機関銃は重量が大きく移動させるのは容易ではなかった。

そのため、要塞に据え付けて射程内に敵兵が来るまで待ち構える防御的運用法を取ることのできたロシア軍側に分があった。

「土産物屋」

「陳列館」の前に観光客に土産物を売っている店があるが、ここにも日露戦争・満州関連の資料がある。

日露戦争全体の経過を表した図である。

「男装の麗人」として有名な川島芳子である。

満州事変から支那事変の時代に日本軍の工作員として諜報活動に従事したと言われている。戦後は中華民国政府に逮捕され、銃殺刑となった。

「望台山砲台」

「東鶏冠山北堡塁」の西500mにロシア軍の砲台がある。

旅順の砲台のなかで最も高い標高185mの場所にあり、ここからは「旅順攻囲戦」の舞台となった堡塁のほとんどが見渡せる観光スポットである。

ここには碑と二つの大砲があり、大砲には明治32年(1899年)ロシア製の刻印が残っているそうである。

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